南京房義圓墓 長崎市本河内1丁目
書庫を誤って削除し、現在復旧中。烽火山「南畝石」に関連。長崎奉行所支配勘定役として滞在した大田南畝こと蜀山人が、長崎で残した風流な狂歌。あまり知られない一首。
「南京房義圓墓」は、長崎市本河内1丁目長崎街道沿いにある。現在訪ねても、碁目の線刻や碁笥の花立がこれか不明だった。両資料で狂歌下句が違う。
小森定行氏著「本河内村の史跡」1995年発行の174頁は、次のとおり。寸法図はこれから。
碁盤の墓
昌源の長崎街道筋、原花屋前「ケヤキ」の大木の根元にある。中国から長崎に来た棋士で、長崎囲碁界の草分け、南京房義圓の墓である。宝暦十四年申(1764)年3月23日長崎で没す。
墓石は、一般僧侶の墓に共通な頭部のまるい無縫塔で、蓮華座下の台石が碁盤で、花筒が碁笥(ごけ 碁石入れ)になっている。高さ0.60mの塔身には正面に南京房義圓墓、右面に宝暦甲申年三月廿三日と刻している。
文化元(1804)年蜀山人(太田南畝・本名太田直次郎・長崎奉行所勘定役)がこの地を訪れ次のような歌を残している。
この墓は南京房か珍房か ごけ引きよせてごばん下じき 蜀山人
長崎手帖社「長崎手帖 No.16」昭和33年11月発行の30頁は、次のとおり。
南京房義圓の墓
151 墓の多い長崎で、他に類がないと言われている一つに、南京房義圓の墓がある。この墓は、一ノ瀬旧街道(本河内町1丁目)にある唐金塔の近くの道端に建っている。墓面に宝暦十四年とあるから194年前のもの。墓は「坊んさん塔」だが、珍しいのは381目をひいた碁盤の台石と、碁笥(ごけ)の形をした花立である。
義圓については、当時の碁の名手であったことと、赤寺(唐寺三寺のうち、どの寺であるかは不明)にいた形跡があるとのこと以外は、素性も人となりも寡聞にして知らない。しかし、その後奉行所勘定方として長崎に滞在した太田南畝こと蜀山人は、この義圓の墓に、
南京房か珍房か碁笥(ごけ)引きよせて碁盤すな
と風流な狂歌一首をたむけているそうだ。