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市川森一先生の小説「蝶々さん」にみさき道が登場 長崎新聞に連載中

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市川森一先生の小説「蝶々さん」にみさき道が登場  長崎新聞に連載中

長崎新聞の毎週土曜日の紙面に、市川森一先生作の小説「蝶々さん」が昨年から連載されている。
2007年(平成19年)5月19日付、第53回「花影(八)」に「みさき道」が詳しく登場した。この回の関係文は、次のとおり。

みさき道とは、唐人屋敷の近くの十人町から、野母半島の突端の脇岬の観音寺まで延びている七里の古道をいう。深堀村はその途中にある。
十人町の百三十一の石段を上がりきると、活水女学校の校舎が現れた。活水の女学生になることを夢に描いてきたお蝶には、いつも身近に感じていた風景だったが、今日はその白亜の校舎が雪と共に溶けて消えてしまいそうに見える。お蝶は視線をそらして駆け出した。誠孝院の坂道を転がるように駆け下り、東山手と南山手にまたがる石橋を渡って、外国人居留地の丘を駆け抜け、戸町峠の二本松神社に辿り着いたところで、息が上がってようやく立ち止まった。
眼下には、湾口の島々が霞んで見えた。汗が引くと急に体中が冷え込んできたので、またすぐに歩き出す。そこからしばらくは、桧や雑木林が生い茂る山道を下って行く。お蝶の手荷物は弁当と水筒だけだが、懐剣と笛はしっかりと帯に差してきた。
お蝶の草鞋足は、寸時も立ち止まることなく鹿尾の尾根を登り、小ヶ倉村を見下ろす加能峠まで来て足を止めた。目の前には見慣れた深堀の城山(じょうやま)が見えてきたからだ。そこから江川河口まで下って深堀道に入り、ふたたび、鳥越という険しい坂の峠を越えた途端に、突然、懐かしい御船手の湊が広がった。
—着いた。
夜明け前の五時に水月楼を飛び出してから、四時間の徒歩で深堀に到着した。子供の頃から馴染んできた景色の中を足早で陣屋の方角に向かった。

なお、すでに次の回でも、「みさき道」の一部にふれた記述があっている。
第29回 遠い歌声(十)  2006年11月18日付
第35回 紅   燈(五)  2007年 1月13日付

江戸期の「みさき道」—医学生関寛斎日記の推定ルートとその図

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江戸期の「みさき道」—医学生関寛斎日記の推定ルートとその図

これは、「長崎の空」277号(平成17年8月)長崎歴史文化協会短信の掲載稿である。
なお、『長崎談叢19輯』の引用文は、関寛斎『長崎在学日記』の原本と相違する字句があり、北海道陸別町同資料館にある原本の写しを、みさき道歩会の研究レポート第1,2集に収録している。

現在までの調査で判明した「みさき道」に関する諸事項

1 「みさき道」は特別なルートの道ではなく、旧来からあった長崎からの深堀道と御崎道ないし野母道をつないだ道である。これに分岐合流する長崎往還・岳路道・川原道等も考慮する。
2 近隣の集落で戦後もしばらく「脇岬参り」や「オカンノン様参り」という、正月や月毎に観音寺参りが行われていた。川原方面から半島東回りコースもあり、明治32年の道標石柱が現存していた。
3 脇岬沖が唐船の入出港経路であったため、「みさき道」や脇岬観音寺の密貿易(抜荷)との関連を言われるが、そういったことを推定できる文献はあまり見られない。
4 道塚を建立した今魚町も同じである。なぜこの町が道塚を建立したか。そして道塚が五拾本あったかは、依然として推測の域を出ない。
5 関寛斎日記に記した道中の「大きなる石」は弁慶岩、「笠山岳」は大久保山、「南岸の砲台」は小ヶ倉千本山にあったとされる砲台と考えられる。「加能峠」やいわゆる「古道」は不明である。
6 貴重な史料となる明治29年2月「深堀森家記録」が見つかり、源右衛門茶屋・鹿尾川渡り・深堀入口の鳥越険坂の状況が判明した。
7 ダイヤランド団地内には、開発前に道塚3本があった記憶談を得た。当時、測量に当られた方に聞くが所在はわからなかった。しかし、「みさき道」は確かにこの団地内を通ったと考えられる。
8 鹿尾川は、現土井首大山祗神社鳥居前で、「渡瀬」(飛び石)であった文献と地図類を確認できた。角川書店「日本地名大辞典」による「渡し場」は表現上の不足を感じ、後コースも疑問がある。
9 これより先、前記辞典の記した土井首村内のコースと、江川までどこを通ったかはまだ確定できないが、ある程度の考証ができる関係資料があり、現在も調査中である。
10 深堀までは、江川河口で二本の小橋渡り、鳥越峠越えして深堀に入った。そして深堀からは伝承がある地蔵が残る「女の坂」古道が街道であり、八幡山峠は大籠新田神社と推測できた。
11 平山台上配水タンク地点が関寛斎日記の長崎道分れ(帰路)となり、蚊焼茶屋は清水が今も流れていることがわかり、蚊焼峠とともに従来言われた地点と違うことが推定できた。
12 一永尾を通り徳道からゴルフ場裏門の道塚に出て、喪失した旧町道沿いに高浜毛首の延命水に下る。これが「みさき道」の本道であり、「岳路みさき道」また川原道との合流地点と思われる。
13 蚊焼から岳路を経由するもう1本の「岳路みさき道」があったと推定された。高浜の町中また古里までの道もほぼ確定でき、堂山峠までも街道の山道を草木を払って復元することができた。
14 これまで他資料による「みさき道」の説明は、観音寺で終わっていたが、関寛斎日記により帰路まで調査を行った。この結果、脇津の蒟蒻屋・観音道・堂山西の野母道などが明らかになった。
15 脇岬海岸にある「従是観音道」の道塚は、元禄十年(1697)建立。ひと昔前の古い道であるが、脇津村古地図にきちんと描かれており、字図調査と現地踏査によりこの喪失ルートを確認した。
16 関寛斎一行が、野母の船場に行き風強く出船なく、この後「野母権現山」に行った(野母崎町史年表)であろうか。漁家喫茶の前に「只一望のみ」とあり、時間的に無理であったと考えられる。
17 堂山西を通り高浜へ出る。これも「みさき道」形成の一つの要路である。今まで不明であった「野母道」を明らかにすることとなる。必ずしも海沿いでないことが判明した。
18 徳道から岬木場を通り、殿隠山・遠見山の尾根道を行く「みさき道」があったか。考えられなくはないが、道の連続がない。字長迫より井上(いかみ)集落などを通り脇岬へ下るようである。
19 国土地理院に明治34年測図旧版地図、県立図書館に明治18年「西彼杵郡村誌」があり、判断の基準となった。また天明七年の大久保山から戸町岳に残る藩境塚を新たに確認した。

(注)この稿は、当会の研究レポート第1集26頁に掲載している。

みさき道(御崎道)とは  平凡社「日本歴史地理体系43 長崎県の地名」2001年刊から

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平凡社「日本歴史地理体系43 長崎県の地名」2001年刊から

御  崎  道

江戸時代、長崎市中と御崎(前野母崎町、現長崎市)の七里の間を結ぶ道。脇御崎村(前現同じ)の観音寺に至る信仰の道でもあり、その創建が古代にさかのぼるということから、路程の整備は後代に属するにせよ、古代から用いられた道と想定される。寛永15年(1638)野母崎(前現同じ)の日野山頂に遠見番所が設置されて異国船監視の要所として重視されるに伴い、遠見番ら交替役人の往還としていわば軍用路として整備されていったと考えられる。

正保2年(1645)長崎代官末次平蔵のもとで国絵図作製のために村境が定められるが、「野母道」「大道」などするのが(「御書其外抜」菩提寺文書)、当道に相当する。道筋に多数の道塚が立つが、野母村の浜辺に元禄10年(1697)建立された道塚に「従是観音道」「山道十丁」と刻まれ、観音寺への道として道標が必要なほど往来が多かったらしい。

天明4年(1784)今魚町(現長崎市)町中が道塚50本を建立(観音寺境内石碑碑文)、高浜村(前野母崎町、現長崎市)内に文政7年(1824)長崎より五里、御崎より二里という同じく今魚町建立の道塚があり、同村中に「みさき道」「御崎道」「川原道」と刻まれる塚がある。ほかに前三和町(現長崎市)域では「みさき道」とあるもの、長崎市小ヶ倉地区では「御崎道」とする文政6年建立のものが残され、御崎道の称の定着ぶりがうかがえる。

天明8年司馬江漢が当道を用いて御崎観音を訪れている(「西遊日記」)。寛政6年(1794)の「西遊旅譚」では戸町・深堀(現長崎市)を経てこの参拝道を進み、「其路、山をめぐり、岩石を踏て行事、二里半余、山乃頂人家なし。右の方遥に五島見是(中略)。左の方天草島、又島原、肥後の国見て、向所、比国無、日本の絶地なり」と記される。この戸町は「長崎名勝図絵」に長崎要路として記される六ヵ所の一つ東泊口にあたる。文久元年(1861)長崎医学伝習所生が当道を通っている(「関寛斎日記」長崎談叢)。

(注) 『長崎談叢19撰』(昭和12年発行)所収の林郁彦稿「維新前後における長崎の学生生活」に引用された関寛斎「長崎在学日記」の紀行文は、彼の晩年の地、北海道足寄郡陸別町資料館にある日記と字句が一部相違していることが判明し、日記の原文写しを、研究レポート”江戸期の「みさき道」—医学生関寛斎日記の推定ルート”第1集・第2集に収録している。