月別アーカイブ: 2012年11月

明治9年魚見岳「地理局測點」の地中埋石が見つかる

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明治9年魚見岳「地理局測点」の地中埋石が見つかる

長崎港口の女神大橋をはさんで、魚見岳(大久保山の中腹)と天門峰山頂岩に残る明治九年「地理局測点」は、日本近代測量史上、全国的にも貴重な標石である。
私は6年ほど前、長崎にあるこの標石の存在に気付いた。京都市上西勝也氏(近代測量史研究)が関心を寄せられ、2006年2月長崎を来訪、本年2012年4月にも現地を再調査され、私が同行した。その状況は、本ブログ次の記事などで紹介している。
https://misakimichi.com/archives/3197
https://misakimichi.com/archives/377

「地理局測点」標石の基盤石の下には、必ず方角を刻んだ本体の地中埋石があるとの確信を、上西先生は最初から持っておられたが、本年2012年4月も時間の余裕がなく、発見するまで至らなかった。そのため私に、いつか基盤石の下を掘ってみるよう指導されて帰られた。
私が意を決したのは、11月11日午後。国史跡魚見岳台場跡の最上段一ノ増台場から大久保山への登山道を15分ほど登る。現地の標石と基盤石は、林間になぜか登山道をはさみ3mほど離れて見つかっている。

発掘状況は写真のとおり。ひとりでは重たい2つの基盤石を動かすと、方角を見事に十字線刻した本体の地中埋石をその下に確認した。形状は末広がりの角錐形。上辺は25cm四方。約8cmほどの高さを掘って、下辺は30cm四方位となった。これ以上掘らず、底辺は確認していない。
基盤石を持ち上げる取っ手の方を掘っていたら、4月に早く発見できたと思われるのに、残念だった。地中埋石は6年越しの発見となった。
私の動きが遅く、上西先生にはたいへん申し訳なかったが、3度目の来崎をお願いしなければならないだろう。

魚見岳の標石にあったのだから、対面の天門峰山頂岩に刻む「地理局測点」の岩下周辺の地中にも、方角を刻んだ本体の地中埋石が現存する可能性もある。
わからないのは、天門峰山頂同岩上に刻む四角枡。往時、交易船への燈火として、石燈籠を置き夜毎灯したものであろうとする史談(長崎市史 地誌編288頁)があるが、やはり明治期となって、「地理局測点」の測量機器を置くため、方角を合わせた岩の刻みではないだろうか。
これが本体だとすると、珍しい岩の測点となる。上西先生が再び来崎できるのであれば、天門峰山頂の方も再度、詳しい調査と確認をお願いしたい。

双方の「地理局測点」とも、日本近代測量史上、全国的にも貴重な標石である。長崎市文化財に指定して保存するよう、烽火山南畝石(蜀山人歌碑)、茂木玉台寺大イチョウとも早くから要望している。長崎市の回答は、思わしくない。
魚見岳では、本体の地中埋石が見つかったことにより、正当性が立証された。天門峰山頂自然岩の刻面の方は、ほとんど風化して文字を読み取れないほどになっている。

長崎の測点標石は、(大日方純夫ほか編)「内務省年報・報告書」第2巻 明治八年七月〜九年六月下に記録がある。同書によれば
「…東京大阪京都横浜兵庫神戸長崎新潟ノ事業ハ全国三等三角測量ヲ各地方二施行シ之レカ各部ヲ聯測シテ国図ヲ画成スルモノ二メ共二全国測量二属ス…長崎三角測量ヲ起業セシハ明治九年四月ナリ本地及全港両岸ヨリ香焼嶋神ノ島等ノ地二於テ測点ヲ二十九箇所二撰定シ其新大工町ト片瀬郷二アル二点間ヲ底線地ト定メ尋テ之レカ造工ヲナシ二十四ノ測点石ヲ埋置シ十二箇所ノ測標ヲ建設スル等六月三十日二至リ全ク成ル又底線地ノ高低ヲ測定シ及ヒ其ノ長サヲ測量スルノ業ヲ施行ス…」
とある。東京・大阪・京都につぎ5港、6鎮台と事業が開始され、重要港湾である長崎港の測量が明治9年4月から施行された。魚見岳と天門峰にある「地理局測点」標石は、この測点標石の1つに違いない。
https://misakimichi.com/archives/81

「みさき道」を歩こう 第2回  2012年11月

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「みさき道」を歩こう 第2回  2012年11月

長崎新聞カルチャーセンター 2012年度後期野外講座 ”「みさき道」を歩こう”。 企画立案 林先生・現地ガイド 江越先生

江戸時代、長崎の人たちは脇岬の観音寺まで七里の道を歩いて、”観音寺詣で”をしました。その道は長崎半島の尾根筋の山間に現在も残っていて、当時の道塚が数本残っています。
観音寺には、唐絵目利きの石崎融恩や出島絵師の川原慶賀らによって描かれた天井絵もあり、往時の豊かな観音信仰の一端をうかがうことができます。

2012年11月10日(土)曇り。その第2回目。深堀の長崎記念病院前に集合。10:00出発。
深堀地区の史跡である御船手、円成寺、恵比須様、武家屋敷、貝塚資料館、深堀陣屋跡、菩提寺、五官の墓を通って見学後、みさき道の山道へ入る。
途中の「女の坂」地蔵は、深堀藩の注進侍が、前をさえぎった身重の女を斬った菩提の地蔵堂の伝承がある。文久元年深堀郷図にこの場所に描かれ、地蔵はそれ以前の建立であり、この道が街道と示す。
大籠町の車道へ出たところから、昼食のため善長教会へ上がる。ルルドはさだまさし映画「解夏」のロケ地。隠れキリシタンの移住が許された善長開拓碑から、「ゆうこう」の大木が見え色づきはじめていた。

大籠町の観音堂と新田神社へ下って、再びみさき道へ戻る。平山台団地上のタンク地点は、深堀道と長崎道の重要な分岐と思われる。晴海台団地上までは現在の市道が、そのままのみさき道である。
寿司市衛門先から少し畑道に入ると、岳路みさき道との分岐を示す貴重な道塚が残る。蚊焼入口近くにあと1本あり、国道上に出て、きょうの行程はここまで。三和行政センター前広場で、14:35解散した。明日のサンサンさんわフェスティバル会場だが、雨が降り出した。

<徒歩距離6km 高低差140m> 参加者15人。私も道案内で同行。
第3回は、2012年12月8日(土)。蚊焼から高浜海水浴場まで。

佐世保市の高橋氏と長崎要塞地帯(区域)標めぐり

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佐世保市の高橋氏と長崎要塞地帯(区域)標めぐり

2012年11月8日(木)、佐世保市から高橋氏が来訪。最近、相次いで見つかった長崎要塞地帯(区域)標など4本の現地へ案内した。
詳しくは、長崎要塞地帯標の項に、以前の各記事と写真あり。

写真  1〜 2  富士見町 富士見公園
「陸軍省」「長崎要塞第三?地帯標」「第五十五号」「明治三十二年六月十日」
以前の高橋氏撮影写真が所在不明のため、撮り直しへ。

写真  3〜 5  田上3丁目 小国民資料館の庭
「陸軍省」「長崎要塞第二地帯標」「第二十三号」「明治三十二年六月十日」
高浪さん(めがねのコクラヤ前経営者)50歳のとき、北村西望先生(彫刻家)との握手写真があった。この屏風は、料亭青柳にある。

写真  6〜10  太田尾町山川河内と潮見町の旧道峠
「陸軍省」「長崎要塞区域標」「第二七号」「明治三十二年六月十日」
2012年10月22日の最も新しい発見。春日町に80円自販機があった。

写真 11〜14  中尾町 田川内公民館の裏
「陸軍省」「長崎要塞区域標」「第三十二号」「明治三十二年六月十日」
田川内公民館の古い建物を解体したとき、裏にあった。公民館は新築され、隣りの神社参道横に移設されていた。あと1本は上部欠損。「区域標」「号」との刻みはわかるが、番号は不明。

長崎外の古写真考 マンスフェルト集 78P 知恩院入口の参道、西京

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長崎外の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 78P 知恩院入口の参道、西京

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第六章 京都・大阪  78P  知恩院入口の参道、西京
京都市東山区新橋通、知恩院入口の参道。知恩院は法然上人の吉永禅房にはじまる、浄土宗総本山。三門は、徳川秀忠による日本最大の楼門である。元和5年(1619)着工、2年後に完成している。参道にはランプが立ちならび、井戸の横にはまげ姿の男性が佇んでいる。マンスフェルトが業者から買ったものである。
090 サイズ/234mm×185mm 大

目録番号: 5710 参道

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。
78P「知恩院入口の参道、西京」は、長崎大学データベースでは目録番号: 5710「参道」が同じ作品。京都市東山区の「知恩院黒門通り」であろう。知恩院三門より一筋上(北)の通りとなる。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2309

目録番号:5710「参道」と同じような構図の古写真が、ウェブ「洛中洛外散策」百年前はこんな風景 にあるので、次を参照。現在の写真も同ウェブから。
http://www2.ocn.ne.jp/~teiten/meiji.html
京都府立総合資料館所蔵資料データベース「京都北山アーカイブズ」の矢野家写真資料明治頃の京都および近郊の名所等 Iに作品49「知恩院黒門通」として同古写真は収録されている。
http://www.pref.kyoto.jp/archives

78P「知恩院入口の参道、西京」において、「京都市東山区新橋通(東方が三門への知恩院通?)、知恩院入口の参道」とするのは解説間違いで、1つ北の「知恩院黒門通り」となろう。
「井戸の横にはまげ姿の男性が佇んでいる」も「井戸」ではない。黒門の前にある周囲に石柵をめぐらした「瓜生石」。石の下を掘ると、二条城まで続く抜け道があると言い伝えられている。
通りは地図を参照。知恩院黒門から撮影した「華頂道」ではないか。東山区「古門前通り」の一部で東側。「知恩院黒門通り」とも呼ばれる。「瓜生石」の最近写真は、京都市上西氏撮影。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 35P 茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 35P 茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第三章 茂木  35P  茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて
茂木の元庄屋森岡平左衛門の屋敷(現茂木郵便局)前の海岸に立つ木の下でくつろぐマンスフェルト一行の人夫たち。まだまげを結っている男性が多い。次ページの写真とあわせてみると、一行は茂木滞在中、この元庄屋宅を宿舎にしたように思われる。熊本からの旅行中であろうか。
016 1872年頃 マンスフェルトか サイズ/205mm×156mm 大

目録番号: 6282 農夫たち(2)
〔画像解説〕    ボードインコレクション
ボードイン博士が長崎郊外の散策中に出会った「物売り」の行商人たちです。竹籠のなかには人参、ネギ、菜っ葉、魚が見えます。茂木方面から長崎に向かう行商人ではないでしょうか。足に脚絆を巻き、履物は地下足袋と草鞋です。天秤棒は竹からできています。ボードイン博士の撮影依頼に応じた笑顔が少しこわばっているのが印象的です。 -6282-

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。
35P「茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて」は、木の背後に薄く写る山が、茂木の汐見崎の稜線と同じだから、撮影場所は「茂木の元庄屋森岡平左衛門の屋敷(現茂木郵便局)前の海岸に立つ木の下」に間違いないと確認できる。

ふと思い出したのは、長崎大学データベースの目録番号: 6282「農夫たち(2)」(目録番号:6281「農夫たち(1)」も同写真)の人物。ボードインコレクションにあり、「ボードイン博士が長崎郊外の散策中に出会った「物売り」の行商人たちです。…茂木方面から長崎に向かう行商人ではないでしょうか。…」
35P「茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて」の右端2人を拡大した。顔・ポーズとも似ているようでもあり、余談として人物の確認をお願いしたい。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 33P 茂木の海岸に沿って

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 33P 茂木の海岸に沿って

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第三章 茂木  33P  茂木の海岸に沿って
茂木の旧庄屋屋敷あたりから撮影された茂木海岸と茂木村本郷の家並み。マンスフェルトは茂木旅行に大型カメラを持参し、これを撮影したようである。写真は埋め立て前の片町付近で、左奥の寺は玉台寺。僧寶譽の創建で、島原の領主松倉氏の代に第3世義山和尚が再建した。
018 1872年頃 マンスフェルトか サイズ/207mm×156mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。
33P「茂木の海岸に沿って」は、解説では「写真は埋め立て前の片町付近」としているが、「片町」は若菜川の右岸一帯のため、場所が違う。

長崎市役所茂木支所に展示している「茂木港今昔」の次の地図と説明どおり、大正時代に埋め立てられたのは、「橋口、中、寺下」の海岸である。
「若菜橋」も、橋口側の位置が、現在の橋とは異なっている。
この項は、本ブログ次も参照。 https://misakimichi.com/archives/2147

茂木港今昔
この地図は、大正時代の埋め立て前と現在の海岸線を比較したものです。現在のフェリー乗り場や新田の汐見崎観音寺付近は岩場で、橋口、中、寺下の海岸は砂浜でした。
若菜橋も橋口側の位置が異なっています。

33P「茂木の海岸に沿って」の撮影場所は、「旧庄屋屋敷あたりから」。現在は弁天橋があるSマート茂木店前あたりからであろう。左奥の寺も、「玉台寺」に間違いない。大イチョウがすでに撮影されている。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 12・13P 愛宕山からの景色

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 12・13P 愛宕山からの景色

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第二章 長崎  12・13P  愛宕山からの景色
愛宕山の中腹から茂木街道が走る谷をはさんで、小島郷佐古に建つ長崎医学校および大徳寺の丘越しに出島方面をのぞむ。出島の手前の白い家は明治3年(1870)ごろ建った中国商社広隆号。中央右の大きな屋根は正覚寺。その右上の茂みに旧長崎奉行所西役所の建物は撮影直前に消失している。中央付近は花街の寄合町。
001・002 1871年頃 マンスフェルトか サイズ/193mm×90mm 大 ほか

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。

12・13P「愛宕山からの景色」は、右中央に「正覚寺」が写っている。「小島郷佐古に建つ長崎医学校および大徳寺の丘越しに出島方面をのぞむ」とあるが、この写真では「長崎医学校および大徳寺」は、写真外の右側となり、確認できない。
データベースでは、目録番号: 2871「高野平からの小島山手遠望」(掲載略)に同じような景色があり、間違って解説の参考とされたのではないか。

これに対し、12・13P「愛宕山からの景色」は、「愛宕山の中腹から」の撮影であるが、中腹とはどのあたりであろうか。
現地を調べたところ、高平町の榎観音堂の上、長崎玉成高校校舎写真の左上石垣付近(高平町15街区)で、全体の景色が見え正覚寺が同じように確認できるので、撮影場所の参考とされたい。古写真の大木が観音堂のかっての榎だったとも考えられる。
写真の「中央付近は花街の寄合町」との解説は、少し疑問を感じる。

長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備  2012年11月

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長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備  2012年11月

2012年11月4日(日)曇りのち雨。長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備。参加7人。みさき道歩会の例会。
長崎バス川原公園前バス停9:40—三和記念公園—脇岬村路分岐9:58—熊ノ岳中腹
12:00 昼食 12:30—熊ノ岳12:51—三和記念公園13:48(徒歩距離 約7Km)

4月の川原木場に続き、長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備。今回は川原からの高浜村路である。三和公民館展示ホール奥の中庭に1本の標石が残る(写真13)。
「東 脇岬」「南 明治三十二年十一月建」「西 高濱」「北 川原村字池田」と刻む。もともと建っていた場所は、川原小池(現在の三和記念公園)上の脇岬村路と高浜村路との分岐である(写真2の地点)。 

詳細なルート図は省くが、明治34年測図の地形図のとおり、標石が示す「西 高濱」は、川原小池上から熊ノ岳の中腹を巻いて登り、徳道へ至る。ここから高浜村路と分かれ、二ノ岳麓を行った脇岬観音寺参りの話は、地元郷土史家の故高崎先生から「自分らは(「東 脇岬」の川原木場を通る脇岬村路ではなく)、この道を行った」と聞いていた。

高浜村路の道は、現在の「熊ノ岳いこいの里」車道沿いの山中に良く残る。戦後も生活道路や通学路として利用され、たいした草刈りを要せず整備できた。
きょうは徳道上のサイクリング道路出合までの予定だったが、午後から雨の天気予報のため、熊ノ岳(標高288.4m)へ上がった。山頂に着いた13時頃、すぐ雨が降り出し、傘をさして川原へ下った。

長崎の古写真考 彦馬の世界 206P 寺院楼門

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長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 206P 寺院楼門

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬の世界 206P 寺院楼門  (長崎歴史文化博物館蔵)
幕末から明治初期に撮影。鶏卵紙。

目録番号: 5360 悟真寺(3)   超高精細画像
〔画像解説〕
上野彦馬の撮影。稲佐山の麓にある悟真寺は、長崎郊外におけるキリシタン禁制後に復興された最初の仏教寺院として知られ、江戸時代を通じて中国人やオランダ人、幕末以降はロシア人らの墓所に当てられた。浄土宗の寺院だが、背後にそういう国際墓地があることで著名である。画面中央には、右に山門、左に本堂が写っている。重層、入母屋造の本堂は、文化11年(1814)に再建されたものがその後数度の修理を経て残存していたが、原爆で倒壊し、戦後、山門の真後ろに位置に鉄筋コンクリートで再建されている。山門はいわゆる龍宮門形式の重層門であるが、この形式となったのは、文政年間の絵図ではまだ冠木門に描かれているので、元治元年(1864)の修復時かと推定される。撮影時期は不詳だが、明治中期頃であろうか。山門の向こうには本堂脇の鐘楼と背後の庫裏が覗いている。現在は、山門前の石段等も向きを変えて大幅に改造されている。

■ 確認結果

上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
206P「寺院楼門」は、寺名の解説がなく不親切であろう。長崎大学データベース目録番号:
5360「悟真寺(3)」と同じ作品で、長崎市稲佐の「悟真寺」である。本堂は原爆で倒壊し、戦後、山門の真後ろに位置に鉄筋コンクリートで再建されている。

この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2819
長崎大学データベースで目録番号:5360「悟真寺(3)」は、撮影者未詳が〔撮影者:上野彦馬〕と現在は訂正されているが、目録番号:6261「稲佐の悟慎寺」(掲載略)は、間違ったタイトルの寺名のままである。

長崎の古写真考 彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校

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長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校 (長崎大学附属図書館蔵)
撮影年代未詳。鶏卵紙。写真中央左は立山の旧長崎奉行所(旧長崎奉行所は西と立山の2か所あった)、その右は明治7年(1874)に新築されたばかりの長崎官立師範学校の建物である。長崎奉行所の原型を写す写真は珍しい。長崎官立師範学校の右上背景の山の中腹の中に坂本龍馬で有名な亀山社中が写っていることが研究者により確認されたといわれる。

目録番号: 6030 旧長崎奉行所と師範学校

■ 確認結果

上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
160P「旧長崎奉行所と師範学校」の解説には、別に問題はない。ただ、「長崎官立師範学校の右上背景の山の中腹の中に坂本龍馬で有名な亀山社中が写っていることが研究者により確認されたといわれる」とは、次のような経過がある。

この項は、本ブログ次の記事を参照。疑問に思うのは、作品の撮影場所である。
朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか
https://misakimichi.com/archives/2158
長崎大学データベースでは、目録番号: 6030「旧長崎奉行所と師範学校」の作品。

朝日新聞や朝日選書によると、長崎居留地研究会の研究は、「現在の長崎市玉園町の丘の中腹から撮影したとみられる。…写真の中から旧長崎奉行所の堀の位置や山の稜線を目印に撮影場所を特定した」とし、撮影場所を「玉園墓地」(永昌寺墓地か)からとしている。
長崎歴史文化研究所もこの場所で納得しているようだが、古写真の玉園町の家並みの状況と、奉行所からの距離を考えると、まったくの誤認ではないか。遠くの寺名も見誤っている。

私が撮影した場所は具体的には、「聖福寺」大雄宝殿の背後、開山老和尚(鉄心)塔所がある石段の入口あたりの道。全体の景色はこの場所からしか今は写せない。
理由は、URL記事にしたとおり。民家が墓地となることはない。上野彦馬が重い撮影器材を持ち、何も玉園墓地の上まで登る必要はない。撮影しやすいところで写せる。