城江井樋  佐賀県有田町山谷牧 ( 佐賀県 )

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城江井樋  佐賀県有田町山谷牧

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道202号から松浦鉄道山谷駅そばの踏切を渡り唐船城跡の山田神社へ向かう。神社前の橋下が水路で、下流へ車道をたどる。有田川が彎曲するあたりの岩面手前に、コンクリート整備された素掘トンネル入水口があり、出水口は約120m先。中間岩場に空気穴も確認できる。
西有田町史上巻276〜278頁を参照。漢学者草場佩川(くさばはいせん)が書いた碑文が入口付近にあったが、今は山田神社境内に移されている。

城江井樋 じょうえ
(西松浦)有田町 有田川 素掘トンネル (水路) 長約120m 嘉永3(1850) WEB 保存状態良好 1 C

詳しくは、HP「ももちゃんの西有田史跡マップ」を参照。  http://www15.ocn.ne.jp/~housenji/joueibi.htm

城江井樋
有田川右岸の二ノ瀬の水田へ水を引くため、嘉永3年(1850)岩をくりぬいて、トンネルを掘ったものである。子ども一人が通り抜けられるくらいの穴で、約120メートルの長さである。
120メートルといえば、60間、1間1両で請け負ったというから、60両の費用がかかったことになるが、何人もの人夫が途中で逃げ出したり、落盤で命を落としたり、大変な工事だったと聞いている。 
漢学者草場佩川(くさばはいせん)が書いた碑文が入口付近にあったが、いまは、山田神社の境内に移された。その記念碑(注1)に「馬頭」樋という文字があり、桃川の馬ン頭(サイフォン)式を参考に作られたようである。
詳しくは、西有田町史上巻(P276〜278)をご覧ください。こもあれ、先人の着眼、行動には、感激するばかりである。

注1: 記念碑碑文
松浦郡有田郷山谷村爽水有田各分渠漑之水東有石崖阻渠故設馬
頭槭以取水西之水其脩造之費率無虚為村民患焉嘉永
年間鍋島種邑為郷宰庚戌春為相謀命工鑿崖腹
五十歩以通渠流永使灌漑巧亦偉矣時
余攝郷中教導事故聊紀歳月繋之以詩
昔役五丁徒夸巧 今看(ザン)鑿利三農   〈ザンサク:穿かれた穴〉
無間然處能盡力 其所無事況有庸    〈三農:山地平地水辺の農業。農業農村農民〉
要知遺澤千秋後 水汪汪分流不窮
草場クツ(革へんに華)撰并書

松浦郡有田郷の山谷村には爽やかな水があり、田畑を潤している。
この水は東にある右側の崖が粗雑だったため
馬頭を設けて水を仕切って水を取り出し西へ流していたが、壊れたり、大水で流されたりして
その修理のために 多くの費用が掛かっていたため、村民は大変困っていた。
嘉永年間、佐賀の鍋島種邑が有田郷の宰相として赴任し、庚戌(嘉永3年)の春、
相談しつつ工事を命じて崖腹を穿ち、五十歩の渠を通し以って灌漑に使い
その仕事は、巧みて偉大だった。
時には村のものを教え導きつつ、いささか事故もあったが、歳月之をつなぎ、以って詩う。

昔の役(仕事)五丁徒に巧をおごる。今、?鑿(ザンサク)を看、三農(山地平地湿地)を利す。
その間、然る処よくその力を尽くし、其の所事なきを得、 況や役に立つことこの上なし、
知るべし、遺された澤はその後千年に及び、水はとうとうと分かち流れ、窮することはない。