江戸期の観音禅寺 (1)  徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

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江戸期の観音禅寺 (1) 徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎県立美術博物館「長崎県久賀島、野母崎の文化 Ⅱ」昭和57年所収の徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」82〜87頁は次のとおり。野母崎町は現長崎市。
文が長いため、(1)と(2)に分けた。続きは(2)へ。

(五) 江戸期の観音禅寺

前年度と今年度の報告として紹介した、この寺の資料からも知られるように、この寺に現存する資料の中には、江戸期より前のこの寺の状態を知るうえでの直接的な資料は、観音堂に安置する千手観音像と縁起を除けば一点もない。しかも千手観音像単独での存在であることから、当初からこの寺にあったかどうかについて疑問をもつ人もあり、したがって江戸期より前のこの寺について知るうえでの資料としては、縁起と深堀家文書がほとんどであり、この点から考えられる事柄は先の(四)で述べた。
即ち、歴史上、「肥御崎寺」が存在したことは明確な事実であり、仁和寺の末寺であったことまではわかっている。平安末期から中世にかけて、この寺が存在していたとすれば、その伽藍があった場所には当然、石碑類が存在しているはずであるが、現在の境内にはそのように古い時代のものは一点も発見できない。したがって口伝でいわれるように、現在の境内は近世またはそれに近い時代になって新たに興されたのではないかと想像できる。
旧寺蹟の存在を知るためには、この石碑類の発見や古瓦の発見が重要であるが、その土地らしいといわれる、もっと奥の小高い場所へは、現在ではそこへ通じる山道の通行者がなく、立入りが不可能になっていて、今回の調査では現地の実見ができなかった。冬場の草枯れの時期に調査せねばならない。

観音堂そのものの実際の移建は前章で述べたように、観音信仰と同時に、村民の寺としての存在という関係からも、江戸期に入るより少し前に行われたと考えられるし、現存する観音堂の堂内の構成が、密教寺院の様式をそのままうけついでいて、この堂はこの寺が曹洞宗の禅院として再興される以前に、この地に建立されたと考えられる。そしてこの観音禅寺が実際に寺名を「観音禅寺」としたのは、江戸期に入り深堀の曹洞宗の菩提寺の末寺に組み入れられてからの名称であり、この野母一帯が佐賀鍋島領となってからのことであることを示している。
観音堂はこの寺が禅寺に変る以前に、再建されたことは縁起からも知られたし、観音信仰の力に守られていたものと考えられ、幕府の政策に関係して曹洞宗への転宗が行われても、この寺のそれ以前の信仰形態を完全に断ち切ることができなかったことが、この寺の観音堂を中心とした伽藍や、観音堂内に残る密教様式から判断できる。
ただ前述のように、この寺に現在存在する絵画資料をはじめとする寄進の様々や、境内の石碑物などは、江戸期に入っての寄進によるものであり、それもほとんどは長崎の町人によるものである。このことは実際にこの寺を江戸期に支えたものが、長崎の町人の観音信仰が主であったことを如実に物語っている。この寺の再興と現実の繁栄は、実に長崎の開港、江戸期を通じてのわが国唯一の開港地として栄えた町人によるところが大きかったのである。

先に引用したこの寺の最も古い縁起には裏書きがある。しかしこれは巻子装であるため、すれて消え、判読不明の部分もあるが、この縁起の表装が商取引のため長崎を訪れた、京都の萬屋徳兵衛の喜捨によることが記されている。これはこの表装が成った宝永年間頃には長崎への外来者さえも訪れるくらいに著名な寺となっていたのである。
また観音像の脇待の造法を見ると、長崎の黄檗寺院で見られる中国様式による木寄法を用いていて、中国人との何らかの関係も考えることができる。ただ中国人の直接のこの寺への参詣は許されていなかったようで、この寺にある丁運鵬筆の羅漢渡海図巻に対する、中国人十三人による讃文巻子への揮毫は、唐通事へこの寺の住職が依頼することによって成ったものである。唐通事のうちの数人は、かなりこの寺と密接な関係があったようで、来舶画人であった費漢源に学んだ楊利藤太はこの寺の寄進目録に名が見えるし、頻川氏によっては、十八羅漢図などが寄進されている。

この寺の所蔵品の中で注目すべきものの一つに、先に引いた丁雲鵬作の羅漢渡海図巻とその讃文巻子そろいの二巻がある。図巻の方は多分、天明年間に寄進されたものであろう。丁雲鵬は中国明代の画家で、白猫の仏画を善くしたといわれる。その羅漢図巻の真贋を問うこともあってか、観音禅寺第八代の泰田が唐通事に預け、中国より来舶していた中国人から画讃をうけたものである。これらの中国人の中には、費晴湖の名も見える。この当時、長崎に来舶した清人の名称と足蹟が知られる点でも興味深く、これらの画讃が記されたのは後に記す司馬江漢が長崎に来たころとも近い時期で、彼の西遊旅譚にも当時長崎に来ていた中国人名が知られ、その中にも費晴湖の名が見える。このころの長崎での中国人との交流の一端が知られる。
次に注目すべきものとして「常陽寿昌沙門東海拝画」の款をもつ達磨大師半身像がある。これは紙に太筆によって大描きした大作で力作である。沙門東海は長崎東海禅寺(不明)に住し、のちに水戸祗園寺の住職になった。常州那珂郡石神村鈴木直右衛門の男、画法は桜井山興に学び、花鳥人物に工、よく河豚魚を写す。世に東海の河豚と称されるという。享和二年(一八〇二)十月三日寂す。年八十三という。
東海禅寺は不明だが、あるいは中国人東海の墓のある長崎市内の春徳寺のことを指しているかもしれない。どのような経過でこの作品がこの寺に入ったか不明だが貴重な作品と思われる。

次ぎに石塔の中には豪潮の名を記した宝篋印塔がある。名を寛海律師といい、八万三千煩悩主人と号す。肥後州玉名郡に生れ、比叡山に学び、仏乗および儒教に長じ、かたわら書画をよくし、近世の名僧といわれる。一時玉名郡の寿福寺をついだが、八万四千の宝篋印塔の建立を発願して西日本から名古屋に渉って建立している。文化元年(一八〇四)には長崎に滞在したことが知られており、この際にこの脇岬もおとずれ建立の機会を持ったものと思われる。他に長崎市内の本河内やその他、また平戸最教寺にも同様の塔が存在している。この寺の塔も豪潮の足蹟を知る上で貴重な資料である。
また観音堂の左脇にせまっている斜面に、かなりの数の石仏が存在しており、またさらに上方にも数体散在しているが、その中には享保年銘をもったものがあり、これらは力強い彫を見せ、中国系仏像の流れによる表現をもっていて、長崎を中心に行われていた中国系の仏像彫刻の作例として貴重であろう。
その他に江戸期の仏器と明確にわかるものであり、近世の仏器関係、特に中国系の仏器の様式的基準を示すものとしての重要性もあると見られている。

以下、(2)に続く。

(注  本稿は、会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集35〜38頁に掲載している。「みさき道」の道筋が「長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた」とする部分は、一般的でなく疑問があろう。「道塚五拾本」は「今魚町」の寄進である。また、長崎医学伝習所生だった関寛斎「長崎在学日記」に、「みさき道」研究の第一級の史料、御崎紀行があるのに、取り上げられていない)