藤田尾飛瀬海岸道に天保八年「領界目印石」2本見つかる

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藤田尾飛瀬海岸道に天保八年「領界目印石」2本見つかる

茂木町であった藤田尾名は、昔から為石村と日常生活のあらゆる面で関わりが深く、昭和22年茂木町と住民の懇願によって為石村に編入されている。

この茂木村ももともとは有馬領であった。その後秀吉によって収公された七ヵ村のひとつである。七ヵ村とは古賀・日見・茂木・樺島と、長崎港口の礼物徴収行為によって天正16年(1588)深堀領が没収された川原・高浜・野母の各村である。七ヵ村の支配は長崎代官などに分属した。一方、為石・蚊焼・御崎村は、佐賀藩深堀領のままである。

長崎半島の村はこうして、天領・佐賀藩・大村藩(戸町村は安政6年古賀村と交換されて天領となる)の入り組んだ支配となった。長年、もともと境界争いの絶えなかった地である。江戸後期になってその紛争が解決した幾例かを、三和町「三和町郷土誌」や平幸治氏「肥前国 深堀の歴史」が史料によって紹介している。

為石村と茂木村の村境については、藤田尾海岸の松の木が伐採されたことにより境界争いが再燃し、問題が生じた。平氏著書によれば「六〇年以前にも係争があり、、明和六年(1769)に双方で絵図面を取り替わし目印の塚まで築いたのに、再び領界争いとなったので、難航したのである。そして天保八年(1837)一二月になって、やっと解決をみた。その取り替わし証文によれば、獺越から浜辺まで双方の境に目印石を極め留りから三ッ瀬(為石では三ッ石と呼ぶ)見渡すところを境とする。また後年になって問題が再燃しないよう毎年一回双方の村役人が確認するというものであった」とある。

平成17年10月、私はふらりとこの海岸と尾根を探した。絵図面の様子と字図・現地図から目星をつけた。海岸は「飛瀬」という。為石から5分ほど、県道の「茂木まで16km」標識のあるすぐ先に、旧県道のカーブが海岸側に2つ残り、その2つ目から海岸に下る道があった。釣り人がよく利用している。

海岸へ下る尾根道の途中に、50mも行くとまず大きな境塚と思われる土盛りが1基残り、すぐ下の道路脇の大きな木の根元に、史料にある立派な「目印石」が建っていたのである。14cm角、高さ70cm位。上部は半円形。刻字はない。
釣り人は見ていただろうが、石柱の由緒はわからず、これは新しい発見と思われた。まさしく天保八年(1837)取替証文にある「目印石」であろうと判断した。

尾根の鼻にさらに100mくらい下るとあと1本、全く同じ石柱が建っていた。木立がなかったら橘湾の遠くまで見渡せる断崖上の道脇である。絵図面の海岸先端には「月(目)鏡岩」「飛瀬」「三ツ瀬」などの文字がある。海岸に降りると地形はそのとおりのようだったが、海岸の岩場一帯を探しても、他にこれというものは見あたらなかった。

帰りは県道に戻り、寺岳にかけての尾根を柴原まで探した。明らかな塚は残っていなかったが、それらしき石組みは少しあった。この上はすでに確認済みで、数基を見ている。