朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか

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朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書の84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030 の作品)には、中央手前の風頭山中腹に明治初期の「亀山社中」と思われる建物が写っており、話題となっている。
この項は私もすぐ現地調査し、作品の撮影場所は「玉園町の聖福寺すぐ後ろの上手墓地の道から」と12月21日の記事にしている。 https://misakimichi.com/archives/2154

朝日新聞では、2009年12月11日付第1面の記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”に続き、きのう12月23日付の長崎地域版に”「亀山社中」確認 沸く龍馬ファン”の記事が載った。
これまで撮影場所は、朝日選書も「聖福寺から」と解説していたので、私は納得していた。
この経過は次を。 https://misakimichi.com/archives/386

しかし、今回の新聞記事では「現在の長崎市玉園町の丘の中腹から撮影したとみられる。…写真の中から旧長崎奉行所の堀の位置や山の稜線を目印に撮影場所を特定した」と変った。「ほぼ同じ場所から見た現在の様子」が下の写真。
新聞記事では写真が見にくいので、私が写していた同じ写真を載せる。3枚目が新聞社が撮影している玉園町の丘の中腹すなわち「玉園町墓地から」の写真。4枚目が私が撮影場所と思った「聖福寺上手から」の写真。

3枚目の写真が、新聞社がほぼ撮影場所としている「玉園町墓地から」の同じ現地写真。古写真と比べて違和感を覚えた点は次のとおり。
(1)写真の全体を眺めて、まず遠近感と高度感の違いを感じる。
(2)旧長崎奉行所(現長崎歴史文化博物館)前通りや玉園通りの向きが違っている。
(3)玉園通りの上下旧家の宅地が、玉園墓地に変ることは考えられない。
(4)風頭山と奥の彦山の稜線の重なりが合わない。左側豊前坊の全部が写っていない。
(5)諏訪の森(現長崎県立図書館付近)の木立が、背景の彦山山頂右側まで張り出している。
(6)上野彦馬の撮影。行きやすく当時の写真機が据えられる場所に限られる。

私は12月12日と14日現地調査をした際、玉園墓地も念のため写真を撮っていた。それが3枚目だが、しっくりせず、50mほど歩いて「聖福寺の上手」の道へ行って4枚目を写した。
今では古写真とまったく同じような景色は撮れない。目的とする対象物が写らないときは、全体を理解してもらうため、撮影場所をある程度少し変えることは私もあるが、この古写真については今までの解説どおり、「聖福寺の上手」あたりからの撮影と考えた方が妥当ではないだろうか。
朝日新書の写真下解説図にある「興福寺」の位置とも、関係者によってさらに検証をお願いしたい。「興福寺」大雄宝殿は、大棟中央上に大きな「瓢瓶」(火災除け)が写る建物と思われる。

私が撮影した場所は具体的には、「聖福寺」大雄宝殿の背後、開山老和尚(鉄心)塔所がある石段の入口あたりの道。全体の景色はこの場所からしか今は写せない。古写真の左下に1本の木が写っている。偶然にも同じような場所に大きくなったような木がある。 
朝日新聞の写真と記事は、これまで疑問点が多い。撮影場所を特定するのは良いが、慎重に調べ、正しく報道してほしい。本年元旦付「開港150年」長崎港を写したベアト撮影古写真の実際の撮影場所、立山墓地内の地点も少し違うのではないか。
この項は次を。 https://misakimichi.com/archives/1575