長崎県の土木遺産・市水道史施設」カテゴリーアーカイブ

水道施設の銘板アラカルト

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水道施設の銘板アラカルト

本河内高部の創設水道完成に当たって、有栖川宮からご真筆の「龍瓶」の二字が下賜され、以来、増設水源地や導水トンネルなどに、水に由来した銘板がはめられた。いずれも、絶ゆることなき清浄の水源を祈念する佳句が選ばれている。
この銘板の設置も、第2回拡張工事で終わりとなった。

「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊209〜210頁による説明は次のとおり。
写真集「’91長崎水道創設100周年 NAGASAKI WATER 100」長崎市水道局平成3年刊89頁には、「水道施設銘板ア・ラ・カルト」として特集がある。
最初の写真は、本河内ダムの創設水道、起工・落成の銘板(明治22年3月起工 明治24年4月落成)

第1回拡張工事(明治33年8月〜明治37年3月)で設置された銘板は、
本河内低部ダム          「水旱無増減」  男爵 伊東巳代治
西山ダム               「寒漿濟我人」  男爵 伊東巳代治
本河内導水トンネル入口     「玉   聲」   男爵 伊東巳代治
鳴滝導水トンネル入口       「英   泉」   男爵 伊東巳代治
第2回拡張工事(大正9年10月〜大正15年3月)で設置された銘板は、
小ヶ倉ダム              「人力通霄漢」  市長 錦織  幹(現存せず)
小ヶ倉トンネル入口         「玉聲珊然 」  市長 高崎 行一
出雲浄水場導水トンネル出口  「噴 玉 洞」   市会議長 重藤鶴太郎
出雲浄水場配水池入口      「滾々不蓋 」  市長 高崎 行一(小ヶ倉公宅裏にあったものを現地点に移設)       

宮摺導水トンネル  長崎市宮摺町宮摺川

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宮摺導水トンネル  長崎市宮摺町宮摺川

長崎市茂木から県道34号線により海水浴場のある宮摺まで行く。バス停裏から烏帽子岩へ上る林道があり、大楠の竈神社上など過ぎなお上って行くと、大カーブし谷沿いから左方へ山腹を上るようになる。
このカーブ地点から右の未舗装の道へ入り、山道を少し行くと「猿輪の滝」に着く。3段の滝下に四角い取水堰が造られ、右方の水門から47.2mの開水路があり折れ曲がって導水トンネル入口へ導かれている。

烏帽子岩に登ると雲仙などと宮摺の集落を一望でき、宮摺川「猿輪の滝」のある谷間もここから眼下によくわかる。「宮摺導水トンネル」は、延長1,542.2m。戸町岳の下を貫通しているらしいが、出口地点は確認していない。
「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊337〜339頁による説明は次のとおり。

第9章 水とのたたかい   第9節 第5回拡張事業

取水方法の変更
…1964年(昭和39)9月28日から小ヶ倉水系で1日6時間の給水制限が実施された。翌10月24日からは浦上水系でも2日に6時間という厳しい給水制限が実施された。長崎市議会渇水対策協議会は現状を打開するため水源調査に動き出した。その結果、茂木宮摺川上流の猿輪の滝に新たな水源を求めることになった。早速、緊急の補水工事に着手した。
取水地点に約20㎥のコンクリート取水パックを築造し、75馬力のポンプで約40度の傾斜を、標高335mの烏帽子岩まで布設した500mの送水管を通して圧送、さらに500m下って、小ヶ倉ダム上流の鹿尾川に放水することとした。
この工事は1964年(昭和39)12月15日に完成し、1日2,000㎥の原水が確保された。

第1次変更事業
この補水工事により断水の危機は避けられた。しかし、緊急補水はあくまで一時的なものである。そこで、既認可工事の完成を待たず第5回拡張事業の1次変更事業の計画に着手した。
この事業は補水事業で取水した宮摺川から1日最大2,100㎥を取水し、小ヶ倉ダムに導水しようとするもので、1966年(昭和41)6月に着工し、翌1967年(昭和42)3月に完成した。
この宮摺川取水計画の概要は、補水工事で取水した宮摺川の上流”猿輪の滝”近くに取水堰を設け、取水した原水を開水路(延長47.2m)と、戸町岳中腹に掘削した導水トンネル(幅1.8m、高2.0m、延長1,542.2m)により小ヶ倉ダムに導水しようとするものであった。
1966年(昭和41)6月8日起工式を行い工事に着手したが、予想を上回る難工事で、翌1967年(昭和42)1月19日に導水トンネルが貫通、同年5月1日通水式が行われた。式では、在任期間16年、水に苦しんだ田川務市長が、最後の仕事として取水堰の取水扉を開いた。

大山導水トンネルの内部  長崎市大山町大山川

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大山導水トンネルの内部  長崎市大山町大山川

大山導水トンネルは、前項を参照。 https://misakimichi.com/archives/1205
先日訪ねた時、全長421.78mのトンネルで出口が見えたので、本日(8月8日)、長靴・懐中電灯を用意し再び訪ねて、出口まで往復した。
内部は写真のとおり。入口を6m、出口を10mほどコンクリート固めしているが、中は岩盤の素掘りのままである。距離を50mごとペンキで表示している。コーモリの巣となっている。

出口は植林地内のかなり急斜面な沢の上に出た。出口地点の場所説明はむつかしい。小ヶ倉ダム側から行ってもたどりつけないだろうという話であった。
烏帽子岩へ出る林道のちょうど中間くらいに、大きく2回カーブするところがある。車道の右道脇に砂防堤が築かれている沢が前後に3つあり、多分、このどれかの沢の上流部ではないだろうか。

「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊217頁の第2回拡張工事竣工概要による導水トンネルの説明は次のとおり。
工事期間が明記されてないが、1925年(大正14)11月工事に着手したようである。

第5章 大正時代の水道   第3節 第2回拡張事業
大山川導水工事
大山川は小ヶ倉村鹿尾川の支流で本水源地の流域に隣接する。集水面積約19万6,000坪(64万7,935㎡)、これを小ヶ倉貯水池に導き、貯水能力の増大を図る為、両渓谷間、山脈に隧道を開削して、本貯水池第一量水堰上流770間(1,400m)の地点の渓谷に放流導水する。
隧道は1,000分之1勾配、高6尺(1.82m)、幅5尺(1.52m)、全長232間(421.78m)、底部中央に幅15寸(0.5m)、深さ7.5寸(0.25m)、混凝土溝で隧道断面を考慮し毎秒最大40立方尺(1.11㎥)までを導水出来得る。

大山導水トンネル  長崎市大山町大山川

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大山導水トンネル  長崎市大山町大山川

第1次世界大戦後、周辺地区人口の都市集中化から水の需要は日増しに増大していった。第2次拡張事業は、1920年(大正9)10月に起工、1926年(大正15)に完成した。主要工事が、小ヶ倉ダムと出雲浄水場である。
小ヶ倉ダムは、当時、長崎市のダムのうちで最大のもの。戸町岳尾根を越した大山川からも取水し、同ダムに導くため「大山導水トンネル」が開削された。

現地へは、県道237号線小ヶ倉バイパスの「大山入口」バス停から鹿尾ダムの方へ行く。ダム上流域に大山への案内標識があり、左山手へ上って行く。「大山教会入口」分岐を過ぎ、300mほど進むと開けた谷合いに出る。
「大山導水トンネル」の取水口が左下の沢に見える。ここは大山林道起点。「烏帽子岩まで2.7k」の道標がある。戸町岳山頂(標高427m)がすぐ上に近くに見える。

「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊217頁の第2回拡張工事竣工概要による導水トンネルの説明は次のとおり。
工事期間が明記されてないが、1925年(大正14)11月工事に着手したようである。

第5章 大正時代の水道   第3節 第2回拡張事業
大山川導水工事
大山川は小ヶ倉村鹿尾川の支流で本水源地の流域に隣接する。集水面積約19万6,000坪(64万7,935㎡)、これを小ヶ倉貯水池に導き、貯水能力の増大を図る為、両渓谷間、山脈に隧道を開削して、本貯水池第一量水堰上流770間(1,400m)の地点の渓谷に放流導水する。
隧道は1,000分之1勾配、高6尺(1.82m)、幅5尺(1.52m)、全長232間(421.78m)、底部中央に幅15寸(0.5m)、深さ7.5寸(0.25m)、混凝土溝で隧道断面を考慮し毎秒最大40立方尺(1.11㎥)までを導水出来得る。

小ヶ倉ダム−出雲浄水場間の導水トンネル

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小ヶ倉ダム−出雲浄水場間の導水トンネル

第1次世界大戦後、周辺地区人口の都市集中化から水の需要は日増しに増大していった。第2次拡張事業は、1920年(大正9)10月に起工、1926年(大正15)に完成した。主要工事が、小ヶ倉ダムと出雲浄水場である。
小ヶ倉ダムは、当時、長崎市のダムのうちで最大のもの。ダムの水を出雲町高台に建設した出雲浄水場へ、星取山下をくぐり抜いた導水トンネルによって導き、これまで水に不自由していた高台地区へも給水を可能にしたのである。

「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊216〜217頁の第2回拡張工事竣工概要による導水トンネルの説明は次のとおり。

第5章 大正時代の水道   第3節 第2回拡張事業
接 合 井
導水管(径18吋)と導水路との接合点に設置され長12尺(3.64m)×幅6尺(1.82m)の泥凝土造り楕円形池を築造する。導水路は開渠、接合井と出雲町浄水場間は山腹に開削した隧道内に開渠を設け水路には石蓋をかける。
隧道は高7尺(2.12m)×幅7尺(2.12m)アーチの半径3.5尺(1.06m)導水路の総延長4.138尺(1,254m)余内隧道延長3,816尺(1,156.37m余)
水路断面幅2尺(0.6m)×水深1.2尺(0.36m)勾配3,000分之1の水路底標高228.9尺(69.36m)

出雲浄水場は、昭和62年小ヶ倉浄水場が新しく完成したことによって吸収され、廃止された。現在は空き地となり、一部が地元のゲートボール場として利用されている。
現地は、石橋から出雲通りに入り、桐ノ木保育所へ向かうとその上となる。出雲高台の県道237号線なら長崎霊園のちょうど下となる。現在は県道から下る道を新設中であった。今のところは歩いて行くしかない。
浄水場建設もこの導水トンネルにレールを敷き、小ヶ倉ダム側から材料運搬したのではないだろうか。人が通れたトンネルのようだ。

出雲浄水場のトンネル出口の写真は、ほしなべ氏のブログ版「長崎遠めがね」に掲載がある。
http://blogs.yahoo.co.jp/hoshinabedon/3618580.html
ところで、小ヶ倉ダム側の導水トンネル入口。同氏の他HPにコメントあり。記憶ある人がダムの堰堤そばとコメントしていた。しかし、現地へ行っても見当たらず、小ヶ倉浄水場の人に聞いた。

トンネルの場所は、浄水場正門から左へ登る車道を行く。最初の住宅手前にフェンスに囲まれた一角(上戸町4丁目6街区)がある。ガス管の埋設施設で立入禁止となっている。
この裏手の崖面がかってのトンネル入口である。水道局のフェンスがあり、施錠している。トンネル上部に付いている銘板「玉聾珊然」は、垂れ下がった蔦のためよく字を確認できないのは残念だった。(施設の銘板全般は後項)

出雲浄水場跡で感じたのは、対となった赤煉瓦造門の中の配管がゴォーゴォー音をたてていた。小ヶ倉浄水場で浄水した水を今も導水トンネルを使って送り、配水に利用していると思われる。

本河内低部ダム−西山低部浄水場間の導水トンネル

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本河内低部ダム−西山低部浄水場間の導水トンネル

次は、長崎水道史から特筆すべき導水トンネルをいくつか訪ねてみる。大きな河川に恵まれず、水源が少ない長崎市は、遠く西彼杵半島の神浦ダム・雪浦ダムや多良山系の大村市萱瀬ダムからも取水している。
地上部は導水管が見えるが、山間部はトンネルを繰り抜く。導水トンネルの数は、現在20本以上あるらしい。明治水道創設以来、絶え間なく困難を屈服してきた先賢の知恵と労苦を、導水トンネルに垣間見る思いがする。
この中でも、明治33〜38年の第1回拡張事業で着工された本河内低部ダム−西山低部浄水場間の導水トンネルは、最も歴史が古い。

まず、次のブログ ”パソ親父の「長崎さるく」珍道中 & 長崎情報”を見てもらいたい。2008年6月の記事「さるくマニアツアーⅠ 〜本河内編〜」
http://blogs.yahoo.co.jp/minami_kita/55787171.html
「本河内低部ダム」が最後に出ており、「水神神社の下に有るトンネル 今は立入禁止ですが、水源地の水を引く為のトンネルだったそうです。1キロ以上の距離が有るそうです」とある。

このトンネルに私は「何かありそう」とコメントしたので、その先を調べてみた。水神社の奥さんの話から、県立鳴滝高校の山手側、奥の敷地角にトンネルの出口を見つけた。
この先は「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊174〜175頁に次のとおりあった。

第4章 明治時代の水道   第10節 第1回拡張事業
隧道工事
工事概要は、本河内低部ダムから西山低部浄水場の原水導水管口径18吋(450mm、リベット鋼管)延長5,757.2尺(約1,744.0m)を布設するためのトンネルで、本河内水神宮横から鳴滝に至る延長1,152.7尺(349.2m)と鳴滝から片渕に至る延長941.8尺(285.4m)計2,094.5尺(634.6m)の2本であった。
断面は、高さ、幅とも6尺でアーチ(拱)の半径3尺(約0.9m)、地質が悪い部分のみコンクリート巻立を行い、地質良好な箇所は素掘りとした。
工事は、1901年(明治34)5月25日着工され、工期は1年6カ月であった。

長崎市上下水道局浄水課へ場所を尋ねた。鳴滝高校の先となる鳴滝—片渕間のトンネルは、「鳴滝西部公民館」建物下に入口、「片渕3丁目公民館」建物下に出口がある。「城の古址」下をくぐったトンネルとなっているのだ。
導水管をたどった。鳴滝川を今の「鳴滝橋」で渡り、鳴滝西部公民館建物下で消える。片渕3丁目公民館へ回ると建物下にトンネル出口があった。長崎大学経済学部へ向った通りに「水道橋」という橋があり、管が渡る。
これからは市道を少し上るのだろう。西山川をまた橋で渡り、立山への登り口となる西方橋手前の県道235号線「水源地跡」バス停に着いた。

リンガーハット西山店がある一帯。西山低部浄水場が、以前はここにあったのだ。本河内低部ダムの完成に合わせ、ここに浄水場が造られ、同ダムの水を2本のトンネルによって導き、浄水して市内へ配水した。
本河内と西山には3つの浄水場があった。本河内高部ダムの本河内浄水場、西山ダムの西山高部浄水場、そしてこの本河内低部ダムの西山低部浄水場。それぞれ独立した水系を持ち、相互の関連が利かなかった。
都市道路計画に西山低部浄水場敷地がかかったのを機会に、3浄水施設を最新式本河内浄水場に一元化する整備統合事業を行い、1980年(昭和55)5月、新本河内浄水場が完成。西山低部浄水場は廃止された。

さて、西山低部浄水場は廃止されたが、2つの導水トンネルの水はどうなっただろうか? 導水管はまだ現役で稼動している。なぜならば、西山ダムは水位が高く、西山ダムの水を今度は自然流下により逆流させて、本河内低部ダムの水とともに新本河内浄水場に送っているそうだ。
なお、鳴滝西部公民館そばには、トンネル工事にいわれを持つ「トンネル地蔵」がある。

倉田水樋水源跡  長崎市伊良林1丁目

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倉田水樋水源跡  長崎市伊良林1丁目

創設前の水道「倉田水樋水源跡」は、長崎市伊良林1丁目にある。中島川の上流部。川沿いの市道は一方通行なので、長崎市民会館横から入り、伊良林小学校へ向けて進む。学校へ出る手前右方に「倉田水樋水源跡」の記念碑がある。

「倉田水樋」は近代水道が創設されるまでの218年もの間、長崎の人々の生活を支えていた。1891年(明治24)本河内水源地が完成すると、同水樋は廃止された。
「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊33〜35頁による説明は次のとおり。

第2章 近代水道前史   第2節 倉田水樋の建設

長崎で最初の水道は1673年(延宝元)に完成した「倉田水樋」とされている。本五島町の乙名で、廻船問屋を手広く営んでいた二代目倉田次郎右衛門吉重が私財を投じ、7年の歳月を費やして創設したもので、一般生活用の水道としては江戸時代日本では22番目のものである。
長崎は、開港以来急激な人口増加に海岸や沼地を埋め立てて街づくりを行ってきた。そのため、井戸を掘っても良質な水は出ず、町民は水に不自由していた。…

次郎右衛門の計画概要

水 源  主水源となったところは、かねてから次郎右衛門自ら各所を踏査した結果、銭屋川(中島川の別名)と伊良林の若宮稲荷境域を流れる若宮川ー通称ばんぞ川ーの合流地点(今の伊良林1丁目)にあった。ここは旧水神社裏手にあり、湧水量が豊富で味が良い。これに目を付け、1653年(承応2)川の中に堰を築き、井筒を積み上げたところ、堰を越えるような勢いで、水が吹き上がった。次郎右衛門はさらに、奉行所の許可を得て「水車」を作り、これを使って川の中んら吹き上がった水を近くの八幡町地上に引き揚げることに成功したのである。
この「水車」は長崎最初のもので、のちのちまで「倉田車」と呼ばれて長崎名物の一つとなった。
他に補水用として1670年(寛文10)岩原郷、西山郷、本河内郷、小島郷、片渕郷から取水する許可をもらった。

配水幹線  主水源からは銭屋川左岸に沿って開渠を通じ、八幡町に来て道路を3尺(1尺は0.303m)から5尺に掘り下げ木樋を埋め、中島川の東部は八幡町から銅座町まで、中島川西部は大井手町から築町に配水幹線を設け、分岐箇所には堰子を設け支樋を通して配水した。

樋の用材  主として檜と杉を用い、主幹は厚さ1寸の板で、1辺が1尺から6寸(1寸は3.03cm)までの箱型断面で1本の長さは9尺から15尺とした。
支管は直径1尺前後の檜と杉の丸太の上部を薄切りにし、厚材の方は幅、深さとも4寸の溝をえぐって薄切りにした蓋をかぶせて檜皮や杉皮で2寸の厚さで巻き付け船釘で止めたものや、直径4寸から5寸の孟宗竹の中節をとり、2寸厚さの天川土を塗り付けたものであった。… 

ししとき川の下水路・同支線の建設経過  「長崎水道百年史」から  

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ししとき川の下水路・同支線の建設経過  「長崎水道百年史」から

長崎市の市街地を流れる石敷の水路「ししとき川の下水路・同支線」を前項において、社団法人九州建設弘済会HP「土木遺産 in九州」長崎県の中から見た。
ところで、この建設経過が同HPに詳しく説明されていない。資料が「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年発行44〜46頁にあったので、要点を抜粋する。

写真は「ししとき川」川端通りと「えごばた」説明板。後は桜町地獄川及び最近、長崎港口対岸の西泊町で見た石敷下水路と近くの井戸。

第3章 近代水道の建設  第1節 水道会社の設立計画

猛威を振うコレラ
…特に、1885年(明治18)8月、浪ノ平町から発生したコレラの患者は記録にあるものだけでも833人、そのうち死亡者617人を数えた。しかも、この数は長崎区だけで隣接市町村にもそれ以上の患者を出し、さらに全国に広がっていった。
当時の新聞には、毎日コレラの患者数や予防対策の記事で埋められていた。この時の長崎の様相は、各家庭では表戸を堅く閉ざし、道行く人も絶え、官庁、学校も廃庁、廃校同然で、それまで頻繁に出入りしていた外国船も長崎を避けるようになり、長崎が受けた経済的打撃は大きかった。
一方、居留地の外国人は衛生設備の改善を訴え「それでなければ不安で居留することはできない」と外務省に強く要望した。…
着任早々の日下県令(日下義雄。明治19年7月19日付県令改め県知事となる)は、衛生設備の改善を痛切に感じ、これらの改良が急務であると考えた。手始めにすでに着工されていた6本の市街下水幹線(素掘り)の工事に改良の命令を下した。…

まず下水道を改善
1号線から6号線は、1886年(明治19)3月11日に入札が行われた。…ところが「この下水幹線工事では汚水が浸透し飲料水が汚染される恐れがある」として日下県令は板石、瓦材で三面張りとし、天川(しっくいのこと)で固める改良工事を命じた。同年5月1日着工、8月30日完成。…

七万五百mの中小溝を整備
翌1887年(明治20)は、残る中、小溝延長17里34町2尺(約7万473m)の改良工事を区に命じ、同年4月着工、9月末完成した。…
工事は、中溝については人造石と切石、小溝は板石、瓦等の三面張りで、天川で固める工法であった。…
この工事の完成によって、区内の隅々まで隈なく溝という溝は、改良されたものと思われる。溝の完成によって、汚水が井戸に浸透するのを防ぎ幾分かは改善されたが、その反面井戸の水量が減少して大騒ぎとなった。…

ししとき川下水路・同支線  長崎市鍛冶屋町・古川町

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ししとき川下水路・同支線  長崎市鍛冶屋町・古川町

まず、布袋厚著「長崎石物語」(2005年刊長崎文献社)24〜25頁の”石張りの川 シシトキ川”から。最後の地図とも。

長崎では道ばかりでなく、川のなかまで石が張られている。中通り商店街と寺町のあいだを流れる「シシトキ川」がそれである。この川は中島川の支流となっている銅座川の、そのまた支流である。…
川幅は約二メートルで、大きな溝という感じにちかい。上流にさかのぼるにつれて、しだいに川幅がせまくなる。写真でわかるように、両脇の板石が斜めに張られ、水量がすくないときに、流れをまんなかに集めるしくみになっている。
このような川は、桶屋町から築町をへて出島橋にいたる「地獄川」(公会堂の裏、および中央公園裏で川底がみえる)、樺島町、館内町などもある。地獄川の名は、公会堂裏にある市役所別館の場所に、むかし、牢屋「桜町牢」があったところから来ている。

HP「土木遺産 in九州」の「ししとき川下水路・同支線」は、長崎市鍛冶屋町・古川町しかふれていないが、上記のとおり同じような下水路は、長崎市内では桜町、栄町、樺島町、館内町ほか、外国人居留地だった東・南山手町でも多く見られる、最近は港口対岸の西泊町でも見た。
掲載された町の下水路の場所は、地図のとおりである。私が調べたところ、地図の赤青●のところに赤煉瓦造のアーチ石橋3つが現存しているのがわかった。石橋のことは、次を参照。後の5枚の写真がそれである。
https://misakimichi.com/archives/810
https://misakimichi.com/archives/1020
https://misakimichi.com/archives/787

HPの見所の文「明治中期の煉瓦トンネルが原型をよく留めて」とは、この銀屋町公民館角の「稲荷橋」のことだろう。 
土木学会編「日本の近代土木遺産(現存する重要な土木構造物2000選)」の中より、九州での河川、道路を主とする公共的な土木施設を紹介した社団法人九州建設弘済会HP「土木遺産 in九州」長崎県の中の説明は次のとおり。

ししとき川下水路・同支線  長崎県長崎市鍛冶屋町・古川町   〔樋門・水路〕

明治中期の煉瓦トンネルが原型をよく留めて群として残っている。

所在地・完成年等
●所在地:長崎県長崎市
●完成年:1887年(明治20年)
●設計者:吉永長策
●施工者:不明
●管理者:不明
●文化財指定等:

施設の形式・諸元
●延長:200m(第2線残存部)、大溝;第2線、第6線
●形式:石敷水路

遺産の説明(社会的背景・歴史的・文化的価値など)
ししとき川下水路は、長崎市の市街地を流れる石敷の水路で、現在、残っている区間も約200mと大規模な施設です。
水路の底部は水が流れやすいように中央に向かって傾斜している等の特徴があります。

交通アクセス  JR長崎駅から3.0km、車で10分。

中島川変流部護岸  長崎市中島川

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中島川変流部護岸  長崎市中島川

長崎市の繁華街、「中央橋」バス停から中島川の下流へ向かうと、国指定史跡「出島和蘭商館跡」があり、この角の河口に鉄橋のトラス橋「出島橋/(旧)新川口橋」が架かる。
「中島川変流部護岸」は、この「出島橋」の右岸の先、江戸町通り有料駐車場の川岸である。

石護岸の緩やかなカーブは、出島橋からよく見える。「出島和蘭商館跡」の対岸となる。
HPによると「長さ約200m」とある。港入口「出島ワーフ」あたりまで見たが、当時の石護岸が残っているのは、やはりこの駐車場のところだけのようである。

後の写真は参考。今の出島正門口で発見されている西側護岸石垣遺跡と、日華連絡船(長崎上海航路)時代、昭和5年(1930)出島岸壁「長崎港駅」まで延長された鉄道「臨港線」。
戦後もSLが走り、昭和62年廃止された。長崎駅から細長い遊歩道がその跡である。 

土木学会編「日本の近代土木遺産(現存する重要な土木構造物2000選)」の中より、九州での河川、道路を主とする公共的な土木施設を紹介した社団法人九州建設弘済会HP「土木遺産 in九州」長崎県の中の説明は次のとおり。
最後の写真は、8月26日に「出島和蘭商館跡」に入場してから写したので追加した。

中島川変流部護岸  長崎県長崎市中島川   〔護 岸〕

第1次事業の遺構であり、カーブを描く布積護岸である。

所在地・完成年等
●所在地:長崎県長崎市中島川
●完成年:1889年(明治22年)
●設計者:不明
●施工者:(第1次長崎港湾改修事業)
●管理者:不明
●文化財指定等:

施設の形式・諸元
●延長:200m残
●形式:石護岸〈切石布積〉
●設計者:梅扶高元、デ・レーケ

遺産の説明(社会的背景・歴史的・文化的価値など)
明治22年に完成した中島川変流部護岸は、長崎市を流れる中島川の下流にある長さ約200mの切石布積の石護岸です。改修事業の調査は、長崎県より政府に依頼し、梅扶高元、デ・レーケ両氏により行われ、流路変更と共に、出島を平均約10間(約18m)削り取り拡幅されています。石護岸は緩やかなカーブを描き美しく、長崎市街の風景に溶け込んでいます。

交通アクセス  JR長崎駅から1.0km、徒歩で10分。