魚見岳と天門峰山頂岩にある「明治九年地理局測点」

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魚見岳と天門峰山頂岩にある「明治九年地理局測点」

平成17年12月、女神と神崎鼻を結んで「女神大橋」が開通した。長崎港口をはさんでそれぞれ対面する山に、ある標石が大橋の架かる前からあったが、人にあまり知られず、標石が何のためのものかわからなかった。

1つは、国指定史跡「魚見岳台場」最上の「一ノ増台場」から大久保山に上る登山道があり、約15分ほど登った190m位の標高地である。尾根はさらに南東大久保山へと続き、山の形をしているように思われないが、先日神崎神社上宮から見たら、たしかに山の格好をしていた。ここが「魚見岳」(実際、魚見をしたところは台場あたりで、その背後の山の意か)と思われ、ピーク手前300m位のところの道脇に字を刻んだ標石は立っている。15cm角、高さ45cmの石柱。

1つは、大橋を渡って神崎神社上宮先に橋脚の下をくぐる歩道があり、これから山道に入って、長崎名勝図絵に白衣の観音に見立て観音山と呼ばれたと記す「天門峰」(「しらと」とも言う)に15分位で登れる。166mの標高地は大橋を俯瞰し、市街・外洋の景観が良い。山頂の高さ1m、幅1.4m位の大岩にある字の彫りこみがあり、上面には一辺20cm位の四角い溝が彫られ、対角の線らしいものも見られる。明治34年地図を見ると「鰯見嶽」(イワセン)の山名で独立標高点167.7mがあったが、現在の地形図に三角点はない。

双方の字の刻はともに「地理局測点」「明治九年第□月」。月だけ違い、魚見岳は「五月」天門峰は「四月」である。女神大橋が架かったことによって、2つがより結びつけて考えられ、日本の近代測量史の証しとなる標石でないかと考えた私は、その後、いろいろ調べてみることとした。
長崎に残る2つの「地理局測点」は、地図や測量研究の専門家である茨城県山岡光治氏、京都市上西勝也氏、国土地理院九州地方測量部次長宮崎清博氏(その後異動)に注目いただき、ことに上西氏には、平成18年2月来崎して現地調査いただくなど、さまざま世話になっている。

長崎の測点標石は、「内務省年報・報告書」第2巻 明治八年七月〜九年六月下に記録がある。同書によれば
「…東京大阪京都横浜兵庫神戸長崎新潟ノ事業ハ全国三等三角測量ヲ各地方二施行シ之レカ各部ヲ聯測シテ国図ヲ画成スルモノ二メ共二全国測量二属ス…長崎三角測量ヲ起業セシハ明治九年四月ナリ本地及全港両岸ヨリ香焼嶋神ノ島等ノ地二於テ測点ヲ二十九箇所二撰定シ其新大工町ト片瀬郷二アル二点間ヲ底線地ト定メ尋テ之レカ造工ヲナシ二十四ノ測点石ヲ埋置シ十二箇所ノ測標ヲ建設スル等六月三十日二至リ全ク成ル又底線地ノ高低ヲ測定シ及ヒ其ノ長サヲ測量スルノ業ヲ施行ス…」
とある。東京・大阪・京都につぎ5港、6鎮台と事業が開始され、重要港湾である長崎港の測量が明治9年4月から施行された。魚見岳と天門峰にある「地理局測点」標石は、この測点標石の1つに違いない。

その後、魚見岳では標石の傍らに基盤石があることを宮崎氏が発見された。他の測点の場所についても、上西氏の後日の調査により長崎歴史文化博物館に史料があることが判明し、私が閲覧して現在、現地調査中であるが形跡はなく、思った成果は上っていない。
なお、長崎の「地理局測点」などは、上西氏のインターネットサイト「三角点の探訪」上巻・下巻に追加して掲載されているので、参考としていただきたい。

(画像は、一部上西氏サイトから)