末広橋(中修寺橋)  武雄市東川登町永野 ( 佐賀県 )

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末広橋(中修寺橋)  武雄市東川登町永野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道35号武雄町上西山の谷口眼科先から渕の尾ダムへ左折する。ダム先の東川登町永野大山路公民館の老松神社横に、末広橋(中修寺橋)が移設・復元されてある。

末広橋(中修寺橋) すえひろ
武雄市 老松神社<長崎街道/大山路川> 石桁橋 長4.8m(2G),幅2.9m 享保年間(1716-36)以降 市教委/WEB 河川改修によりH8移設・復元/階段は移設時 長崎街道(武雄廻り)に架かっていた橋/橋面石梁を直接横桁で支える一般的な形式 3 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」佐賀県の石橋によるデータは、次のとおり。

№3,125  末広橋
武雄市東川登町大字永野 大山路
橋長:4.8m  橋幅:2.9m  桁9列
2径間桁橋

末広橋(旧中修寺橋)復元工事
記念碑
碑文
「江戸時代(1603〜1876)に首都の江戸から長崎に通じる長崎街道が当地の大山路部落を通っていた。その唯一の史跡がこの末広橋である。
長崎街道は小倉から長崎まで五十七里、三十三宿の道程である。
享保二年(1717)までは、江北町、橋町、嬉野町、彼杵を通り長崎に行くコースが一番利用者が多い本かいどうであったが享保二年からは、江北町、北方町、武雄町、大山路、嬉野町、彼杵を通って長崎というコースが本街道となったのである。当時唯一の開港地の長崎に向けて、長崎から江戸に向けての往来者は計り知れない。
我が大山路の住民は、時には街道のロマンにひたり、時には歴史をつくった先人に想いを馳せるよすがとして、この橋を復元建立したのである。
平成八年十一月吉日
特別寄贈者 一金壱百万円也
石川又一殿」