月別アーカイブ: 2010年12月

長崎の古写真考 目録番号:1249 高鉾島(8)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1249 高鉾島(8)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1249 高鉾島(8)
〔画像解説〕 超高精細画像
上野彦馬製作と思われる中型アルバムから解かれた1枚。赤の縁取りの中に花文字印刷でIsland of Pappenberg Nagasakiとキャプションがある。中央の御飯の形が高鉾島で長崎港口に位置し、古くから長崎湾に入港する目印になっていた。鎖国時代にキリシタンが処刑された殉教の島としても知られ、オランダ語のPappennberg(神父の島)という呼び方にはその意味がこめられていた。この戸町方面から望む長崎港口の写真としていろいろのアングルからのものが残されているが、この写真の撮影地点は非常に高い。戸町の大久保山(234m)の山頂から撮影したものかと思われる。右側は神崎鼻で高鉾島の後ろは石炭の高島、左は手前が香焼島とその奥は伊王島、手前長崎半島側の下には戸町に停泊している帆掛け舟の帆柱が2本見えている。このアルバムに含まれていたと推測できる他の写真などから判断して、明治12年(1879)頃の撮影である。

■ 確認結果

データベースで「高鉾島」と検索すると、48点ある。戸町側から写された作品の多くは、戸町の高台墓地から撮影され、戸町浦の入江が写る。その中でも、目録番号:1249「高鉾島(8)」は、特別なアングルの作品。戸町浦は写真左下尾根の山陰にある。
超高精細画像の解説は、「この写真の撮影地点は非常に高い。戸町の大久保山(234m)の山頂から撮影したものかと思われる」としているが、大久保山は長崎港口、女神の尾根上にあり、地理的にあり得ないだろう。

写真右下の尾根は、戸町トンネル西上の尾根である。明治34年測図国土地理院旧版地図のとおり、ここに標高112.4mのピークがあった。現在、大型マンション「アプローズ長崎南」が数棟建って、地形は極端に変わっている。戦後、砕石場もあった。
幕末までは対岸「西泊番所」とともに、長崎港警備の「戸町番所」が置かれ、境内を示す標石が残っていた。次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/5437

目録番号:1249「高鉾島(8)」は、この高台から撮影されている。ピークは一部残り、マンションの小公園となっているが、フェンスに囲まれ、六番館駐車場奥の登り口は施錠されている。
フェンスの外側から登り、現在の写真を写してきた。ここだと女神や神崎鼻、港外の高鉾島、香焼島、伊王島の位置と、海面上の高さがほぼ合うのがわかるだろう。
戸町番所境内の標石は片付けられたか、見当たらない。香焼・深堀間は埋め立てられ、三菱重工長崎造船所香焼工場の工業地帯となっている。

この作品の撮影場所は、戸町の高台墓地や鍋冠山からとはならない。星取山などの場合は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2350
なお、画像解説中の「高鉾島の後ろは石炭の高島、左は手前が香焼島とその奥は伊王島」は、「高鉾島の後ろは沖ノ島と伊王島、左は手前が蔭ノ尾島とその奥は香焼島」が正しい。高島は遠く離れて確認できない。

長崎外の古写真考 目録番号:3100 鶴岡八幡宮(7) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3100 鶴岡八幡宮(7) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3100 鶴岡八幡宮(7)
〔画像解説〕
鶴岡八幡宮には幕末までこのような塔が存在したが、当宮のものはこけら葺か檜皮葺(ひわだぶき)で屋根の勾配はもっと強く、高欄(こうらん)もない。足廻りも違っており、この写真は八幡宮の建物ではない。写真家集「スチルフリート」所収。撮影年代未詳。

目録番号: 541 摩耶山天上寺(1)
〔画像解説〕
摩耶夫人を祀った弘法大師ゆかりの天上寺は、別名摩耶寺とも呼ばれ、同寺が位置する摩耶山の名もそこから起こったものである。写真は同寺境内の堂。

■ 確認結果

目録番号:3100「鶴岡八幡宮(7)」は、タイトル「鶴岡八幡宮」としながら、画像解説では「この写真は八幡宮の建物ではない」と判定している。
目録番号: 541「摩耶山天上寺(1)」と同じ古写真が、ブログ「絵はがきワールド」に掲載されていた。1〜2枚目は寺名の説明がないが、この「摩耶山天上寺」と、立地や木立など全体的な感じは最も合う。

「摂津摩耶山忉利天上寺多宝塔」は、サイト「がらくた置場」by s_minaga に詳しい研究がある。同解説は次のとおり。 http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_mayasan.htm
昭和30年頃:摂津摩耶山多宝塔14:下図拡大図「摩耶山 MT.MAYA 総天然色八枚組」も同サイトから。目録番号:3100「鶴岡八幡宮(7)」の撮影者は、「日下部金兵衛」が考えられるから、同寺を訪ねた作品を参考に載せる。

摩耶山中腹にあり、仏母摩耶山忉利天上寺と号する。寺伝では大化2年(646)、孝徳天皇の勅願により、法道仙人が開創したという。その後、弘法大師が唐から摩耶婦人像を持ち帰り、天上寺に奉安したとも伝える。現在は高野山真言宗。
昭和51年(1976)多宝塔をはじめ伽藍を全焼。賽銭泥棒の失火という。

この項は、目録番号:2032「神社の境内(2)」の次も参照。
https://misakimichi.com/archives/2225
この多宝塔は大津市「石山寺」と推定したが、神戸市灘区「摩耶山天上寺」の可能性もある。

長崎外の古写真考 目録番号:2374 芝居小屋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2374 芝居小屋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2374 芝居小屋

目録番号:2792 伊勢佐木町の劇場街(5)
[画像解説]
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32(1899)年の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。明治20年代の松ヶ枝町(現伊勢佐木町2丁目)界隈、勇座の前辺り。

目録番号:4187 伊勢佐木町通り(2)
[画像解説]
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32(1899)年の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。左にみえる建物は松ヶ枝町(現伊勢佐木町2丁目)の勇座か。

■ 確認結果

目録番号:2374「芝居小屋」の作品は、建物の造りと角地に位置するため、次の目録番号:2792「伊勢佐木町の劇場街(5)」と目録番号:4187「伊勢佐木町通り(2)」にあるとおり、横浜の松ヶ枝町(現伊勢佐木町2丁目)にあった「勇座」と思われる。

長崎の西空の夕日  10−16

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長崎の西空の夕日  10−16

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成22年12月 1日の17時14分頃
写真  4〜 6  平成22年12月 9日の17時 5分頃
写真  7〜 8  平成22年12月19日の17時 4分頃  鍋冠山・戸町から

小ヶ倉水源池から市民の森・戸町岳の一周縦走  平成22年12月

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小ヶ倉水源池から市民の森・戸町岳の一周縦走  平成22年12月

平成22年12月19日(日)晴のち曇り。小ヶ倉水源池から市民の森・烏帽子岩・戸町岳(標高
427m)の一周縦走。参加12人。本年最後のみさき道歩会の例会。
小ヶ倉水源池9時30分発ー創作村尾根ー市民の森ー烏帽子岩12時15分着(昼食)ー戸町岳ー鳥屋城跡展望岩ー小ヶ倉水源地16時15分着(徒歩距離約12km)

小ヶ倉水源池の左側から、立岩神社は略し創作村尾根に上がる。九電鉄塔の作業道を利用して市民の森の森林体験館近くの八郎岳縦走路へ出る。この道は植林が大きく育ち森林浴が楽しめる。八郎岳縦走路により烏帽子岩まで行って昼食。

午後は大山林道を1km歩き、戸町岳への分岐へ入る。戸町岳は展望が良い山だが、きょうは曇って黄砂気味、バッとしない。戸町岳から小ヶ倉水源池の堰堤近くまで下り、すぐ上の鳥屋城跡へ岩峰ルートを取った。

ロープで登る展望岩があり、岩からの展望は写真のとおり。新戸町3丁目奥に開発中の団地「ウェリスパーク南長崎」(総区画数は222区画)が真下に見える。鳥屋城跡の岩峰ルートを下ると、工事中の唐八景トンネル道路で山道は切れ、水源池グランドへは左の配水タンク場の坂段から下った。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/26811052.html

長崎外の古写真考 目録番号:2231 遊 郭(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2231 遊 郭(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2231 遊 郭(1)

目録番号:1845 高島町新風楼(1)
[画像解説]
横浜の遊郭、新風楼の建物と女性達を撮影した写真である。

目録番号:2742 高島町新風楼(3)
[画像解説]
明治5年(1872)以来高島町にあった新風楼は、同15年(1882)を限りに真金町・永楽町への移転が決定すると、神奈川七軒町にも進出、外国人専門の妓楼を開設した。規模の広大さと自家発電による照明で知られ、関東大震災まで存続した。

■ 確認結果

目録番号:2231「遊 郭(1)」は、建物の造りから次に掲げた目録番号:1845「高島町新風楼(1)」と、目録番号:2742「高島町新風楼(3)」のとおり、横浜の高島町にあった遊郭「神風楼」であろう。
遊郭名は、「新風楼」は誤りで、正しくは「神風楼」であろう。山口県立山口博物館の所蔵資料に「横浜高嶋町神風楼之図」がある。
「新風楼」と解説文に出てくる作品は、他に数点見られる。

なお、2枚目の目録番号:1845「高島町新風楼(1)」は、同じ写真が米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モース・コレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊173頁に「269 横浜・遊郭神風楼 ca.1900 神奈川」として掲載がある。
撮影年代は「1900年頃」となっている。

長崎外の古写真考 目録番号:1064 横浜中国寺拝殿

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1064 横浜中国寺拝殿

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1064 横浜中国寺拝殿
[画像解説]
横浜にある中国寺の拝殿である。 “”The Far East “”の明治4年(1871)8月2日号の写真として掲載されている。キャプションは、「中国寺の内部、横浜」となっている。

■ 確認結果

目録番号:1064「横浜中国寺拝殿」は、現在の横浜市中区山下町140番地、「横浜中華街 關帝廟」の、初代關帝廟内部の写真である。
「横浜中華街 關帝廟」HPは、歴史の項に同じような写真を掲載し、次のとおり解説している。

初代關帝廟
ファー・イースト The Far East Vol.II,No.VIII,1871年9月16日号 横浜開港資料館所蔵 五姓田の絵とほぼ同じアングルで撮影された写真。「同善堂」は關帝廟を運営する中華会館の母体となった組織と考えられる。

長崎外の古写真考 目録番号:4237 雪(冬) (1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4237 雪(冬)(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4237 雪(冬)(1)     同作品 目録番号:6729 雪(冬)(2)

目録番号: 938 横浜本村の薬師堂(1)
[画像解説]
横浜元町増徳院の薬師堂である。

目録番号:4184 横浜本村の薬師堂(2)
[画像解説]
山手の山裾に位置する元町は、開港場建設に際して旧横浜村の住民が移住して生まれた町。町を貫く通り(現元町通り)の突き当たりには、この増徳院が位置していた。写真は、本堂脇の薬師堂。その後薬師堂は、移転を経て現在も堀川端に建つ。

■ 確認結果

目録番号:4237「雪(冬)(1)」(目録番号:6729「雪(冬)(2)」は同作品 掲載略)は、「撮影地域:横浜」だが、場所は不明なのか、画像解説がない。
この作品は、次の目録番号: 938「横浜本村の薬師堂(1)」と、目録番号:4184「横浜本村の薬師堂(2)」のとおり、横浜元町にあった増徳院薬師堂前の雪景色であろう。

建物は建て替わっているようだが、石垣、石段、石灯篭、立木、煉瓦塀などとその配置を比較してほしい。古写真の薬師堂の場所は、現在の横浜市中区元町1丁目13番地。元町プラザが建っている。震災後、増徳院や薬師堂はどうなったか、「よこはま歴史ぶろぐ」に次のとおり記事と写真がある。

増徳院(薬師堂)

元町1丁目13番地、現在の元町プラザの場所にあった寺院。古くから町の人たちの信仰の中心的存在だった。震災後、1928年(昭和3年)に南区平楽103に再建し、戦災を経てそのほとんどが平楽へ移転した。現在元町にあるのは、1972年(昭和47年)に再建された薬師堂のみ。大同年間(9世紀初頭)の創立といわれていますが、記録は残っていない。
ペリー艦隊のミシシッピ号の船員の葬式が行われたときは、葬儀の列は街中を太鼓の音に合わせて行進し、住民達は家や店から出てきて、見物したとされる。そのとき埋葬された場所は増徳院の境内の丘で、現在の外国人墓地の一部で最も古いエリアとなる。

長崎の古写真考 目録番号: 762 長崎市街の中心と梅香崎居留地

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 762 長崎市街の中心と梅香崎居留地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 762 長崎市街の中心と梅香崎居留地
〔画像解説〕 
風頭山から長崎市街地南部を撮影した写真である。梅香崎、新地蔵から出島にかけての海岸部と長崎市市街地の中心部が撮影されている。この写真の重要な点は、梅香崎居留地の埋め立て途中が撮影されている点である。大浦居留地に連続して、梅香崎居留地の造成が終わったところである。その右の長い屋根が見える部分が新地蔵の倉庫群である。新地蔵の右に中島川の河口が見えている。中島川の右岸が築町の突端で、その右側の湾曲した倉庫群が出島である。幕末の出島が、背後から撮影されている。右端の松の木が茂った高台が、長崎奉行所の西役所である。中島川の沿線、鍛冶屋町の通り、本籠町から唐人屋敷にかけての町並みが見える。鮮明な写真であるために、詳しく調べれば、幕末における長崎市街地中心部の建物一軒一軒が特定できる。

■ 確認結果

目録番号: 762「長崎市街の中心と梅香崎居留地」は、F・ベアトが1866年(慶応2年)3月に風頭山から長崎市の中心地および出島、新地、梅香崎を遠望した写真。超高精細画像を見ると、画像解説にはないが貴重なアーチ式石橋の姿が写っている。
黄線枠内は、新地蔵所の南門、広場場側に架かり、唐人屋敷と結ばれていた石橋。幕末の「肥前長崎図」地図や、川原慶賀筆「長崎図」、長崎古今集覧名勝図絵(稿本)「新地南門より唐人屋敷荷物運図」「祭舟流図」などに描かれている。

石橋の大きな古写真は、「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年発行にも掲載されている。
110頁  作品 123:長崎市街風景
〔画像解説〕
手前中央に石橋があり、遠景の右に片渕町、左に諏訪神社の森、遠くに三ツ山が見える。しかし、この石橋はどこの橋か。珍しい写真である。

写真集解説が「この石橋はどこの橋か。珍しい写真である」で終わっていたのが惜しい。2010年6月5日、検証した結果を次の記事にしているので参照。
https://misakimichi.com/archives/2348
この石橋こそ、新地蔵所の南門、広場場側に架かっていたアーチ式石橋である。このたび、F・ベアトの作品でも再確認できた。
なお、最後の目録番号:1767「風頭山からの港町」は、上野彦馬撮影による明治初年の写真。新地の同石橋は架け替わっている。

江戸期の観音禅寺 (2)  徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

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江戸期の観音禅寺 (2) 徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎県立美術博物館「長崎県久賀島、野母崎の文化 Ⅱ」昭和57年所収の徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」82〜87頁は次のとおり。野母崎町は現長崎市。
文が長いため、(1)と(2)に分けた。これは(1)からの続き。

(五) 江戸期の観音禅寺

さてこの寺と長崎の町人とを結びつけていたのは、観音信仰と徒歩旅行時代の行楽である。観音信仰そのものからすれば、江戸期に入る少し以前から著名になっていたようであるが、ここの観音詣は特に長崎の町と成立と関係深く、長崎の町の賑わいはこの寺の賑わいにも反映したと思われる。長崎から観音禅寺まではその距離が七里といわれ三十キロ弱である。徒歩旅行時代の参詣にちょうどよい距離だったようで、道筋は長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた。この観音寺詣にたどる道には、道塚が立っていたようで、これは寺の階段脇の石柱銘によって、天明四年(一七八四)長崎勝山町石工山下○○の寄進によることが知られる。「道塚五拾本」とある。
この天明期ころが最も観音寺詣が盛んだったのであろう。観音堂の再建、真鍮水器一対(長崎道賢)、観音寺縁起仮名木版(後興善町坂本庄五郎)、石門の建立、経蔵(唐船方日雇頭中)、水盤(深堀伊王島○○)、中太鼓などの寄進が集中している。時代が少し下るが、天保十五年(一八四四)の寄進になる銅製のカネの多くの寄進者名の中には丸山遊女らの名も見え、その信者の層の広さも感じられる。

江戸期の画家司馬江漢は、絵画修行と名所名物案内本の取材も兼ねて長崎まで旅行したが、彼も長崎の知人に誘われて、一泊宿りのこの観音寺詣を楽しんでいる。彼の『西遊日記』には次のように記し、木版本として出版された『西遊旅譚』では、観音禅寺を少し上方の遠見山近くからの俯瞰図の中に描き込んでいる。
「(天明八年十月)十二日、天気にて、朝早く御崎観音(へ)皆々参ルとて、吾も行ンとし、爰より、七里ノ路ナリ。(稲部)松十郎(おらんだ部屋付役)夫婦、外ニかき(鍵)やと云家の女房、亦壹人男子、五人にして参ル。此地生涯まゆをそらず。夫故わかく亦きり(よ脱ヵ)うも能く見ユ。鍵(カキ)や夫婦ハば(はヵ)だし参リ。皆路山坂ニして平地なし。西南をむいて行ク。右ハ五嶋遥カニ見ユ。左ハあまくさ(天草)、嶋原見ヘ、脇津、深堀、戸町など云処あり、二里半余、山のうへを通ル所、左右海也。脇津ニ三崎観音堂アリ、爰ニ泊ル。
十三日 曇ル。時雨にて折々雨降ル。連レの者は途中に滞留す。我等ハ帰ル。おらんた船亦唐船沖にかゝり居ル。唐人下官(クリン)の者、七八人陸へ水を扱(汲)みにあがる。皆鼠色の木綿の着(キ)物、頭にはダツ帽をかむりたり。初メて唐人を見たり。路々ハマヲモト、コンノ菊、野にあり。脇津は亦長崎より亦(衍ヵ)暖土なり。此辺の土民瑠(琉)球イモを常食とす。長崎にては芋カイ(粥)を喰す。芋至て甘し。白赤の二品(ヒン)アリ。」、(黒田源次・山鹿誠之助校訂『江漢西遊日記』より)

また寛政六年出版の『西遊旅譚』には、
「十月十二日長崎より七里西南乃方、脇津と云所阿り。戸町、深堀など云所を通りて、其路、山をめぐり、岩石を踏(ふみ)て行事、二里半余(ヨ)、山乃頂(ウヘ)人家なし。右の方遥(ハルカ)に五島見(ミル)是ヨリ四十八里。左の方天草島(アマクサジマ)、又島原(シマハラ)、肥後の国見(ミエ)て、向所(ムカウトコロ)比国無(ナク)、日本乃絶地(ゼッチ)なり。脇津、人家百軒余、此辺琉球芋(ヘンリュウキュウイモ)を食(ショク)とす。風土暖地にして雪不降(フラズ)。ザボン、橙其(ダイダイ)外奇草を見る。」
江漢らが宿泊したのは多分本堂ではなかろうか(現在のものは再建)、ここはつい最近まで宿泊所として開放されていた。絵画家と関連して、観音堂の天井絵について触れておきたい。この有名な天井は、その落款に次のようにあることが知られている。
「長崎画史鑑賞家七十九翁、禁衣画師石崎融思敬写、同石崎融済謹写、補助石崎融吉敬写」
石崎融思は当時の唐絵目利の長老格であり、七十九才といえば彼の没年であり、弘化三年(一八四六)にあたり、二月に没している。この天井絵にはシーボルトの絵師であった慶賀の名に成るものもある。慶賀はこの時六十一才で、それより少し前の天保三年(一八四二)にはオランダ人のために国禁に触れるような図書を描いたとして、二回目の江戸、長崎の所払いを命じられている。石崎融思は慶賀の父、川原香山とも親しく慶賀の出版物に序文すら寄せていて、この不遇の出島出入の画家であった慶賀を引き立てている。この天井絵もまた、所払いの身であった慶賀を引き立てて仕事を与えたのかも知れない。

江戸時代のこの寺は、以上見てきたように長崎の人々の行楽と観音信仰によって支えられたようで、余り曹洞宗の禅寺としての姿はみえない。ただ明治に入ってからは長崎の文人墨客がここによく逗留しており、画冊の寄せ描きも残っているし、書道界に名の知れた川村驥山も、若いころかなり永いことこの寺に寄宿し、多数の書を残している。

(注  本稿は、会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集35〜38頁に掲載している。「みさき道」の道筋が「長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた」とする部分は、一般的でなく疑問があろう。「道塚五拾本」は「今魚町」の寄進である。また、長崎医学伝習所生だった関寛斎「長崎在学日記」に、「みさき道」研究の第一級の史料、御崎紀行があるのに、取り上げられていない)