朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(5〜6) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(5〜6) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(5〜6) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

スクラップ(5〜8)に関して余談。本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行14頁に、次のとおり「調査のいきさつ」を私が記している。
昭和38年当時と思われるが、「みさき道」は誰も歩く人がいなく、それこそひどかった。

はじめに ー 調査のいきさつ 

私にとって「みさき道」は、若い日のにがい想い出がある。記憶はおぼろになっていますが、20歳の頃ですから40余年前、昭和38年当時だと思います。NHKテレビか「新日本紀行」のような番組があり、野母半島の美しい海岸が紹介され、「みさき道」というものが、長崎から脇岬観音寺まであることを知りました。(NHKアーカイブスに問い合わせも不明)

山歩きを少ししてましたから、何の予備知識もないまま、五万分の一地図で山道を探し、朝から出発しました。たしか小ヶ倉から深堀に行き蚊焼に出て、秋葉山に登ったようです。それからがどうした道かよく覚えず、木立の藪や身の丈もある竹薮をかき分けかき分け、五島灘へ沈む赤い夕日を見て下ったところが、黒浜か高浜であって、海水浴場の桟敷に寝たようです。

翌日は海岸の道路を歩き、脇岬観音寺から堂山峠へ登り、遠見山に立って景色を眺められたのはよかったのですが、途中も先も、それはまたひどく荒れた道でした。ちょうどこの頃、自衛隊が亜熱帯植物園から岬木場まで県道を切り開いていたようです。殿隠山の尾根道をきちんと通ったかわかりませんが、その工事道に出ました。山道の悪さにあきれて、あとは川原へ車道を下ったようです。…