江戸期の観音禅寺 (2)  徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

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江戸期の観音禅寺 (2) 徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎県立美術博物館「長崎県久賀島、野母崎の文化 Ⅱ」昭和57年所収の徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」82〜87頁は次のとおり。野母崎町は現長崎市。
文が長いため、(1)と(2)に分けた。これは(1)からの続き。

(五) 江戸期の観音禅寺

さてこの寺と長崎の町人とを結びつけていたのは、観音信仰と徒歩旅行時代の行楽である。観音信仰そのものからすれば、江戸期に入る少し以前から著名になっていたようであるが、ここの観音詣は特に長崎の町と成立と関係深く、長崎の町の賑わいはこの寺の賑わいにも反映したと思われる。長崎から観音禅寺まではその距離が七里といわれ三十キロ弱である。徒歩旅行時代の参詣にちょうどよい距離だったようで、道筋は長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた。この観音寺詣にたどる道には、道塚が立っていたようで、これは寺の階段脇の石柱銘によって、天明四年(一七八四)長崎勝山町石工山下○○の寄進によることが知られる。「道塚五拾本」とある。
この天明期ころが最も観音寺詣が盛んだったのであろう。観音堂の再建、真鍮水器一対(長崎道賢)、観音寺縁起仮名木版(後興善町坂本庄五郎)、石門の建立、経蔵(唐船方日雇頭中)、水盤(深堀伊王島○○)、中太鼓などの寄進が集中している。時代が少し下るが、天保十五年(一八四四)の寄進になる銅製のカネの多くの寄進者名の中には丸山遊女らの名も見え、その信者の層の広さも感じられる。

江戸期の画家司馬江漢は、絵画修行と名所名物案内本の取材も兼ねて長崎まで旅行したが、彼も長崎の知人に誘われて、一泊宿りのこの観音寺詣を楽しんでいる。彼の『西遊日記』には次のように記し、木版本として出版された『西遊旅譚』では、観音禅寺を少し上方の遠見山近くからの俯瞰図の中に描き込んでいる。
「(天明八年十月)十二日、天気にて、朝早く御崎観音(へ)皆々参ルとて、吾も行ンとし、爰より、七里ノ路ナリ。(稲部)松十郎(おらんだ部屋付役)夫婦、外ニかき(鍵)やと云家の女房、亦壹人男子、五人にして参ル。此地生涯まゆをそらず。夫故わかく亦きり(よ脱ヵ)うも能く見ユ。鍵(カキ)や夫婦ハば(はヵ)だし参リ。皆路山坂ニして平地なし。西南をむいて行ク。右ハ五嶋遥カニ見ユ。左ハあまくさ(天草)、嶋原見ヘ、脇津、深堀、戸町など云処あり、二里半余、山のうへを通ル所、左右海也。脇津ニ三崎観音堂アリ、爰ニ泊ル。
十三日 曇ル。時雨にて折々雨降ル。連レの者は途中に滞留す。我等ハ帰ル。おらんた船亦唐船沖にかゝり居ル。唐人下官(クリン)の者、七八人陸へ水を扱(汲)みにあがる。皆鼠色の木綿の着(キ)物、頭にはダツ帽をかむりたり。初メて唐人を見たり。路々ハマヲモト、コンノ菊、野にあり。脇津は亦長崎より亦(衍ヵ)暖土なり。此辺の土民瑠(琉)球イモを常食とす。長崎にては芋カイ(粥)を喰す。芋至て甘し。白赤の二品(ヒン)アリ。」、(黒田源次・山鹿誠之助校訂『江漢西遊日記』より)

また寛政六年出版の『西遊旅譚』には、
「十月十二日長崎より七里西南乃方、脇津と云所阿り。戸町、深堀など云所を通りて、其路、山をめぐり、岩石を踏(ふみ)て行事、二里半余(ヨ)、山乃頂(ウヘ)人家なし。右の方遥(ハルカ)に五島見(ミル)是ヨリ四十八里。左の方天草島(アマクサジマ)、又島原(シマハラ)、肥後の国見(ミエ)て、向所(ムカウトコロ)比国無(ナク)、日本乃絶地(ゼッチ)なり。脇津、人家百軒余、此辺琉球芋(ヘンリュウキュウイモ)を食(ショク)とす。風土暖地にして雪不降(フラズ)。ザボン、橙其(ダイダイ)外奇草を見る。」
江漢らが宿泊したのは多分本堂ではなかろうか(現在のものは再建)、ここはつい最近まで宿泊所として開放されていた。絵画家と関連して、観音堂の天井絵について触れておきたい。この有名な天井は、その落款に次のようにあることが知られている。
「長崎画史鑑賞家七十九翁、禁衣画師石崎融思敬写、同石崎融済謹写、補助石崎融吉敬写」
石崎融思は当時の唐絵目利の長老格であり、七十九才といえば彼の没年であり、弘化三年(一八四六)にあたり、二月に没している。この天井絵にはシーボルトの絵師であった慶賀の名に成るものもある。慶賀はこの時六十一才で、それより少し前の天保三年(一八四二)にはオランダ人のために国禁に触れるような図書を描いたとして、二回目の江戸、長崎の所払いを命じられている。石崎融思は慶賀の父、川原香山とも親しく慶賀の出版物に序文すら寄せていて、この不遇の出島出入の画家であった慶賀を引き立てている。この天井絵もまた、所払いの身であった慶賀を引き立てて仕事を与えたのかも知れない。

江戸時代のこの寺は、以上見てきたように長崎の人々の行楽と観音信仰によって支えられたようで、余り曹洞宗の禅寺としての姿はみえない。ただ明治に入ってからは長崎の文人墨客がここによく逗留しており、画冊の寄せ描きも残っているし、書道界に名の知れた川村驥山も、若いころかなり永いことこの寺に寄宿し、多数の書を残している。

(注  本稿は、会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集35〜38頁に掲載している。「みさき道」の道筋が「長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた」とする部分は、一般的でなく疑問があろう。「道塚五拾本」は「今魚町」の寄進である。また、長崎医学伝習所生だった関寛斎「長崎在学日記」に、「みさき道」研究の第一級の史料、御崎紀行があるのに、取り上げられていない)