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長崎医学伝習所近くで「高禅寺」はどこを考えられるか (2)

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長崎医学伝習所近くで「高禅寺」はどこを考えられるか (2)

関寛斎日記の末尾に出てくる帰塾先「高禅寺」の所在は、前項のとおり芦屋市平幸治氏とも史料などで調べている。長崎大学医学部附属図書館のポンペ資料館にも聞いたが、ここも何も史料はないらしい。

最近わかったのは、昭和13年刊「長崎市史 地誌編佛寺部 下巻」の記述である。崇福寺にあった「廣善庵」は読み方が同じとなり、聖福寺に合併された「普明院」が「幕吏の旅館となり、定宿所に指定せられ」ていたことがわかった。
平氏の書簡によると「松本良順も最初は本蓮寺に寄宿し、西役所および大村町の伝習所に移り、後には唐寺興福寺に移住した…」と記されている。玉園町の聖福寺は筑後町の本蓮寺、鍛冶屋町の崇福寺は寺町の興福寺の近くである。
建物が同じ時期あったか、建物の規模がどの程度かわからないが、「高禅寺」解明の少しは手掛かりになると思われ、市史の記述の関係部分を抜粋してみる。

「長崎市史 地誌編佛寺部 下巻」 崇福寺の項    467頁
廣 善 庵    本尊 釈迦如来  寛文八年創建
当寺山門の附近に在つた。寛文八年、和僧独振 林大卿の長子林大堂即ち林仁兵衛、元禄七甲戌年閏五月六日黄檗山に於て示寂、世壽八拾五歳 の創建したものであるが、明和三年二月廿七日夜、西古川町より失火せる大火に際し、当庵は全焼した。その後当庵は再建せられなかつた。

「長崎市史 地誌編佛寺部 下巻」 聖福寺の項    604〜605頁
普 明 庵    廃庵
本尊 観世音菩薩 明治に入りて釈迦如来を本尊とした。天和二年創建
普明庵は当寺境内地蔵堂の後方地続の地 現今上筑後町弐拾五番地もと上筑後町掛四ヶ所 に在つた。天和二年に鉄心の開創したものである。正徳二年、二代暁岩は之を再建し、後此処に退隠 八ヶ年 した。
元文四年五月唐船主等は、当院兼帯小瀬戸南海山大悲堂に於て毎年唐船海上往返安穏の祈祷を行はん為め、唐船一艘より祈祷料として、当院に銀五百目宛の寄附を為すことになつた。同年六月、当院背後の石垣崩壊して、大損害を受けたので、費銀を長崎会所より借りて、之に修理を加へた。安政初年頃より幕吏の当地に出張する者多く当時市内に適当の宿舎無かりし為め、当院は其の旅宿に充てられ、萬延元年八月以降は其の定宿所に指定せられた。
明治十年堂宇の破壊甚だしかりし為め、大修理を加へた。同四十一年六月十五日、当院の維持困難なるにより聖福寺に合併を出願し、同年八月十三日附長崎縣指令第二九三六号を以て之を聴許せられた。而して右の地所家屋は聖福寺の所有に帰した。当時の当院々主は青木無明で、其の財産は左の如きもので在つた。… 

「復習已二終ルノ后ナリ」と「高禅寺」の所在  平氏の調査

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「復習已二終ルノ后ナリ」と「高禅寺」の所在  平氏の調査

次は平成17年10月、兵庫県芦屋市に住む平幸治氏からいただいた書簡の一部である。平氏は「肥前国 深堀の歴史」(長崎新聞社 平成14年刊)の著者で、長崎深堀生まれ。郷土深堀の歴史に興味を持たれ、「みさき道」を記述した関寛斎の日記も研究レポートが縁で同氏の目にとまり、さまざまな専門的な研究と貴重な指摘、助言をいただいている。
帰塾先「高禅寺」に関する部分について、氏からの書簡の内容を紹介しておきたい。
なお、「復習已二終ルノ后ナリ」は、長崎談叢19輯の引用文は省略しているが、日記の末尾「高禅寺二帰塾ス」の後に、原文では出ている。

H 「復習已二終ルノ后ナリ」について
「講義を復習する時間がすでに終ってしまった後だった」という意味ではないかと解釈しました。「已」は「すでに」と読んでよいと思います。「已」は十二支の「巳」とは別字ですので(「イ・スデは中に」の「已」)、陸別町翻刻の「巳」は誤りだと思います。原文の写しは「己」(おのれ)に見えますが、文章の意味からすれば、「已二」(すでに)が通じやすいと思います。
この日(4月4日)は月曜日ですから、昼間はポンペの講義があったと思われます。夜になると松本良順が「復講」をしていたと思います。この「復講」または「復習」(自習か?)が日課になっていたのではないでしょうか。寛斎は遅く帰ったので、この日の復習に間に合わなかったのでしょう。
前日、寛斎らが出発した3日にも「朝課ヲ終リ」とありますから、日曜日でも朝の課業があり、月曜日ならなおさらか課業としての復習があったのでしょう。ただ日記に「復習」とあるのはここだけで、他所はみな「復講」とあるので(文久元年3月9日条ほか。なお同年2月22日条には「夜講」とある)、わたくしの解釈も正しいかどうかわかりませんが、一連の流れからすれば、この解釈も許されるのではないでしょうか。
長崎大学薬学部編「出島のくすり」64頁に、ポンペの講義を聴いてもオランダ語のよくわからない塾生に対して松本良順や司馬凌海・佐藤尚中がもう一度夜「復講」したという記述があります。「ポンペ日本滞見聞記」には、伝習生に対し「毎日四時間の講義をすることにした。午前二時間、午後二時間、それで彼らの講義を扱ったことを後でさらに深く研究するだけの時間的余裕があった」(新異国叢書本278頁)とあります。それにしても当時すでに日曜日を認識していたとは、はじめて知りました。

Ⅰ 帰塾先「高禅寺」の所在について
最後に、「高禅寺」について調べてみましたが、残念ながらわかりませんでした。「長崎市史 地誌編 仏寺部(上下)」にも見当たらず、同書の廃寺の記載にもありませんでした。引き続き調べてみたいと思います。
松本良順も最初は本蓮寺に寄宿し、西役所および大村町の伝習所内に移り、後には唐寺興福寺に移住したので、「高禅寺」というのも寛斎が下宿していたところだと思いますが、日記の他所の部分にも見当たりませんでした。万延元年12月23日、入塾の日には「入塾」とだけあり寄宿先などの記載はありません。後に、文久元年9月15日条に「稲岳新宅ヘ移居」、同年10月21日条に「新居ヘ移ル」とありますが、場所は書いてありません。
「復習」の場所が高禅寺なのか(「高禅寺に帰塾した。しかしながら復習はもう終った後だった」と読む)、あるいは復習は伝習所で行うけれども、復習終了後の時間だったので直接高禅寺に帰ったのか(「高禅寺に帰った。なぜなら既に復習が終っている時間であるから」と読む)。
前者なら、かつ「帰塾」とあるので寛斎以外にも寄宿している学生がいた可能性があり、且つ復講を主宰する松本良順の都合等も考えれば、大村町の伝習所に近い比較的大きな寺かも知れません。後者なら、寺町から伊良林あたり、あるいは寺の多い筑後町や本蓮寺近くの可能性もあるのではないでしょうか。いろいろ考えましたが、まだよくわかりません。

(次項へ続く)

長崎医学伝習所近くで「高禅寺」はどこを考えられるか (1)

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長崎医学伝習所近くで「高禅寺」はどこを考えられるか (1)

「高禅寺」が大村町の長崎医学伝習所近くとすると、今のところ考えられるのは、ほとんど当てずっぽすぎるが次の箇所である。

(1)前項の資料、中西 啓著「長崎医跡散歩」長崎文献社 昭和53年は32〜33頁において—日本動脈硬化学会のために—として第二章で「自然科学史跡」の紹介がある。このうち
(19) 佐藤泰然、林洞海宿泊地跡、小倉藩蔵屋敷跡、長崎師範学校跡(興善町五—三、長崎食糧事務所)
小倉藩蔵屋敷のあった新町六、七、八番地の地である。一八三五年春(天保六年三月十日)下総佐倉医和田泰然(のち佐藤家に入る)は長崎に留学、この地に宿泊し、オランダ商館長ニーマンについてオランダ医学を学んだ。一八三八(天保九)年、泰然は江戸に出て開業したが、一八四三(天保十四)年、故郷佐倉に順天堂を開いた。泰然はその長崎留学中、小倉藩屋敷から磨屋町のオランダ通詞末永祥守の家に移っているが、末永家は地番不詳で、旧居を確認できない。
とある。順天堂佐藤泰然は、関寛斎・佐々木東洋の師となる。

(2)長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年は、
113 大音寺(浄土宗・正覚山)(所在地:鍛冶町5番)を68頁で紹介している。このうち
大音寺は、慶長19年(1614)伝誉が開創。伝誉は筑後国の人で、野母の蔵徳寺を拠点に長崎での布教に従事した。最初、古町に中道院を開いたが、元和2年(1616)本博多町のミゼリコルディアの跡地を賜わり、同3年(1617)知恩院の末寺となった。寛永18年(1641)現在地に移され、同年、朱印地となった。
とある。「本博多町のミゼリコルディアの跡地」は、現在の万才町長崎地方法務局か。横の坂が深堀騒動の舞台となった大音寺坂(天満坂)で寺名のみ残る。ここらあたりも「興善」の地名がなかったか。興善にある寺から「高禅寺」と読み方は似てくる。

(3)同資料は、また
179 高林寺(曹洞宗・徳光山)(所在地:鳴滝1丁目6番)を72頁で紹介している。このうち
高林寺は、正保3年(1646)皓台寺住職一庭が開創。同寺は、最初、炉粕町にあったが、安政4年(1857)の諏訪神社からの火災で焼失した。明治45年寺地を三菱長崎造船所に売却、現在地に移転した。現在地にはかつて知足庵があったが(栖雲庵を天保5年(1834)に知足庵と改称)、同寺に合併された。
とある。高林寺は最初炉粕町にあった。三菱に売却とあり現在の三菱長崎造船所所長宅一帯のようである。この記述は鶴見台森田氏が見つけ出した。禅宗の寺で「高禅寺」とならないか。(次項へ続く)

(注) 「江戸時代(享和・1800年代)の長崎のまち」図は、嘉村国男著郷土シリーズ第二巻「長崎町づくし」長崎文献社から

関寛斎の寄宿ないし帰塾先「高禅寺」はどこにあったか

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関寛斎の寄宿ないし帰塾先「高禅寺」はどこにあったか

関寛斎は4月3日朝課を終りこの寺から出発し、浜の町を通って戸町峠へ向かった。4日は大浦で佐々木東洋・案内人長嶺圭朔と別れ、どこで入浴したかその後「高禅寺に帰塾」したら、復習はすでに終ったあとだった。

「高禅寺」の字は、日記原文を見ても間違いない。「帰塾」ないし「寄宿」先だったこの名の寺の所在について、史料を探しているが今のところわからない。私や「肥前国 深堀の歴史」著者芦屋市平幸治氏も、「長崎市史 地誌編 仏寺部(上下)」を確認したが、同書の廃寺にも記載はなかった。
私が願うのは、中西 啓著「長崎医跡散歩」長崎文献社 昭和53年は32〜33頁において—日本動脈硬化学会のために—として第二章で「自然科学史跡」を紹介している。日本近代医学の先駆けとなった長崎医学伝習所と学生の生活ぶりをもう少し明らかにしたいからである。

『長崎談叢19輯』(昭和12年発行)所収の林郁彦稿「維新前後における長崎の学生生活」(21〜22頁)には、「文久元年4月は、長崎医学伝習所は西役所近く大村町の高島秋帆宅(今のグランドホテル)にあった。(今の佐古小学校地に)小島養生所が新築されたのは、同年8月である。4月頃はまだ生徒が少なく全員を寄宿舎に住まわせていた」と記されている。
すると「高禅寺」は大村町でなければならない。佐々木東洋は「旅宿」に住んでいた。寛斎は戸町峠で「家宿」土産の茶を買った。同頁でこのような「関寛斎日記」を続けて紹介しているので、読み手はすぐ矛盾を覚える。林氏説を一応白紙にして、「高禅寺」探しにかかった。(次項へ続く)

(注) 「江戸時代(享和・1800年代)の長崎のまち」図は、嘉村国男著郷土シリーズ第二巻「長崎町づくし」長崎文献社から

小説「胡蝶の夢」などに見る医学生「関寛斎」の晩年

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小説「胡蝶の夢」などに見る医学生「関寛斎」の晩年

次は、司馬遼太郎著の朝日新聞に連載があった小説「胡蝶の夢」の終章部分である。関寛斎の晩年を知るため、単行本から長くなるが抜粋してみた。
なお、関寛斎の子「又一」について、北海道陸別町のホームページでは「長男」とあったが、この小説では「四男」となっている。同陸別町の関寛斎資料館頒布冊子「関寛斎」によると、やはり「四男」とされている。「明治二十五年には四男又一が札幌農学校に入学し(略)長男生三を医者として独立させ、次男周助は経済界に入り」とある。
しかし、「寛斎の足跡」の年表では、生三・スミ・大助・周助・文助・コト・末八・トメ・餘作・又一・五郎・テルの順で子を成している。「又一」は実際は「七男」なのである。幼年で死んだ子が多くそのためであろう。関家が医者でありながら、当時の時代の苦難がおしはかられる。
関寛斎資料館同冊子において、そのほか参考となる「晩年の寛斎」「人頭骨標本写真」「関寛斎に関わった人々」などがあったので、あわせて掲げてみる。

司馬遼太郎著 「胡蝶の夢」(五) 新潮社 昭和54年 257〜262頁

ふたたび私事になる。
この小説は私の印象の世界を流れている潮のようなものを描こうとした。自然、主人公は登場した人間の群れのなかのたれであってもよかったのだが、しかしこの流れにとってもっとも象徴的な良順と伊之助、それに関寛斎の足音と息づかいに気をとられることが多かった。とくに寛斎が登場したころ、
「私は北海道陸別町の出身で」
という初老の僧侶の来訪をうけたことが、その土地を拓いて死んだ寛斎についての想いを、血の泡だつような感じのなかで深められてしまうはめになった。
「寛斎さんについては、よく存じません。ただ私どもが生れた陸別という人口五千の小さな土地を拓いてくださった人として感謝しています。故郷への想いと寛斎さんへの敬愛の気持が一つのものになっています」
一九一四年うまれというこの真宗僧侶は戦中戦後アメリカにいたひとで、いまも宗門の地方での職についておられ、故郷から遠い。故郷の寺は弟さんが住職をされているという。
「陸別の冬は零下三十五度までさがって、北海道では旭川とならんで最極寒の地です。私どもの少年のころ、家の中の酒も醤油も凍りまして、朝、目がさめると掛けぶとんの襟に、息で真白に霜がつもっていました」
と、寛斎のころ斗満(トマム)といったその地の自然の話をきくにつれ、そこで最晩年の十年をすごした寛斎の影がいよいよ濃くなってくるような気がする。
「寒冷がひどくて米は穫れません。こんにち五千人の人口は酪農と木材で食べています」
「寛斎さんが入植した当時(1902年)の北海道は、開拓するならどんな土地でも二足三文でころがっていたはずですが、わざわざあの寒い斗満を選ばれたのはどういうおつもりだったのでしょう」
と、品のいい微笑とともに言われたが、この件については簡単に説明がつく。
北海道開拓に関心のあった寛斎は、四男の又一を札幌農学校に入れた。又一が卒業後、父とともに開拓すべくさがしたのがこの地であった。明治三十四年(1901)に同校を卒業するにあたって学校に提出したかれの卒業論文は『十勝国牧場設計』というもので、斗満を牧場にするための具体的な立案書そのものが論文になっている。
「寛斎さんが七十三という歳であの土地を開拓するというのは、自分の力が堪えうる極限まで試してみようとされたのではないでしょうか」
寛斎のころむろん鉄道は陸別にきていない。
この奥地に入るには、川から川をさかのぼってやってきたのであろう。陸路を歩行するには原生林がまだ多く、たとえ跋渉(ばっしょう)できるにしても、大荷物の運搬が困難であり、それに途中、野獣に襲われる危険性が十分あった。

筆者が、旭川から大雪山の山塊の外縁を通って陸別に入ったのは秋のはじめであった。
奥地のせいか、陸別の秋の気の澄み方はおそろしいほどで、樹木の緑が真夏の量感をうしない、切り紙のように青い空に貼りついていた。陸別の町は国鉄池北線の駅の西方に集落ができており、集落の中心に町民の各種共有施設がそろっていて、小規模ながら瀟洒(しょうしゃ)な都市を感じさせた。
しかし町のまわりは森林——というより逆に樹海のある一点がまるく切りとられて——懸命に人間たちが生活圏をつくっているようでもあり、その規模の可愛さは、寛斎が明治期にきりひらいた平坦地空間からさほどひろがっていないのではないかと思われたりした。
この夏のはじめに私が訪ねてくださった真宗僧侶の生家が本証寺である。丘の上のコンクリート造りのその寺を訪れると、住職である令弟が待っていてくださった。そのうち、町のひとびとが集まってきて、自然、寛斎の話になった。
寛斎が徳島での土地家屋などをすべて売りはらってこの地に鍬をおろしたとしは、惨澹たるものであった。連れてきた馬匹が熊に襲われたり、まむし、虻(あぶ)などの害に遭ったし、きりひらいた畑にソバ、馬鈴薯、大根、黍(きび)などのたねをまいたものの、収穫がほとんどなかった。
「寛斎さんが作物をつくるのを、森の中のウサギ、ネズミなどの小動物が狂喜して待っていたような感じでした」
と、どなたかがいわれた。芽が出ると大挙してやってきたし、豆類がみのると、一夜にして食べてしまったりした。動物たちは太古以来、人間がつくる柔らかい野菜や栄養のある雑穀を知らなかったために、大変なよろこびであったようで、その上、霜害、風害があって、第一年目の一町歩余は徒労におわった。
第二年目は上乗で、牧草地二十町、畑地四町をひらき、ほぼ収穫があった。放牧地には牛十頭、馬九十五頭を飼い、熊の害はすくなかった。が、第三年目は馬四十頭が大雪のために斃死した。
寛斎は労働に堪えうるための肉体をつくることも怠らなかった。かれは徳島時代から冷水浴の実行者であったが、この地にきてからも続け、冬など、零下四十度の朝も斗満川の氷を割って水垢離をとった、と本証寺にあつまったひとびとが語ってくれた。
寛斎は、自分が買った土地を、開墾協力者にわけあたえてゆくという方針をとった。ただし、この方式に寛斎が固執し、息子の又一が、札幌農学校仕込みの経営主義を主張して反対しつづけたために真向から対立した。協力者たちに対する公案が果たせそうになくなったために、百まで生きるといっていた寛斎が、それが理由で自らの命を断ったともいわれている。
「翁が晩年の十字架は、家庭に於ける父子意見の衝突であった。父は二宮(註・尊徳)流に与へんと欲し、子は米国流に富まんことを欲した」
と、徳富蘆花は『みみずのたはごと』のなかで触れている。
この森林をめぐらした小さな町は、幾筋かの細流が流れている。そのうちの一筋の流れをわたって町の南郊に出ると、姿のいい丘がある。
その上に、寛斎とその妻お愛の墓がある。
寛斎は生涯お愛以外に女性を知らなかった。彼女は、夫が繁盛している医業をすてて開拓者になったときも、よろこんで寛斎についてきた。
「婆はえらい」
と、寛斎はひとにも語っていたが、晩年は小柄ながら顔までが寛斎に似てきて、兄妹かと思うひともいた。
このお愛が、入植三年目の明治三十七年五月、療養中の札幌で死んだことが寛斎には痛手であった。
子供たちへの遺言は、
「葬儀はおこなうな。夫が死ぬときは斗満の農場において営み、二人の死体は同穴に埋めよ。草木を養い、牛馬の腹を肥やす資にせよ」
というものであった。
お愛の死で、一時寛斎は衰弱し、ほとんど病人同然になったが、この翌年、馬の疫病が流行してたちまち五十数頭が病死したとき、協同者たちは斗満を去ろうとした。寛斎はひとびとに、
「去りたい者は去れ、わしはたとえ一人になっても踏みとどまる。牛馬が全斃(ぜんぺい)したとき、この地でかれら(牛馬)の霊を弔いつづけて生きるつもりだ」
といい、この艱難(かんなん)のなかで気力をよみがえらせたようで、一方においてアイヌと放免囚人の救済、あるいは自作農の設定という努力目標をかかげてみずからを励ました。
それらの努力は馬牛がぶじ殖えることで酬われたが、徳島に残ったかれの長男やその子が寛斎の財産を剥奪するために訴訟をふくむさまざまな手段に訴えつづけたために、気根がくじけはじめたようであった。死の年の五月に東京の徳富蘆花あてに形見の品と辞世の短冊二枚を送っている。
明治四十五年(1912)十月十五日、服毒して死亡、年八十三歳、翌日、遺志によって粗末な棺におさめられ、近在のひとびとにかつがれて妻お愛のそばに眠った。墓はただ土を盛った土饅頭があるのみである。
寛斎の医学書その他の遺品は、さまざまないきさつを経て、近年、陸別町に寄贈された。
たまたま私が訪れた日の数日前、町の郷土資料室のひとびとが整理していると、髑髏(どくろ)が一個出てきた。
「この髑髏です」
と、棚の上のバター色のその標本を係の人が指したとき、手におえないような感情のかたまりが背筋を走った。良順がポンペに譲られ、かれが江戸を脱走するとき、下谷和泉橋の医学所に置いて行ったという頭骨標本はこれではないか。
頭骨は上辺を標本として丁寧な細工で切り割られている。長崎時代、塾生たちが頭骨を卓子にのせて記念撮影している写真(防府市・荒瀬進氏蔵)があるが、その標本とどう見ても同一のものであった。そうと確信したとき、最後の蘭方医だった寛斎の生涯と思いあわせ、なにか夢の中に浮かびあがってくる白い魎(すだま)のようなものを見た思いがした。
——胡蝶の夢・完——

脇岬の観音詣でに長崎から1日で行かれたか

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脇岬の観音詣でに長崎から1日で行かれたか

近隣の集落からは行かれたかも知れないが、長崎市中からとすると普通の人では無理ではないか。七つ立ちといい提灯片手に午前4時頃長崎を出発、観音寺で昼食、真っ暗になって長崎へ帰りつくという1日行程であるが、往復56kmの山道である。余程の健脚と体力がないとできない。修験者野田成高は、「日本九峰修行日記」によれば「辰の上刻(午前7時頃か)発し、昼時観音寺着」と記しているが、彼は往復していないのである。

関寛斎の歩いた4月3日は新暦の5月10日頃となったので、日記と同じコースを同じ時期に同じ時間で歩けるか、試してみようと計画したが、私たちでも最初から歩ける自信はなかった。2回に分けざるをえなかった。片道でさえそうである。
これに関連し、平成17年5月末、会の催しでダイエー南長崎店から平山の長崎道から団地上に上がり、蚊焼から岳路・高浜を通り堂山峠を越えて観音寺まで、当時の道歩きを忠実に再現してみた。携帯電話の距離計測で磯道町からも22km、7時間かかった。

司馬江漢、関寛斎の行程も1泊2日である。観音寺は風待ちの唐船水夫を泊めたと記しているものもあり、寺は観音詣での人も宿泊させたのではないか。江漢は「爰(ここ。観音堂)二泊ル」。寛斎は脇津の「客舎」(やどや。旅館)。修験者野田成高は御崎村「峰隼人」宅泊りである。
一方、船便が野母または樺島、脇津を中心にしてあったことは、街道絵図などに航路が描かれており、わかるのである。宿屋は舟宿と言うとおり船着場に多くあった。観音詣での人も関寛斎と同じように利用したのではないだろうか。

以上は、平成17年刊第1集A−1、56頁の記述で「近隣の集落からは行かれたかも知れないが、長崎市中からとすると普通の人では無理ではないか」と述べていた。
このことは、長崎県立美術博物館「長崎県久賀島、野母崎の文化 Ⅱ」昭和57年刊所収徳山光著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」の「(五) 江戸期の観音禅寺」に、「大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた」と出てくる。「日帰り」が一般的に多かったようにとられる書き方である。

近隣の集落で聞いているのは、戦争に召集されたとき武運長久を願って必ず観音参りする習わしがあり、それは壮年の元気ある人たちの話で、明治末期や大正時代になると道もだいぶん整備されてきて、歩きやすくなったのではないだろうか。
同著には、また「江戸期の画家司馬江漢は、絵画修行と名所名物案内本の取材も兼ねて長崎まで旅行したが、彼も長崎の知人に誘われて、一泊宿りのこの観音寺詣を楽しんでいる。…江漢らが宿泊したのは多分本堂ではなかろうか(現在のものは再建)、ここはつい最近まで宿泊所として開放されていた」と、お寺の本堂を解放し宿泊所として利用させていたことを紹介している。

(注) 徳山光著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」は、第3集35〜38頁に関係資料1として掲載している。
なお、平成18年5月21日には、新聞に広報し10人ほどで完全な「みさき道」1日歩きを試している。湊公園午前8時発、三和公民館午後1時半着、脇岬観音寺に着いたのは午後6時。中食・休憩を入れて片道のみで約10時間の行程となった。 

「観音信仰」と観音寺参り(御崎詣)

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「観音信仰」と観音寺参り(御崎詣)

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊の原田博二氏稿「観音信仰と御崎街道」379〜395頁の関係部分は次のとおり。

観音寺は古くは仁和寺の末寺で肥御崎と称され、『元享釈書』にも記述されているように、観音信仰の一大霊場として大変著名であった。
観音信仰というのは、その名のように観音菩薩に対する信仰であるが、平安時代の末期からは末法思想の流行とあいまって、来世信仰・浄土教信仰が発達、観音信仰も来世救済の信仰へと変貌し、地蔵とともに引路菩薩として地獄抜苦・大悲代受苦の菩薩として仰がれた。さらに、勧進聖らによって多くの観音霊場が生まれ、清水寺や長谷寺が各地に広がるとともに、熊野や日光を補陀落山に擬する風習も流行、各地に熊野三十三度詣や三十三観音や西国三十三番の設定などが盛んにおこなわれた。江戸時代になると、各地に三十三所や六観音、または七観音などが盛んに設定され、民衆の行楽の風潮とあいまって、大変な賑わいを呈した。観音の縁日を十八日とする風習は、承和元年(834)、宮中の仁寿殿では毎月十八日観音供をおこなったことにちなむものといわれる。(略)

観音寺に現在でも伝えられている絵画類や多くの仏具類、境内の石造物などのほとんどは、江戸時代の長崎の人達によって寄進されたものであるが、このことからも、江戸時代に実際にこの寺を支えたものは、長崎の人達による観音信仰であったということがよくわかるのである。(略)
このように、江戸時代から長崎の人達による観音信仰は大変盛んで、行楽をかねての観音寺参り(御崎詣)は早朝より多くの長崎の老若男女で賑わった。この風潮は戦後もしばらく残っていたようで、朝まだ暗い内に長崎を発ち、観音寺で昼食、そして夕方暗くなって長崎に帰りつくという一日の行程であった。(略)

長崎と野母崎との関係は、寛永十五年(1638)二月、老中松平伊豆守が日野山頂上に遠見番所を設置して以来、重要視され、さらに、万治元年(1658)遠見番一〇人が常備されると(年中二人ずつ勤番、二十日交代、唐船帰帆時は四人勤番、毎年六月〜オランダ船の入港までは遠見番触頭十日交代)、一段と重要なものとなり、遠見番などの役人の往来も頻繁なものとなっていった。また、深堀鍋島家も諫早家と同様、佐賀藩の長崎警備の一翼を担っていて、長崎の浦五島町には深堀屋敷なども設置されていたので、長崎と深堀の間を往来する深堀の侍達の往来も多く、御崎街道は一面、軍用道路的な性格も有していた。

『長崎名勝図絵』には、長崎要路として東泊口、茂木口、頴林(いらばやし)口、日見嶺口、馬籠口、西山口の六つをあげており、「東泊口、長崎の南、更に南へ下れば深堀、野母浦。少し舟に乗って樺島に至り、あとは大洋である。」と記述されている。この東泊口というのは、西泊に対するもので、現在の戸町のことであるが、現在の梅香崎町や新地町、常磐町、大浦町にかけての一帯は、江戸時代は海であった。すなわち、湊公園や、長崎バス本社ターミナル、長崎市立市民病院、長崎税関なども江戸時代は海の中であった訳である。そこで、一般的には、市中から深堀・野母方面に行く場合は、船大工町・本篭町(篭町)から唐人屋敷の前を通り、十人町から大浦の石橋へと達するコースか、中小島や西小島から小田原を通って、現在の“ドンの山”から大浦の方へと下るコースを通っていた。(略)

修験者 野田成高 「日本九峰修行日記」による御崎観音詣での記録

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修験者 野田成高「日本九峰修行日記」による御崎観音詣での記録

修験者 野田成高は、文化10年(1813)に御崎を訪れ「日本九峰修行日記」に表わしている。関係部分を転載した野母崎町「野母崎町郷土誌」改定版、昭和61年刊の史料78頁は次のとおり。

野田 成高 「日本九峰修行日記」 文化十年(1813)

三月廿九日 半天。御崎の観音とて長崎より七里の當り霊仏あり、詣でんと辰の上刻発す、旅館主熊次郎並に八郎次父子同道也。唐船番所、石火矢臺一見す、昼時観音着納経本堂東向寺一ヶ寺、御崎村峰隼人と云ふに宿す。
(略 四月三日までは樺島を托鉢して滞留)
四月四日 晴天。樺島立、辰の刻。元の御崎村へ渡り野母と云處へ赴く、此處九州の西の果也。日の山大権現と云ふへ詣つ、麓より二十丁山に上る、御殿辰巳向、此處より三丁計西の山崎へ出れば長崎奉行の遠見番所あり、四方一目に望む、東は薩州甑島、硫黄ヶ島、天草島、西は五島壱岐、北は平戸、對島等也。絶景の地にて唐船阿蘭陀船も此前を通り長崎へ入港す。右両所の船遠眼鏡にて百里も沖に居るを見付け、長崎へ早速通す。此遠眼鏡台所々にあり、早く唐船を見掛けたる方長崎へ通知し、其甲乙を争ふ事也。此の野母崎役人を川原増蔵と云ふ、此番所にて望見し、永々話したる後御用の遠眼鏡を出して見せらる。五島、壱岐は廿里沖也、然れとも手に取る如く見ゆ、今夕此の番人増蔵宅にて宿す。
五日 野母村川原氏へ滞留。當所に町あり配札、昼より雨に成りたる故帰る。熊野権現に詣つ、又勝行院と云山伏宅へ行く。
六日 雨天。滞留。痘瘡守、安産守、段々頼むに付来祈念し遣す。麒麟けつ等貰ふ。琉球芋の団子馳走あり。
七日 晴天。野母立、辰の刻。深堀と云浦は肥前家の附家老鍋島七左衛門とて高三千也石、諸士家宅大分あり、町少々あり。皆々瓦葺也。當所権太夫と云ふに宿す。

司馬江漢「西遊日記」「西遊旅譚」による御崎観音参りの記録

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司馬江漢「西遊日記」「西遊旅譚」による御崎観音参りの記録

江戸の画家・文人、司馬江漢は、天明8年(1788)長崎を訪れ、御崎観音参りに行き、「西遊日記」及び木版本「西遊旅譚」に表わしている。
断片的な記述のため「みさき道」の詳細はわからないが、貴重な史料である。関係部分を転載した三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊の381〜382頁は次のとおり。

司馬江漢 「西遊日記」 天明八年(1788)

(天明八年十月)十二日、天気にて、朝早く御崎観音へ皆々参ルとて、吾も行ンとて、爰より七里ノ路ナリ。(稲部)松十郎夫婦、外ニかきや(鍵屋)と云家の女房、亦壱人男子、五人にして参ル。此地生涯まゆをそらず。夫故わかく亦きり(よ)うも能く見ゆ。かきや(鍵屋)婦ハはだし参リ。皆路山坂ニして平地なし、西南をむいて行ク。右ハ五嶋遥カニ見ユ。左ハあまくさ(天草)、嶋原見ヘ、脇津、深堀、戸町など云処あり。二里半余、山のうへを通ル所、左右海也。脇津ニ三崎観音堂アリ、爰ニ泊ル。
十三日 曇ル。時雨にて折々雨降ル。連レの者は途中に滞留す。我等ハ帰ル。おらんた船亦唐船沖にかゝり居る。唐人下官の者、七八人陸へ水を扱(汲)みにあかる。皆鼠色の木綿の着物、頭にはダツ帽をかむりたり。初めて唐人をみたり。路々ハマヲモト、コンノ菊、野にあり。脇津は亦長崎より亦暖土なり。此辺の土民琉球イモを常食とす。長崎にては芋カイを食す芋至て甘し。白赤の二品あり。

(注) 「三和町郷土誌」で(略)された部分を「野母崎町郷土誌」史料78頁から補完した。そのため、表記の違いが文中にある。

司馬江漢 「西遊旅譚」 木版本 寛政六年(1794)刊

十月十二日長崎より七里西南乃方、脇津と云所あり。戸町、深堀など云所を通りて、其路、山をめぐり、岩石を踏て行事、二里半余、山乃頂人家なし。右の方遥に五島見是ヨリ四十八里。左の方天草島、又島原、肥後の国見て、向所比国無、日本の絶地なり。脇津、人家百軒余、此辺琉球芋を食とす。風土暖地にして雪不降。ザボン、橙其外奇草を見る。

(注) 佐賀藩が作製し長崎奉行所が書き写した正保4年(1647)の「肥前一国絵図」と元禄14年(1701)の「肥前全図」の部分図写真が「野母崎町郷土誌」にある。御崎街道は正保時代は竿浦経由だが、元禄時代は深堀軽由に変更されて描かれている。
関寛斎は深堀を「迂路」と記したが、この司馬江漢日記や各資料、諸国道図里程表など見ると、深堀経由が昔からの本街道とも思えるのである。

関寛斎の脇岬観音詣でに同行したのは誰だれか

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関寛斎の脇岬観音詣でに同行したのは誰だれか

「長崎談叢19輯」の引用文では、4月4日帰路「黄昏大浦に着し飢あり三人共に一麺店にて三椀づゝ喫し別る」とあり、一行が3人であることがわかった。同行の2人は誰だれか。これは北海道陸別町の協力によって、同町資料館に保存する関寛斎「長崎在学日記」の原文写しが手に入り、「長崎談叢」が省略した4月3日記録の記事冒頭に「昨日ヨリ佐々木ト長嶺氏ヲ案内トシテ相約シテ三崎行ヲ催ス」とあったことによって、佐々木氏と長嶺氏なる人物と特定された。

佐々木氏とは、佐藤泰然が開いた佐倉順天堂の同じ門下生「佐々木東洋」で、師の養継子佐藤舜海と同行して関寛斎も長崎医学伝習所に入塾し、一緒に学んでいたのである。これは年表記事に名前があったことにより推定された。(京都で日本最初に腑分けしたのは「山脇東洋」。時代はまだ前)

一方、長嶺氏は不明で、「案内人」とあったため長崎の人かと、先の余録でふれていた。やはり、肥前平戸人、松浦肥前守臣「長嶺圭朔」であることがわかった。これは兵庫県芦屋市に住む平幸治氏(「肥前国 深堀の歴史」の著者)が、国会図書館などで調査してくださったお蔭である。同氏から受けた教示は次のとおり。(平成17年10月3日付書簡)

A 脇岬に行った3人のメンバーについて
日記の「佐々木」は研究リポートのご指摘のとおり、佐々木東洋であろうと思います。「長嶺氏」は平戸の長嶺圭朔ではないでしょうか。
医学伝習所の塾頭松本良順が記録した入塾者名簿「登録人名小記」が、鈴木要吾著「蘭学全盛時代と蘭疇の生涯」という本に載っておりました。それによれば、寛斎が医学伝習所にいたころ、もうひとり豊後日田の佐々木玄綱という人がいたようですが、この人は文久元年夏入塾のようですから三人が脇岬に行った文久元年4月にはまだいなかったと思われますし(勿論当時の旧暦では4月は夏ですが、入塾早々では一緒に旅する可能性は低いでしょう)、ここはやはり佐倉順天堂から一緒で伝習所入塾も同時期の佐々木東洋で間違いないでしょう。
次に、「案内トシテ」一緒に行った「長嶺氏」については、上記の「登録人名小記」に「肥前平戸人 松浦肥前守臣 長嶺圭朔」とある長嶺圭朔だと思います。平戸の人なら野母半島を案内することができそうです。「蘭学全盛時代と蘭疇の生涯」の著者鈴木要吾氏も、佐々木東洋と長嶺圭朔と書いています(同著58頁)。「長崎在学日記」には長嶺の記事が他所にも出てきます(文久元年3月26日条ほか)。長嶺圭朔の事蹟などはまだ調べておりません。わかったらまたご報告します。

なお、平戸出身のこの長嶺圭朔は、司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」を調べると三巻95頁に名前があり、小説中に登場している。長嶺圭朔の事蹟などは、当方からも平戸市松浦資料館へ照会したが、現在のところまだ不明。御典医であった。平戸市内に今も「長嶺」姓の系譜となる方が3軒ほどあると聞いている。

(注)年表は関寛斎資料館冊子から。