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長崎医学伝習所生「関寛斎」の人物像  (北海道陸別町HPから)

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長崎医学伝習所生「関寛斎」の人物像 (北海道陸別町HPから)

陸別町(注 北海道足寄郡 阿寒湖近くにある)開拓の祖とされる関寛斎(幼名吉井豊太郎、寛<ゆたか>とも)は、天保元年(1830年)に現在の千葉県東金市に生まれました。生後、関俊輔(素寿と号して、私塾製錦堂を主宰した儒学者)の養子となり、関を名乗ります。
寛永元年、18歳の時に佐倉にあった順天堂(佐倉順天堂)に入門し、佐藤泰然(さとうたいねん)の元で医学を学びます。そして寛永5年(22歳)に前之内村で仮開業するとともに、この年の12月に君塚あいと結婚しました。仮開業を行ったとは言え、順天堂を完全に離れたわけではなく修行を続けていました。その後、仮開業から4年たった安政3年2月に銚子で開業し、医者として本格的な一歩を踏み出しました。

寛斎に転機が訪れたのは、豪商である浜口吾陵(ヤマサ醤油の当主)の知遇を得てからでした。まず、彼の勧めにより江戸に出て伊東玄朴らの指導を受けてコレラの予防研究を行い、その後に彼の後援を得て長崎に留学しました。(30歳頃)
長崎医学伝習所では、泰然の子である松本良順(後の幕府筆頭医・維新後初代陸軍医総監)らと同じくオランダ人医師ポンペに蘭方医学を学びます。この伝習所は松本良順が中心となって設立されたもので、寛斎は63番目の弟子でした。この時の寛斎の見聞は「長崎在学日記」に詳細に記されていますが、医師として医療活動を行った傍らオランダ料理を食べたりワインを飲んでみたというような記録も残っています。またこの間に勝海舟が艦長の咸臨丸の補欠医官も勤めました。

足かけ2年の長崎留学を終えて、文久2年に再び銚子に戻った寛斎は、その年に順天堂時代の同門の推薦により阿波徳島藩主蜂須賀斉裕の国詰侍医として招聘されます。蜂須賀斉裕は将軍家からの養子でしたが、開明的な思想の持ち主だったようです。しかし養子という身で藩政から遠ざけられ、強度のノイローゼになっていました。寛斎は誠意ある診察を行い斉裕からも強い信頼を受けました。
さて、時は幕末。混沌とした中、慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発します。実はこの戦いが始まった3日後に藩主斉裕が急死してしまいます。寛斎は典医の辞職を申し出ますが、斉裕の後を継いだ茂韶(もちあき)はこれを許しませんでした。
茂韶は倒幕に参加する決意をして自ら兵を率いて官軍と合流しました。寛斎も軍医としてこれに従い、大阪から海路江戸城に入城します。

そこで突如寛斎に神田三崎町の講武所に野戦病院を開設するよう総督府令が下りました。これは江戸に向かう時に同行していた官軍軍防事務判事である大村益次郎が寛斎の実力を買ったためだったようです。江戸・上野で挙兵した彰義隊の鎮圧に参加し、多くの兵士の命を救ったという事で時の官軍総参謀である西郷隆盛より激賞されています。
この功績により、奥羽戦争時に開設された奥羽出張病院の頭取として東北に赴任します。この時の寛斎の治療スタンスは敵・味方違わず怪我人は全て請け負うという、今で言う赤十字の理念に通ずる考え方で多くの患者を治療したとされています。この時の模様は「奥羽出張病院日記」に詳しく記述されています。

官軍に参加した中堅から幹部のほぼ全員が新政府で要職を占める中、寛斎は奥羽戦争の終結を待って徳島に戻ります。そして明治2年徳島藩医学校を創立し、更に徳島藩病院を開設、寛斎は院長に就任します。
その後、短期間ながら海軍省に出仕し、甲府山梨院長に転任しますが、2年ほどで徳島に戻り、明治7年に現在の徳島市城東高校付近で開業します。
徳島での開業医・寛斎は「赤ヒゲ」的な活動をした事が記録に残っています。貧しい者からは代金を得ず、富める者からはきちんと頂く。しかし自身は質素を旨とした生活だったようです。また、折に触れて蜂須賀家の墓域である眉山に登り、若くして亡くなった蜂須賀斉裕の墓所を訪れていました。

こうして、一応のところ功成り名を遂げた寛斎が北海道移住を 公表したのは、72歳の時だったと言います。既にこの時、長男である又一は札幌農学校(北海道大学の前身)で学び「十勝国牧場設計」という論文を著した後でした。斗満地区(現在の陸別町の他、足寄町、本別町の一部を含む)の広大な土地を払い下げられた寛斎は、現在の陸別町関に入植し、関農場を開きました。
陸別という土地は一から拓くには大変困難な土地柄でした。思うように作物が実らず、疫病で牛馬を多数失った事もありました。それにうち克ったのは、寛斎の「農場を拓く」という強い意志と、又一の「アメリカ流大規模農場」への夢だったと思います。しかしその二人の意思と夢の微妙な違いが悲劇となってしまいました。
寛斎は農場を拓き、それを小作人(農場で働く従業員)に分け与えて自作農を育てようという考えでした。一方で又一はアメリカ流の大規模農業をめざし、スケールメリットを求めたのです。それが一つの要因となり、寛斎は自ら命を絶ったのでした。享年83歳でした。

医師としての寛斎の業績としては銚子時代における種痘が挙げられます。かって難病であった天然痘は種痘を施すことで防ぐことができるという知識が日本に入ってまだ間もない頃の事でしたが、寛斎は銚子で積極的にこれを推進しました。また、著書「命の洗濯」では海水浴と登山を奨励した他、1年足らずの甲府時代は梅毒検査を協力に推進したという記録も残っています。北海道に渡ってからは一旦医籍を返上したのですが、医師がいないという状況を見たせいか、復活させて時折診療に当たったようです。

加えて、文化人としても寛斎は当代一流で多くの文化人、知識人と交流がありました。中でも明治時代の文豪徳富蘆花との交流は有名で、その著書「みみずのたはこと」では一章を割いてその関わりを著述している他、二人の間に交わされた手紙が多数残っています。寛斎自身も前述した「長崎在学日記」に代表されるように非常にこまめな人物で、多くの手紙と著作、日記が残っています。趣味の歌は、「白里」と号して約300首が残っています。「白里」の意味は、その出身「九十九里」を示したもので、「百里」から「一」を引いて白里としたそうです。
寛斎の足跡は、陸別駅に併設されている関寛斎資料館でたどる事ができます。また、町内には歌碑、顕彰碑が多数建立されています。

「忍」 忍びてもなお忍ぶには祈りつつ誠をこめて更に忍ばん 八十三老 白里
町内青龍山麓にある顕彰碑

壮年者に示す
いざ立てよ 野は花ざかり今よりは 実の結ぶべき 時は来にけり 八十二老 白里
これも青龍山麓にある歌碑。ちなみにこの石は元は陸別小学校の門柱でした。

(資料提供:陸別町関寛翁顕彰会)

(注) この稿は、研究レポート第1集に収録している。長崎医学伝習所時代の「長崎在学日記」の中に、文久元年4月、仲間3人で御崎観音詣でをした貴重な紀行文がある。
なお、HPは紹介していないが、関寛斎は司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」の主な主人公である。

現在までの調査で判明した「みさき道」に関する諸事項

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現在までの調査で判明した「みさき道」に関する諸事項

1 「みさき道」は特別なルートの道ではなく、旧来からあった長崎からの深堀道と御崎道ないし野母道をつないだ道である。これに分岐合流する長崎往還・岳路道・川原道等も考慮する。
2 近隣の集落で戦後もしばらく「脇岬参り」や「オカンノン様参り」という、正月や月毎に観音寺参りが行われていた。川原方面から半島東回りコースもあり、明治32年の道標石柱が現存していた。
3 脇岬沖が唐船の入出港経路であったため、「みさき道」や脇岬観音寺の密貿易(抜荷)との関連を言われるが、そういったことを推定できる文献はあまり見られない。
4 道塚を建立した今魚町も同じである。なぜこの町が道塚を建立したか。そして道塚が五拾本あったかは、依然として推測の域を出ない。
5 関寛斎日記に記した道中の「大きなる石」は弁慶岩、「笠山岳」は大久保山、「南岸の砲台」は小ヶ倉千本山にあったとされる砲台と考えられる。「加能峠」やいわゆる「古道」は不明である。
6 貴重な史料となる明治29年2月「深堀森家記録」が見つかり、源右衛門茶屋・鹿尾川渡り・深堀入口の鳥越険坂の状況が判明した。
7 ダイヤランド団地内には、開発前に道塚3本があった記憶談を得た。当時、測量に当られた方に聞くが所在はわからなかった。しかし、「みさき道」は確かにこの団地内を通ったと考えられる。
8 鹿尾川は、現土井首大山祗神社鳥居前で、「渡瀬」(飛び石)であった文献と地図類を確認できた。角川書店「日本地名大辞典」による「渡し場」は表現上の不足を感じ、後コースも疑問がある。
9 これより先、前記辞典の記した土井首村内のコースと、江川までどこを通ったかはまだ確定できないが、ある程度の考証ができる関係資料があり、現在も調査中である。
10 深堀までは、江川河口で二本の小橋渡り、鳥越峠越えして深堀に入った。そして深堀からは伝承がある地蔵が残る「女の坂」古道が街道であり、八幡山峠は大籠新田神社と推測できた。
11 平山台上配水タンク地点が関寛斎日記の長崎道分れ(帰路)となり、蚊焼茶屋は清水が今も流れていることがわかり、蚊焼峠とともに従来言われた地点と違うことが推定できた。
12 一永尾を通り徳道からゴルフ場裏門の道塚に出て、喪失した旧町道沿いに高浜毛首の延命水に下る。これが「みさき道」の本道であり、「岳路みさき道」また川原道との合流地点と思われる。
13 蚊焼から岳路を経由するもう1本の「岳路みさき道」があったと推定された。高浜の町中また古里までの道もほぼ確定でき、堂山峠までも街道の山道を草木を払って復元することができた。
14 これまで他資料による「みさき道」の説明は、観音寺で終わっていたが、関寛斎日記により帰路まで調査を行った。この結果、脇津の蒟蒻屋・観音道・堂山西の野母道などが明らかになった。
15 脇岬海岸にある「従是観音道」の道塚は、元禄十年(1697)建立。ひと昔前の古い道であるが、脇津村古地図にきちんと描かれており、字図調査と現地踏査によりこの喪失ルートを確認した。
16 関寛斎一行が、野母の船場に行き風強く出船なく、この後「野母権現山」に行った(野母崎町史年表)であろうか。漁家喫茶の前に「只一望のみ」とあり、時間的に無理であったと考えられる。
17 堂山西を通り高浜へ出る。これも「みさき道」形成の一つの要路である。今まで不明であった「野母道」を明らかにすることとなる。必ずしも海沿いでないことが判明した。
18 徳道から岬木場を通り、殿隠山・遠見山の尾根道を行く「みさき道」があったか。考えられなくはないが、道の連続がない。字長迫より井上(いかみ)集落などを通り脇岬へ下るようである。
19 国土地理院に明治34年測図旧版地図、県立図書館に明治18年「西彼杵郡村誌」があり、判断の基準となった。また天明七年の大久保山から戸町岳に残る藩境塚を新たに確認した。

(注)この稿は、当会の研究レポート第1集26頁に掲載している。

長崎医学伝習所生「関 寛斎」の日記  『長崎談叢』19輯所収

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林郁彦稿「維新前後における長崎の学生生活」=『長崎談叢』19輯所収
長崎医学伝習所生「関 寛斎」の日記  文久元年(1861)

文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、仲間3人で1泊2日の御崎観音に詣でた。

四月三日 日曜日

‥‥雨降り来る、然れども雨を侵して發足す濱の町に至りてやむ、南風殊に温く熱すること甚だし、戸町峠にて襯衣を去り單物一枚になる、此峠頗る嶮なり東は崎陽を一望し北は
港内の諸島を見る且つ峠上に路を距ること一町許の處に大きなる石峻起立し峠を抜くこと二十間許り殆んど人口の美を奪ふ。
小ヶ倉の入口にて小憩す、右に笠山岳あり此より加能峠にて、やうやう下る五六町にして平地あり、望遠鏡を用ふるに最も佳景なり、直下は小ヶ倉港内の小島眼前に見え、西南は西海側々たり、加能の下り口は海面に張り出し眺望尤もよし、南岸の砲臺或は隠れ或は顕る、西岸に彎あり突出あり。
下りて一彎に出で岩上の奇岩を渡り一の間路を行く、小渚中に小魚あり且つ一つの烏賊を見る同行の人直に入りて刀を以て切て得たり、自ら携へて午飯の料とす。迂路して深堀に出づ、入口に峠あり直に下りて深堀に至る、小港あり荷船四五個あり且つ佐賀侯の船數十艘あり、此の處は佐賀の臣深堀某の居なり、戸數百戸許一の家に至り芥餅を喫す、且つ温暖忍びざるに由て草鞋を取り襟を開き汗を去る、一快を取る後ち行厨を開き且鯛一尾を調へ煮て行厨の料とす、又共に途中に於て獲たる烏賊を供ふ味極めて佳なり。
午後發足す、二十丁許りにして八幡山峠へ上り中程にて黒船を見る、望遠鏡を用ふるに竪に赤白青の旗號あり、午下は殊に峠道ゆへ炎熱蒸すが如く汗を以て單物を濡すに至れり、三十丁計にして蚊焼峠の入口の茶屋に至り、清水に喉をうるをし汗を拭ふ西北は港内にて其西岸は遥に絶え香焼島、マゴメ島、伊王島、高島、遥に松島の瀬戸(高サ六七間ニ柱石相對す)見ゆ、之を相撲の瀬といふ。四郎島、カミノ島、右二島は佐賀の砲臺にして最も
勝る由。蚊焼島の上三十丁ばかりを長人といふ此の處東西狭くして直に左右を見る、東は天草、島原あり遥に其の中間より肥後を見る。
下りて高濱に至る、此の處漁場なり、水際の奇岩上を通る凡そ二十丁、此の處より三崎迄一里なりと即ち堂山峠なり、此峠此道路中第一の嶮なり、脚勞し炎熱蒸すが如く困苦云ふべからず、下りて直に觀音堂あり淸人の書にて海天活佛の額あり。三四丁にして脇津(脇岬)に至り蒟蒻屋に百銅を出して鏡鯛を求め鮮肉を喫す頗る妙、郷里を出るの後初めて生鮮の肉を喫し總州にあるが如きを覺ふ、處々蝉鳴を聞く、七時より時々雨ならんとす、夜に入りて大雨となる。

四月四日 晴

雨やむ然れども北風強し、炎熱なし客舎を發し往古蒙古の船此處に破變し化石となり其木板帆柱の形を存すと、然れども潮満ちて見ること能はずと只聞くのみ、西向して海邊を通る此の時蒸汽船を見る、望遠鏡を用ふるに白に丸紅の旗號あり長崎港に向く、此の疾きこと矢の如し、我れ一丁許り行くに船四五丁走る、四五丁にして野母に至る、船場に至り問ふに北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、由って只一望のみにて漁家にて喫茶す、此
の處二百戸許り漁師住めり南西に高山あり四五年前には絶えず此の頂上にて望遠鏡を用ひ黒船を見張せしといふ、長崎迄一望中にあり且つよく遠方を見得て殊に景地なり。五ッ半時發足し堂山の西を通り高濱に出て八ッ時蚊焼峠にて行厨を喫し且「ゴロダメシ」と唱ふる麥米豌豆の飯を一椀つゞ喫す、其味頗る妙尚「コッパ飯」と唱へる飯は此處の邊の常食の由、ゴロ飯はサツマ芋を切りて乾し兼て飯に加ふるなりと。
夫より半里許を行きて昨日の道を換へて西方は深堀、東方は長崎道なり、八幡山峠を西に見八郎ヶ岳を東に見る、其の中間と覺ふ八郎岳は九州第八の岳なりと、此の邊第一の高山なり、一農家に憩ひて新茶を味ふ、味最も妙、高低の山路を經て昨日の道と同ふし、加能峠にゆく宿にて小憩す、戸町峠にて新茶を求め家宿の土産の料とす。
黄昏大浦に着し飢あり三人共に一麺店にて三椀づゝ喫し別る、予は前の浴室に至り浴後高禪寺に歸塾す。

(注)この所収文は関寛斎「長崎在学日記」と相違する字句があり、北海道陸別町同資料館にある原本の写しを、当会の研究レポート第1・2集に収録している。

「みさき道」のコースなどに関する考察  <その2>から

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「みさき道」のコースなどに関する考察  <その2>から

研究レポート第2集『江戸期の「みさき道」−医学生関寛斎日記の推定ルート』は、平成18年4月刊行した。その中からコースの判断にふれた10〜11頁の記述は次のとおり。考察はまったく私見である、関係資料と読み合わせて判断していただきたい。

A 総括的なこと

1 「みさき道」の判断に、どのような文献と地図類があるか
今回の調査は、文久元年(1861)4月3日と4日にかけて、仲間3人で脇岬観音詣でに出かけた長崎医学伝習所生関寛斎の「長崎在学日記」(昭和13年「長崎談叢19輯」の引用文は一部誤りがあることは指摘した)をもとに、彼の記述をなるべく現地や文献で検証することとし、今も残る道塚12本を手がかりに彼ら一行の歩いたルートを推定し、当時の「みさき道」はどうだったか調査したものである。
参考とした関係資料は前レポートに掲げたが、地図類の主なものは次のとおりであった。
①慶長年間(1596−1624)「慶長図絵図」            佐賀県立図書館蔵
正保 4年(1647)「肥前一国絵図」               長崎歴文博物館蔵
元禄14年(1701)「肥前全図」 〔いずれも長崎半島部分〕     同
②安永 2年(1773)「高木作右衛門支配所絵図」 〔当時の長崎代官〕 同
③安政 7年(1860)「高来郡深堀 御崎村・脇津村」           同
萬延 元年(1860)「高来郡 為石村・布巻村、彼杵郡 平山村」  同
萬延 元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」   三和中央公民館蔵
文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」
長崎歴文博物館蔵
④明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕
⑤平成 7年(1995)「三和町全図」修正字図ほか
③は佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村であり、①は同藩が作成し長崎奉行所が写したものとされる。天領の川原・高浜・野母村、大村領だった戸町村(安政6年古賀村と交換されて天領となった)などの絵図は見出しえなかった。
④は国土地理院に明治17年測図同27年製版図があるが、そこまで調べてない。

2 「みさき道」の調査で、これら関係資料はどのような利点があったか
次のような利点があり、「みさき道」の判断をする上で役立った。
(1)晩年の地北海道陸別町資料館が保存する関寛斎「長崎在学日記」の原文写しが、同町の協力によって手に入った。彼は一流の人で、記述は正確であった。
(2)③の佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村の地図は、彼ら一行が歩いた文久元年と同時期に作成され、正確かつ詳細な絵図であった。
(3)④の国土地理院旧版地図は、以前の旧図もあるが測量技術が格段に進歩し、陸軍陸地測量部が正確な地形と道を描いた地図であった。まだ車はなく街道が県道などで表れていた。
(4)今魚町が観音寺境内に天明4年(1784)「道塚五拾本」と刻んだ石柱を残し、街道要所に年代が前後した道塚12本が現存するのは、他街道に見られないことである。
(5)「三和町郷土誌」編さん諸資料に、長崎県立図書館蔵書の明治18年「西彼杵郡村誌」が載せられ、「道路」の項の記述があったので参考となった。

3 「長崎街道」の調査方法は、どんなだったか
「みさき道」の調査方法は、確固とした手法や経過を取っていない。やみくもに歩き街道の道の感じを掴み、資料・地図類が集まり次第、再考しながら積み重ねていったら、何とか結果が出た。街道調査の方法を、最初から最後まで知らなかった。
「長崎街道」の場合、どうだったか。レポート刊行後知ったが、三和公民館に大村史談会「大村史談」のバックナンバーが揃っていた。第50号に総合索引があり、平成3年3月発行第38号「北九州市の長崎街道(一)」に、松尾昌英氏の木屋橋〜小倉間の踏査記録があった。
これによると調査方法は次のとおりであった。

『今回の調査に当っては安永九年(1780)と文化九年(1812)の遠賀郡往還図、生保年間(1644−1647)の豊前六郡図(福岡県史資料第二輯附図)、及筑前國図(福岡県史資料第六輯)、元禄十四年筑前図(1701)(福岡県史資料第八輯)、伊能忠敬測量日記の内文化九年(1812)一月二十七日より二十九日迄の測量記録、明治二十年及明治三十一年より三十三年迄の大日本帝國陸地測量部の図面、昭和十年十月發行の八幡市地図、昭和十三年十一月發行の小倉市地図を参考資料として調査に当った。生保、元禄図及遠賀郡往還図と陸地測量部の図面を照合比較してみると道路の形態は殆んど一致している。又伊能忠敬の測量記録はそのルート上の町名、地名、測量の距離ともほヾ一致することがわかった。
そこで今回、現地調査に当っては陸地測量図を基に調査を進めることにしたのである。
長崎街道は長い歴史の中で幾多の変遷を経たであろうと思うが、陸測図は大体において江戸時代末期の長崎街道とほヾ一致するのではなかろうかと思っている。
将来江戸時代の正確な街道地図が発見された時点では当然修正しなければならない。』

結果的に私たちの「みさき道」の調査方法も、全く同じような史料・地図類を使ってコースを推定していたのである。

観音信仰と脇岬観音寺

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観音信仰と脇岬観音寺

原田博二氏稿「観音信仰と御崎街道」三和町郷土誌昭和61年から

観音寺は古くは仁和寺の末寺で肥御崎と称され、『元享釈書』にも記述されているように、観音信仰の一大霊場として大変著名であった。
観音信仰というのは、その名のように観音菩薩に対する信仰であるが、平安時代の末期からは末法思想の流行とあいまって、来世信仰・浄土教信仰が発達、観音信仰も来世救済の信仰へと変貌し、地蔵とともに引路菩薩として地獄抜苦・大悲代受苦の菩薩として仰がれた。さらに、勧進聖らによって多くの観音霊場が生まれ、清水寺や長谷寺が各地に広がるとともに、熊野や日光を補陀落山に擬する風習も流行、各地に熊野三十三度詣や三十三観音や西国三十三番の設定などが盛んにおこなわれた。江戸時代になると、各地に三十三所や六観音、または七観音などが盛んに設定され、民衆の行楽の風潮とあいまって、大変な賑わいを呈した。観音の縁日を十八日とする風習は、承和元年(834)、宮中の仁寿殿では毎月十八日観音供をおこなったことにちなむものといわれる。(略)
観音寺に現在でも伝えられている絵画類や多くの仏具類、境内の石造物などのほとんどは、江戸時代の長崎の人達によって寄進されたものであるが、このことからも、江戸時代に実際にこの寺を支えたものは、長崎の人達による観音信仰であったということがよくわかるのである。

諏訪神社にある福田清人句碑の「岬道」は

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諏訪神社にある福田清人句碑の「岬道」は

諏訪神社の拝殿右奥となる斎館諏訪館(諏訪荘を移設復元した建物)の前に、「岬道」と歌った土井首ゆかりの文学者、福田清人氏の句碑がある。
”岬道 おくんち詣での 思い出も”

この碑にある「岬道」や、作品「岬の少年たち」などの「岬」とは、氏が少年時代を過ごした長崎半島のまだ中間「土井首」の地の思い出をいっており、「みさき道」の厳密な意味の「みさき(御崎)」とはならないようである。
句碑左下の建立説明碑文は次のとおり。建立年月は書かれていない。

福田清人は農と陶の里長崎県波佐見に生まれたが、長崎の港を抱く岬、土井首磯道に少年の日を過した。岬をめぐる長崎一帯の風土と歴史は、深く心に刻まれて、文学の原郷となり、「岬の少年たち」「春の目玉」「天正少年使節」など国の内外に顕彰された数々の名作を生んだ。…
俳句をたしなみ主宰する無月句会が発起して、郷土の先人、向井去来の句碑を諏訪神社境内に建てたゆかりもあって、同神社の厚意により、その文学を偲ぶ碑を建て、半世紀を越える文業を讃えるものである。
社団法人 日本児童文芸家協会 理事長 西沢正太郎

なお、福田清人氏は土井首で育った思い出を「春の目玉」という作品として出版、国際的な児童文学作品に贈られるアンデルセン賞を受賞している。他に「秋の目玉」という作品もある。 

林郁彦氏と長崎医学伝習所「養生所跡」碑

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林郁彦氏と長崎医学伝習所「養生所跡」碑

『長崎談叢19輯』(昭和12年発行)に収められた林郁彦稿「維新前後における長崎の学生生活」(21〜22頁)に出てくる関寛斎「長崎在学日記」の紀行によって、「みさき道」が解明できることとなった。林郁彦氏とはどのような人か。

この人の名は、昭和13年「長崎市史 地誌編 名勝旧跡部」補遺「養生所跡記念碑」の項、及び昭和12年「長崎観光会史跡案内誌」に名前があり、2資料から判明したのは、長崎医科大学長だった林郁彦氏は、小島養生所の史跡滅失を危惧し、記念碑建立に尽くし、碑名に筆を取った一方、長崎観光会の会長として活躍された人だったということである。

碑の写真は佐古小学校の校庭に入れてもらって撮った。「長崎市史」に記した当時の碑から、1957年秋「西洋医学教育発祥百年記念会」が建てた新しい碑に変わっていたが、たしかに「郁彦」の名があった。

余 録 — 「みさき道」の道探しや寛斎のこと

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余 録 −「みさき道」の道探しや寛斎のこと

私のすることは、家族からあきれ果てられ、同好の友を求めても今の時代はもういないのではないか。若い頃からの性癖は、今さら直しようがない。人に言わせれば世間から随分と外れており、他のことをするより健康のためマシで、まあ勝手におやりなさい。何の役にたつかということであろう。自分自身このことはよくわかっており、今回の調査で何度も味わい、途中で投げ出したくなったのは再三であった。「くにさかいの碑」の著者もそんな悲哀を述べられていた。
道を探して知らない山の中へ入る。服は破れる。手・足・顔まで傷だらけ。進退きわまって日没後の暗い山道を帰ったことが2回ほどあった。いくら地図を持参していても初めての場所は、どこがどこかわからなくなることがこの半島の山でさえある。道探しに再三来たくないから、目鼻のつく地点まで必ず行く。そうすると次々と分れ道が出てきて、結局はその道全部を踏査しなければならない。行ったり戻ったり、無駄な行動と時間を費やした。一面、長崎半島の地形と道はほとんど頭に入った。
難しい考えごとや本は頭になじめず、好きなことだけ行動を先走りさせるのが自分の取り柄である。

もう少し要領よく行いたかったが、史料や地図は少なく、現代とあまりかけ離れ過ぎている。地元の人に聞くにしても、一応歩いて調べたうえでないと話が噛み合わない。わざわざ連れて行ってくれと頼めないからである。そもそも江戸時代の道を知っている人は、もう生きていない。道の話は聞いた相手の人の年代や住んでる場所によって変わってくる。
やっと要領よくなれたのは、明治34年測図国土地理院の旧版地図を手に入れてからである。それにしても、佐賀藩の侍たちは領内の村の彩色絵図を良く書いている。一番感心したのは、為石村や脇津村の図である。カラーで紹介できないのが残念だが、鳥瞰的にこうも正確に描けるものだろうか。
地形上の制約があって半島には三通りの道がある。尾根にあった道が中腹から海岸へと時代によってだんだんと降りていったのが、半島の道の特色であろう。あとは波静かなときの海岸道とそうでないときの道である。平野部にある他の街道と違い開発があまり進まず、一部団地やゴルフ場を除き、古道の山道跡がそのまま残っていたのは、返って幸いであった。

川原木場の公民館前に地蔵堂がある。水道で顔を洗いながら地蔵がなぜあるのか考えていたら、70代とおぼしき年配のご婦人が公民館から出てこられた。この人の時代は集落の拠出と労力奉仕で、道は大分整備されていたようである。観音参りはまだその昔、二ノ岳の脇、今はゴルフ場となった中を通って、根井路の地蔵へ出たようだと覚えておられた。川原木場も平家落人の伝説があり、錆びた刀が出てきたという家が多いと言う。

先週よく見てなかったが、テレビ番組があった。宮崎の椎葉あたりの山村の一集落に古文書が残り、400年ばかり前、自分たちの先祖が移り住んできた道の記録があった。廃道となった道を探して30Kmほど、大勢の人が先祖の跡をたどって、その道を歩いたというものである。

二つの話を「みさき道」に重ね合わせ、いろいろ感慨がある。椎葉の道の思い出は、私にも昭和43年3月にある。九州脊梁の山を単独行で歩いた。現在、日本最南端のスキー場となった向坂山あたり。3月というのに小雪が降り、道はまだ残雪で埋まっていた。次はその記録の一部である。
「18日(晴) 狭い谷間にも朝明けは意外な早さで広がる。雪面は静かに白さをとりもどし、清新なせせらぎの響きがその下から明るい。それにしても昨夜は相当の冷えこみであったのだろう。外に出していたコッヘルの水は厚く凍っている。昨夜の豚汁を温め、けさは早立ちだ。キンザキリから谷をトラバース。斜面の雪はクラストとし2、3回のけこみが必要である。杉越でいよいよ霧立越の稜線に出る。
霧立越というものの普通の越とは大へんちがう。波帰から始まり椎葉尾八重狩底に至る延々20数Kmの尾根縦走路を昔の人は霧立越と呼んでいた。那須大八郎が平家の残党を追って通ったというのもこの越で、昔は椎葉へ通ずる唯一の関門。当時は牛馬の背で荷を運んでいたという。うっそうとした木立に身をおき、その長い悠久の日に思いをはせると感慨は深い。この一刻一刻が大きな歴史の潮流となり、現在から過去へ、過去から過去へと消え去ってゆく。そんな際限の瞬時を今無性に感じるのであった。」
私の原点は、こんなところかも知れない。

関寛斎の足跡として「九州旅行 耶馬溪〜霧島」と地図にあった。しかし、年表を見ると明治25年4月、62歳のとき「月ヶ瀬の梅・耶馬溪・霧島山・阿蘇・高千穂」が行き先であった。椎葉は通過のコースとして考えられないことはないが、当時はまだ未開の地で険しかったと思われる。
この年表の記事に、「佐々木」氏の名前があった。観音詣でに同行した「旅宿」の人である。関寛斎は萬延元年(1860)30歳の時、浜口梧陵のすすめにより長崎行きを決心し同年11月3日江戸を出発した。この長崎行きに同行したのが佐藤舜海・佐々木東洋・益田宗三で、佐倉順天堂の同じ門下生である。正確には舜海は順天堂を開いた佐藤泰然に才を認められ養嗣子となり、塾頭であったので彼に寛斎らが同行した。「佐々木」氏とはこの「佐々木東洋」ではないだろうか。案内人の長嶺氏は長崎の人か。
同年表によると、関寛斎は翌年の文久元年、すなわち観音詣での年に幕府軍艦咸臨丸の補欠医官になっているが、何月かは不明のため記していない。

実はこれまで完全に紹介し忘れていたが、幕末期をあやなした蘭方医学者、松本良順・伊之助こと司馬凌海・関寛斎が、司馬遼太郎の朝日新聞に連載された小説「胡蝶の夢」の主な主人公である。
題を『荘子』からとって「封建社会の終焉に栩栩然(ひらひら)と舞いとぶというのは化性(けしょう)にも似た小風景といわねばならない。世の中という仕組みがつくり出すそのような妖しさは、単に昔だったからそうだということではなかろう」と最後は結ばれ、陸別の地を訪れたときの感慨を、「血の泡だつような感じのなかで深められてしまうはめになった」とも「寛斎の影がいよいよ濃くなってくるような気がした」と表わされている。ぜひ一読をお薦めしたい本である。

本文87・88頁でふれた引用資料「橘湾の漁労習俗」の本は、香焼地区公民館にあった。借り出しがなくすでにお蔵入りしていて、3階の倉庫から探してもらうのに手をわずらわせた。
これは昭和58年3月長崎県教育委員会発行の「長崎県文化財調査報告書第63集」である。文化庁の指導と補助を受け、長崎県における内湾水域の一つである橘湾沿岸の漁村に残存する漁労習俗に関して、記録・保存を図るため調査は実施された。海女(海士)・大村湾につぐ第3回目であった。
諸条件を考慮し、県内4地点が調査対象地域となり、池下など他の3地点とともに「為石・川原・宮崎」地域が選ばれた。第1章民俗環境の「交通」の項で道路が出てくる。地元の故老を話者とし集め、聞きとり調査を中心に、観察と文書調査等をあわせて行った。「為石・川原・宮崎」地域の調査結果は、三和町郷土誌458頁「陸上の交通」にあるとおり、それ以上の道の記述はなかった。

「みさき道」や「脇岬村路」も、故老が健在な間にこんな方法を講じられたらと残念である。折しも県立図書館の資料課は、新しく建設している「長崎歴史文化博物館」への移行期に入り、文献の閲覧ができなくなってお手上げとなった。ここで一応、研究レポートに区切りをつけ印刷にかかった。                             (平成17年8月28日記)

研究レポート第1集『江戸期の「みさき道」−医学生関寛斎日記の推定ルート』に収録。

「関寛斎」の人物像と、司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」に見る晩年

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「関寛斎」の人物像と、司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」に見る晩年

「関寛斎」は、天保元年(1830)千葉県東金市生まれ。ヤマサ醤油当主の知遇を得、長崎医学伝習所に来たのは30歳のときです。松本良順の63番目の弟子となり、オランダ人医師ポンペに蘭方医学を学びます。後に阿波徳島藩の典医など勤め、晩年は北海道足寄郡陸別町(阿寒湖近く)に渡り、長男とともに未開の地の開拓にあたり、83歳で亡くなりました。同町の駅には開拓の祖として資料館があります。(同町のHPあり)

幕末を彩なした蘭方医学者、松本良順・伊之助こと司馬凌海・関寛斎が、司馬遼太郎の朝日新聞に連載された小説「胡蝶の夢」の主な主人公である。(新潮社昭和54年などの刊行本あり)
題を『荘子』からとって「封建社会の終焉に栩栩然(ひらひら)と舞いとぶというのは化粧(けしょう)にも似た小風景といわねばならない。世の中という仕組みがつくり出すそのような妖しさは、単に昔だったからそうだということではなかろう」と最後は結ばれ、彼のことや陸別の地を訪れたときの感慨を「血の泡だつような感じのなかで深められてしまうはめになった」とも「寛斎の影がいよいよ濃くなってくるような気がした」とも表わされている。ぜひ一読をお薦めしたい本である。

「壮年者に示す」 いざ立てよ 野は花ざかり今よりは 実の結ぶべき 時は来にけり 八十二老 白里

「忍」    忍びてもなお忍ぶには祈りつつ誠をこめて更に忍ばん       八十三老 白里

「寛斎は、自分が買った土地を、開墾協力者にわけあたえてゆくという方針をとった。ただし、この方式に寛斎が固執し、息子の又一が札幌農学校仕込みの経営主義を主張して反対しつづけたために真向から対立した。協力者たちに対する公案が果たせそうになくなったために、百まで生きるといっていた寛斎が、それが理由で自らの命を絶ったともいわれている。」

「明治四十五年(1912)十月十五日、服毒して死亡、年八十三歳、翌日、遺志によって粗末な棺におさめられ、近在のひとびとにかつがれて妻お愛のそばに眠った。墓はただ土を盛った土饅頭があるのみである。
寛斎の医学書その他の遺品は、さまざまないきさつを経て、近年、陸別町に寄贈された。」

「長崎在学日記」に記された脇岬観音詣での記録は、彼の初期の紀行文となるが、あまり知られていなかった。同町教育委員会の協力により、当会がこれを江戸期の「みさき道」を解明する手がかりとし、研究レポートを刊行した。