朝日選書  84P写真  30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校

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朝日選書  84P写真  30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書  84P写真  30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校

政治の中心だった立山の旧長崎奉行所(左)のそばに維新後、官立師範学校(右)が建てられた。この高台にあった県立美術館・県知事公舎は、長崎歴史文化博物館に建て替わった。山の中腹に見えるのは、亀山社中と思われる。 
上野彦馬撮影か、1874年、鶏卵紙、27.7×21.2、『上野彦馬冨重利平合同アルバム』

〔解説記事  82P〕  旧長崎奉行所と官立師範学校

1874年、聖福寺から写された長崎奉行所(高台の左)と新築の官立師範学校(同右)です(写真30)。
この高台には元カトリック教会が建っていましたが、その後、隠れキリシタンを取り締まる井上筑後守の屋敷となりました。教導するためにやってきた外国人宣教師にキリスト教の考えを捨てさせた話は、遠藤周作の「沈黙」でおなじみです。
敷地内には奉行が住む御本屋と、側近が勤める長屋および土蔵が立ち、犯罪者を裁くお白洲が置かれ、判決は犯科帳に記されました。維新後も九州鎮撫総督の住居として使用され、政治の中心だった奉行所が文教地区に変わるのは、1872年の文明開化がきっかけでした。
外国語を教えていた西役所の広運学校がここに移転。その後、長崎外国語学校から長崎英語学校に改称され、長崎中学につながります。長崎官立師範学校は、1875年の設立です。
その後、江戸時代の建物は失われ、1963年に県知事公舎が建ちました。2005年には長崎歴史文化博物館の建設に併せ、奉行所が復元されました。博物館の向こう側の、山の中腹に見えるのは、亀山社中と思われます。
立山は、キリスト教の布教から弾圧へ、幕府支配の中心から文明開化の中心へ、さらに文教地区から県知事公舎へと変遷し、今は博物館として長崎の歴史文化を伝える中心となっています。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030「旧長崎奉行所と師範学校」 撮影者:上野彦馬 撮影地域:長崎 年代:年代未詳 の古写真。

朝日選書の古写真解説で、疑問とする点をこれまで見てきた。これが最後となり頁を前に遡って見ていただく。長崎は来年にかけて、龍馬ブームで盛り上がる。
「長崎市亀山社中記念館」(伊良林2丁目)は、坂本龍馬ゆかりの亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を長崎市が当時の姿により近い形で整備し、本年8月1日から公開している。

2009年12月11日付朝日新聞の第1面となった記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”。 朝日選書 84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」の中から、建物を拡大した写真が載せられている。
記事には、市民グループ「長崎居留地研究会」(会長=姫野順一・長崎大学教授)が11月、写真の中の旧長崎奉行所の位置や山の稜線から撮影場所を特定。後景の山の中腹に、亀山社中だった建物が写っているのを確認したとある。

さっそく私も現地調査へ行った。この古写真は「聖福寺」(玉園町)の大雄宝殿後ろの上の墓地の道(開山老和尚鉄心塔所入口あたり)から撮影されたものと思われる。亀山社中の建物は、新聞記事のに間違いないと思われるが、通りの前の家にふさがれ、双眼鏡でもはっきり見えない。
どなたか望遠の大きい、立派なカメラを持って、みんなにわかるように写してきてほしい。

朝日選書の写真下の解説図では、寺の位置に疑問を感じたので確認したのだが、高いビルやマンションが建って、これも写真を写せない。はっきり確認はしてないが、解説図の「興福寺」は「浄安寺」ではないか。その左の「三宝寺」は二層屋根に特徴がある。
手前大きな屋根の「光永寺」のすぐ左に屋根があるのが、「興福寺」の山門のように思える。媽祖堂、大雄宝殿は木立の後ろとなるが、古写真では確認できない。
位置関係を見てもらうため、長崎新聞社「長崎県航空写真集 ふるさと旋回」昭和60年9月刊の16、17頁から航空写真(クリック拡大)を借りたい。

なお、解説記事中「その後、江戸時代の建物は失われ、1963年に県知事公舎が建ちました」とあるが、長崎奉行所があった同地に、1965年(昭和40年)開館した「長崎県立美術博物館」を含めて説明した方が良いと思われる。
同館は新しい「長崎歴史文化博物館」建設のため2002年に閉館。「長崎県美術館」は2005年4月長崎水辺の森公園に隣接した場所(出島町)に移築開館した。