月別アーカイブ: 2014年12月

稲佐神社の石階段  佐賀県白石町返田 ( 佐賀県 )

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稲佐神社の石階段  佐賀県白石町返田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入ると、稲佐神社前を通る。後ろの写真は、肥前鳥居、参道橋、そのほかの桁石橋。

稲佐神社の石階段 いなさ
(杵島)白石町 稲佐神社・参道 石階段 長約160m 江戸期 町教委 平成3改修(C充填) 自然石を粗く積んだ長い石階段 2 B

彦嶋神社と周辺の史跡  佐賀県白石町深浦 ( 佐賀県 )

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彦嶋神社と周辺の史跡  佐賀県白石町深浦

国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入る。石塔群の手前から左折。石造六地蔵やその奥に彦嶋神社がある。史跡説明板は写真のとおり。
彦嶋神社の木造神像は、佐賀県立博物館に展示されている。佐賀県HP文化財によると次のとおり。

佐賀県重要文化財 木造神像(もくぞうしんぞう)
平成20年3月14日指定  佐賀市城内一丁目15番23号 佐賀県立博物館  彫刻

彦嶋神社(杵島郡白石町深浦)に伝わる男神像、女神像(唐装)、僧形像は、いずれも正統な彫技やこめかみをしぼった面長な顔立ちから、鎌倉末期から南北朝時代にかけての制作と考えられる。墨書銘に名前のみえる藤原通村は、当地の領主の白石氏が代々使用した「通」の系字を用いていることから同氏の一族であると思われる。
14世紀にさかのぼる神像は県内では希少であり、出来映えも優れている。当地を領有していた白石氏にかかわる遺品であることも重要である。
男神像 51.0cm  女神像(唐装) 47.3cm  僧形像 41.1cm  (附) 女神像(和装) 29.5cm

深浦の道標  佐賀県白石町深浦 ( 佐賀県 )

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深浦の道標  佐賀県白石町深浦

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入る。すぐ石塔群手前から彦嶋神社へ左折、旧街道を深浦峠の坂道へ向かうと、道角にまず「右かしまみち」の標石、その先の八天宮祠右にこの碑がある。
「西嘉島道/南龍王道」の刻字は、「八天宮」の下の部分。薄い彫りなので注意して見る。

深浦の道標 ふかうら
(杵島)白石町 石道標(自然石) 高1m以下 宝永6(1709) 町教委 移設 (正面)「八天宮、西嘉島道/南龍王道」 2 C

福泉禅寺の石階段  佐賀県白石町田野上 ( 佐賀県 )

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福泉禅寺の石階段  佐賀県白石町田野上

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入る。福泉禅寺の入口案内板があり、梅ノ木谷溜池を通って行く。

福泉禅寺の石階段 ふくせん
(杵島)白石町 福泉禅寺・参道 石階段 4座 天明7-8(1787-88) 町教委 保存状態良好 1 C

次は白石町HPから「福泉禅寺と和泉式部伝説」
福泉寺この寺には、2つの興味深い物語が残っています。
その1つが「和泉式部生誕伝説」で、遙か平安時代藤原氏全盛期のお話です。ある朝、赤ちゃんの鳴き声で目を覚ました福泉禅寺のお坊さんたちが周囲を探したところ、お堂の裏で白い鹿が人間の女の赤ちゃんにお乳をあげていました。そこに隣の塩田の里(現在の嬉野市塩田町)から長者大黒丸夫婦がやってきて、
「私たち夫婦には子供がいないので、常々このお寺の薬師如来さまにどうぞ女の子をお授けくださいと祈願しておりました。すると夕べ、薬師如来様が夢枕に立たれ『おまえたちの永年の信心をあわれと思い、福泉禅寺の裏に一人の女の子をさずけておいた。明日の朝早速に寺に行き、その子をつれて帰るがよい』とお告げがありましたので早速こちらへ参った次第です」と申しました。
大黒丸夫婦にもらわれていった女の子はとてもかしこく美しく成長し、縁あって宮廷に上がることになりました。これが和歌の名手和泉式部だったのです。和泉式部が遠いこの故里を思って詠んだ「ふるさとに 帰る衣の 色朽ちて 錦の浦や 杵島なるらむ」という歌が今に伝わっています。

2つめは「幽霊の掛軸」の由来です。江戸時代、福泉禅寺の住職東州和尚が修行の旅に出ていた時のことです。ある夜、泊めてもらった駿河国(現在の静岡県)のお金持ちの家に幽霊の掛軸が飾ってありました。和尚が幽霊の掛軸を飾っている理由を主人に尋ねたところ、「この掛け軸は、継母に反発して悪行を重ねる子供のもとに、亡くなった生みの母が幽霊になって『育ての母上に逆らってはいけない』と諭すために現れた姿を描いたものです」という答えが返ってきました。その話に感動した東州和尚が「是非地元の同じ境遇の家庭にもその話を伝えたい」と申し、譲り受けてきたという掛軸が今も福泉禅寺に保存されています。
《 案 内 》 臨済宗。はじめ真言宗寺院として創建。のち禅宗寺院となる。木造十一面観音菩薩坐像は県重要文化財。

梅ノ木谷溜池  佐賀県白石町田野上 ( 佐賀県 )

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梅ノ木谷溜池  佐賀県白石町田野上

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入る。福泉禅寺の入口案内板があり、梅ノ木谷溜池を通って行く。白石平野を潤す4段の溜池。

梅ノ木谷溜池 うめのきだに
(杵島)白石町 溜池(3基) (下段)堤長約400m,(中段)堤長約280m,(上段)堤長約100m (上・中段)享保5(1720)、(下段)明和5(1768)→嘉永4-文久3(1851-63)改築 町教委 昭和24に最上段(4段目)を築造 2 C

城江井樋  佐賀県有田町山谷牧 ( 佐賀県 )

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城江井樋  佐賀県有田町山谷牧

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道202号から松浦鉄道山谷駅そばの踏切を渡り唐船城跡の山田神社へ向かう。神社前の橋下が水路で、下流へ車道をたどる。有田川が彎曲するあたりの岩面手前に、コンクリート整備された素掘トンネル入水口があり、出水口は約120m先。中間岩場に空気穴も確認できる。
西有田町史上巻276〜278頁を参照。漢学者草場佩川(くさばはいせん)が書いた碑文が入口付近にあったが、今は山田神社境内に移されている。

城江井樋 じょうえ
(西松浦)有田町 有田川 素掘トンネル (水路) 長約120m 嘉永3(1850) WEB 保存状態良好 1 C

詳しくは、HP「ももちゃんの西有田史跡マップ」を参照。  http://www15.ocn.ne.jp/~housenji/joueibi.htm

城江井樋
有田川右岸の二ノ瀬の水田へ水を引くため、嘉永3年(1850)岩をくりぬいて、トンネルを掘ったものである。子ども一人が通り抜けられるくらいの穴で、約120メートルの長さである。
120メートルといえば、60間、1間1両で請け負ったというから、60両の費用がかかったことになるが、何人もの人夫が途中で逃げ出したり、落盤で命を落としたり、大変な工事だったと聞いている。 
漢学者草場佩川(くさばはいせん)が書いた碑文が入口付近にあったが、いまは、山田神社の境内に移された。その記念碑(注1)に「馬頭」樋という文字があり、桃川の馬ン頭(サイフォン)式を参考に作られたようである。
詳しくは、西有田町史上巻(P276〜278)をご覧ください。こもあれ、先人の着眼、行動には、感激するばかりである。

注1: 記念碑碑文
松浦郡有田郷山谷村爽水有田各分渠漑之水東有石崖阻渠故設馬
頭槭以取水西之水其脩造之費率無虚為村民患焉嘉永
年間鍋島種邑為郷宰庚戌春為相謀命工鑿崖腹
五十歩以通渠流永使灌漑巧亦偉矣時
余攝郷中教導事故聊紀歳月繋之以詩
昔役五丁徒夸巧 今看(ザン)鑿利三農   〈ザンサク:穿かれた穴〉
無間然處能盡力 其所無事況有庸    〈三農:山地平地水辺の農業。農業農村農民〉
要知遺澤千秋後 水汪汪分流不窮
草場クツ(革へんに華)撰并書

松浦郡有田郷の山谷村には爽やかな水があり、田畑を潤している。
この水は東にある右側の崖が粗雑だったため
馬頭を設けて水を仕切って水を取り出し西へ流していたが、壊れたり、大水で流されたりして
その修理のために 多くの費用が掛かっていたため、村民は大変困っていた。
嘉永年間、佐賀の鍋島種邑が有田郷の宰相として赴任し、庚戌(嘉永3年)の春、
相談しつつ工事を命じて崖腹を穿ち、五十歩の渠を通し以って灌漑に使い
その仕事は、巧みて偉大だった。
時には村のものを教え導きつつ、いささか事故もあったが、歳月之をつなぎ、以って詩う。

昔の役(仕事)五丁徒に巧をおごる。今、?鑿(ザンサク)を看、三農(山地平地湿地)を利す。
その間、然る処よくその力を尽くし、其の所事なきを得、 況や役に立つことこの上なし、
知るべし、遺された澤はその後千年に及び、水はとうとうと分かち流れ、窮することはない。

寺岳西尾根道の踏査  2014年12月 ( 長崎県 )

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寺岳西尾根道の踏査  2014年12月

2014年12月23日(火 天皇誕生日)晴。寺岳(標高451.8m)西尾根道の踏査。参加3人。みさき道歩会の例会。12月21日が雨のため延期して実施。
布巻9:35—西尾根道—ピーク上11:50(昼食)12;30—寺岳登山道出合12:50—寺岳登山口13:28—稲荷神社石鍋製作所跡13;50—為石14:25(徒歩距離 約7km)

寺岳西尾根道は2012年5月に一度下ったことがあり、少々の踏み跡とテープがある。中間の急斜面が危険だったので、逆に登り再度のリベンジ踏査。
午前9時35分 長崎バス布巻バス停から歩き出す。摩利支天神社上の墓地から入るが、左右近くの民家の四代続くという石垣ヤブツバキとゆうこうの木をまず見学。サイクリング道路の石段を上がり、登りにかかる。雑木林尾根の急坂道は測量杭があって歩きやすく残り、ぐんぐん高度を上げる。

炭焼き窯跡がある植林地にかかる。前回間違った所で、今回は右植林地の境を登ると、寺岳が見えるピークに出たので昼食とした。これから道はまたはっきりし、最後を急登すると寺岳登山道に出合う。寺岳頂上往復は省き、後は下るだけ。鹿・猪除けフェンスのある寺岳登山口で、為石上の車道に出た。
稲荷神社へ向かい、鍋岩石鍋製作所跡を調査。神社下あたりにあと一つ製作所跡が、遺跡地図にあるが、この岩面は探しきれなかった。

松浦町桃川の佐嘉領境石  伊万里市松浦町桃川 ( 佐賀県 )

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松浦町桃川の佐嘉領境石  伊万里市松浦町桃川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。
伊万里市内から国道498号によりJR筑肥線桃川駅の方へ向かう。この「領境石」は説明板のとおり実際の場所から移設され、現在は宮地嶽神社下の「桃川御番所」跡地に立っている。

松浦町桃川の佐嘉領境石 まつうら、ももかわ
伊万里市 (宮地嶽神社) 境界石 高2.05m,24㎝角(うち、台石高0.3m) 江戸期 WEB(筑前国境石散歩) 表面が風化 (正面)「從是南 佐嘉領」 2 C

大野岳烽火場跡  伊万里市南波多町 ( 佐賀県 )

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大野岳烽火場跡  伊万里市南波多町

古賀稔廉氏編「改訂増補 いまりの歴史散歩」伊万里市郷土研究会昭和59年発行257〜259頁に、次のとおり「大野岳烽火場跡」を記しているので、伊万里市大野岳山頂へ現地確認に行った。

防人の山
防人の歴史を秘める大野岳は、伊万里市北東部10kmの所にあり、東は南波多町西は大野町にまたがる標高420mの山で、一名「前平山」とも呼ばれています。地質学的には、第三紀砂岩層の上に玄武岩が乗った形で、八合目程から上層にわたって、玄武岩の風化による巨岩や奇岩がさながら石庭を見るように分布し、頂上は台地状になって牧草や灌木が茂っています。
山頂からは、北に玄界灘と、そこに浮ぶ壱岐、対馬、松浦潟、東に鏡山、作礼山、天山を、西に伊万里湾、平戸島、南遙かに雲仙や多良岳、黒髪、八幡の秀峰を一望におさめ、眺めは正に天下の絶景でもあります。大野岳から展望し得らるるこれらの地は、大陸に最も近く、従って上代から外敵に備え、国土防衛前哨の防人の駐屯地として重要な役割をはたしてきました。…
大野岳山頂にも、防人と烽火場が設けられ、現在も、山上に突き出た方形の自然石よりなる烽台が残っている。標高300mの所にある現在の大野部落に、25人の防人達が十日に一日の休暇を食糧つくりの仕事に当って、自活しながら勤務をはたしたと伝えられています。…(井本寿郎)

大野岳は公園化されており、山頂は駐車場から歩いて5分である。伊万里農林事務所設置案内板では、「かぶと虫の丘」となって、円形の広場となっている。ここが山頂らしいが、後の築山のようでもあり、三角点はやや低い左手前のピークにあった。背後に木立があり、この薄暗い木立内に「防人の峰」碑が立っていた。

いまりの歴史散歩に「山上に突き出た方形の自然石よりなる烽台が残っている」と記すのも、ここのことだろう。防人の峰碑の写真説明には「標高424mの最高地点防人の峰 防人の見張り台があったところ」とある。遺跡ウォーカーHPでも、ここを表示している。
防人時代、なにしろ上代の烽火場跡の話である。完全に遺構が残っている方が不思議だろう。木立内の4隅にそれらしき自然石があったようなので、これと断定するわけではないが、薄暗い中の自然石をともかく撮影してきた。後ろ4枚の写真は、山頂手前の夫婦石園地道祖神と、山頂北側の巨石広場の風景。

里小路の小笹生垣  伊万里市東山代町 ( 佐賀県 )

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里小路の小笹生垣  伊万里市東山代町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。
伊万里市内から松浦へ向かう国道204号の里交差点で左折し、松浦鉄道里駅近くの踏切を渡ると尊光寺がある。寺から約450mの区間が里小路の小笹生垣の通りである。

里小路の小笹生垣 さとこうじ
伊万里市 <山代郷> 生垣 江戸期 WEB 保存状態良好 入封した城下に計画的に造られた街路→生垣として等しく矢竹を用いた独特の景観 1 C

新さが百景  里小路の小笹生垣  (現地説明板)
豊臣秀吉が栄華を極めていた頃、ここ山代郷(現在の山代町、東山代町)は田尻鑑種が治めていました。
鑑種は、天正17年(1589年)龍造寺隆信により筑後柳川の鷹尾城からここ山代に移封されました。
その家臣たちは、この丘陵地を住居と定め、東西に本通、南北にいくつかの小路を設けて土地を区画し屋敷を構え、その境に矢竹を植えて生け垣としました。
今でも、緑豊かな矢竹の生け垣の閑静な景観が、落ち着いた雰囲気を醸し出し往時を偲ばせてくれます。
このような景観が認められ、平成10年1月「新さが百景」に認定されました。
伊万里市観光課   東山代町里区