江上忍氏県議会だより掲載記事 「みさき道」 平成15〜17年
「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。江上忍氏県議会だより掲載記事「みさき道」平成15年〜平成17年。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行153〜154頁ですでに紹介済み。
其の2の「観音参り」は三和町郷土誌850頁、為石の「オカンノン様参り」は852頁にある。これら近郊の行事で「山道を通った」という記述は重要であるが、どのコースを通ったまでは詳細がない。推定できるのは、明治18年「西彼杵郡村誌」にあった「脇岬村路」である。
今回の調査は、野母崎町関係もわからないことが多く協力を依頼した。江上先生もそのひとりである。やはり地元は別の視点があり、たいへん参考となった。川原方面から脇岬に至る半島東回りのコースも多く利用されたようである。川原で明治のその道塚まで見つかった。
しかし今回の調査は、関寛斎の歩いたルートを通し、文久元年のみさき道(御崎道)の本道がどこか、文献・街道図・道塚で考えなければならないので、ご了承をお願いしたい。
特に其の1において、みさき道の本道が「今のゴルフ場から殿隠山、遠見山、堂山を経て」観音寺に至るとする点は疑問が多く、これまで指摘している。
江上忍氏県議会だより掲載記事 「みさき道」 平成15年〜平成17年
「みさき道 其の1」 第1号補足版 平成15年発行
長崎から御崎の観音様に通ずる山道は、「みさき道」と呼ばれています。天明八年(1788)長崎を訪れた江戸の画家司馬江漢の「西遊日記」に長崎の人に誘われて観音詣でをしたことが次のように書かれています。「十二日天気にて朝早く御崎観音へ皆々参ルとて、吾も行ンとて爰より七里ノ路ナリ。(中略)皆路山坂ニして平地なし、西南をむいて行ク。右は五嶋遥カニ見ユ。左ハあまくさ(天草)、嶋原見ヘ、脇津、深堀、戸町など云処あり。二里半余、山の上を通ル所、左右海也。脇津ニ三崎観音堂アリ、爰ニ泊ル。」
又寛政六年(1794)に刊行された「西遊旅譚」には、「(前略)向所比国無、日本の絶地なり。脇津人家百軒余、此辺琉球芋を食とす。風土暖地にして雪不降。」とあります。
長崎の十人町からスタートとして、新戸町、小ヶ倉、深堀、蚊焼峠(秋葉山)、今のゴルフ場から殿隠山、遠見山、堂山を経て観音寺に至る七里の道です。観音寺の上のお堂に上かる石段の右下に、このみさき道の道標五十本を寄付したことを示す石柱があり、「道塚五拾本、今魚町、天明四年」などと刻してあります。
十人町二丁目から右折して石段を昇って自治会掲示板そばに第一号があり、今は読めませんが、「みさき道」と書かれていたといいます。このほか上戸町山中や小が倉二丁目の旧道など六ヵ所が確認されています。高浜山中の自転車道には「長崎ヨリ五里御崎ヨリ二里」とあり、「文政七年申十二月今魚町」と読めます。嶮しい山中に重い道標を五十本も設置した「みさき道」は昔の人にどのように利用されていたのか。国道四九九号と重ね合わせて議会だよりの編集後記の標題とした次第です。(略)
「みさき道 其の2」 第2号 平成16年4月23日発行
前回の県議会だよりにみさき道のことを書きました。長崎から御崎の観音様に通ずる山道のことです。長崎の十人町から二本松、上戸町、新戸町を経て、いったんは鹿尾川に突きあたって磯道にくだり、土井首、深堀、大籠から晴海台と平山台の間を通り、国道499号の晴海台入口道路のちょっと栄上寄りの所に出ます。あとは秋葉山、ゴルフ場、殿隠山、遠見山、堂山と全て尾根道です。途中蚊焼から黒浜、以下宿を通って徳道で尾根道に合流するコースと徳道から高浜、古里を通って堂山峠に至るコースもあったようです。今でいうバイパスだったのでしょう。
寛永15年(1638)老中松平伊豆守が日野山(今の権現山展望公園)に遠見番所を設置して、遠見番十人が長崎から交代で勤務するようになって、みさき道は軍用道路としても重要になってきました。十人町という町名は、遠見番十人の役宅があったことから名づけられたものです。
寛政6年(1794)に刊行された江戸の画家司馬江漢の「西遊旅譚」に「長崎より七里西南乃方、脇津と云所あり。戸町深堀など云所を通りて、其路、山をめぐり、岩石を踏て行事二里半余、山乃頂人家なし。右の方遥に五島見是ヨリ四十八里。左の方天草島、又島原、肥後の国見て、向所比国無、日本の絶地なり。」とあります。最果ての地に50本もの道標を建て、京や江戸の文人墨客まで足を運んだ「みさき道」とはなんだったのでしょう。
三和町郷土誌の年中行事の欄に「脇岬参り」として、「元日の午前中、漁師の男衆はフンドシ裸姿の素足で、船名旗や大漁旗をたてた漁船で脇岬の観音様へ参詣する。脇岬の観音様は古くは肥御崎寺(ひのみさきてら)と記されて由緒のある名山であった。—中略—なお、女性は1月17日に観音様参りをする。」とあります。また為石では毎月17日「オカンノン様参り」をしたとの記録もあります。観音様の話はあとに譲り、みさき道の話を続けます。
なぜ山の上を通ったのかといえば、海岸は絶壁で通れないところが多かったからでしょう。市民病院や湊公園辺りは海で、浪の平や小曽根辺りも絶壁で戸町まで行くのも山越えでした。おかしなことに、「みさき道」を地元の人は知りません。「みさき道」は、長崎や深堀、三和町などの人たちが御崎の観音様にお詣りするための道で、地元の人が長崎に行くための道ではなかったのです。地元の人が長崎に行くには、高浜、岳路を通って蚊焼に出るか、木場、川原を通って為石に出る方が楽なのです。
文久元年の4月に、御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生関寛斎は、尾根道から高浜に下り、古里、堂山コースを通ったようで、「下りて高浜に至る、此の処漁場なり、水際の奇岩上を通る凡そ二十丁、此の処より三崎まで一里なりと即ち堂山峠なり、此峠此道路中第一の嶮なり、脚労し炎熱蒸すが如く困苦云ふべからず、下りて直に観音堂あり。」と書いています。尾根道を通って堂山に下るのは易いが、堂山峠を登るのは古里側からも脇岬側からも難所だったのです。
三和町郷土誌には、18ページにわたって「みさき道」のことが詳しくし紹介されているのに、野母崎町の郷土誌にはなにひとつ載っていません。さきの関寛斎についても年表の中に「文久元年4月3日長崎遊学中の関寛斎(のちに医者)、長崎—戸町—加能(鹿尾)峠—小ヶ倉—深堀—八幡山峠—蚊焼峠—長人—高浜—堂山峠—観音寺のコースで歩く。」とあります。「みさき道」の文字はありません。
「これより観音道山道十丁 みさき道(其の3)」 第3号 平成17年4月28日発行
長崎から御崎の観音様へお詣りする人たちは、物見遊山を兼ねて尾根道を歩いたようです。この「みさき道」のほかに海路がありました。野母と脇岬を結ぶ国道脇に「従是観音道山道十丁」と書かれた石柱があります(「従是」は「これより」と読みます。)。野母の港からこの道標のところまでは、畑道や砂浜を通れますがそれから先は切り立った岩盤が海に突き出ており通れませんでした。仕方なく山道に入り、わずか1キロぐらいで海水浴場の近くに出ます。
この石柱には、「元禄十丁丑九月吉日願主敬建」とも書かれており、みさき道に今魚町によって建立された五十本の標柱とは、年代も百年ほど古く、今から三百年ほど前のものです。
長崎野母間の定期船は明治16年に三山汽船(本社時津港)により、一日二便が運航されていますが、それ以前にもなんらかの船便があったようです。長崎遊学中の医学生関寛斎は、文久元年(1861)4月3日みさき道を歩いて観音寺を訪れた翌日、野母に行き、「船場に至り問ふに北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、」と記しています。
漂白の俳人山頭火も、昭和七年二月七日に観音寺を訪れていますが海路だったようです。その前に滞在した長崎の俳友宅は、大浦の酒屋さんで、酒好きの山頭火にとっては、どんなにありがたかったのではないでしょうか。「人のなさけが身にしみる 火鉢をなでる」という句を残しています。「まえにうしろに海の見える 草に寝そべる」は、脇岬の砂丘での句です。
写真は、脇岬海岸にある「従是観音道」「山道十丁」の道塚。本ブログの次を参照。
https://misakimichi.com/archives/97