長崎の古写真考 目録番号:5576 稲佐のイサバ船と弁財船(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5576 稲佐のイサバ船と弁財船(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5576 稲佐のイサバ船と弁財船(3)   撮影者未詳 明治期手彩色小型写真帖

目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1)   撮影者未詳

目録番号:1206 長崎稲佐海岸(2)   内田九一
〔画像解説〕
対岸には長崎の町並みが見える。民家を背景に3人の人物が座っている屋形船を写している。撮影者は内田九一。ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している。
〔画像解説〕 超高精細画像
この写真は、長崎市街地の対岸、当時の渕村稲佐郷平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したものである。明治中期の写真である。目録番号5310(整理番号102-16)の写真と同じ場所のものである。潮が引いた船と人物を配して、岬の形の良い松の木と風格のある屋敷が写されている。岬の向こうに、長崎市街地の浦五島町が見える。絵画的な構図を意図した写真である。長崎湾の湾奥は、稲佐地区が長崎市街地側に突き出た地形になっており、そこを過ぎると長崎湾の北側の端である、浦上新田が見えてくる。稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。写真左手の岬の対岸が西坂の丘になっている。明治20年(1887)代には、長崎市街地の北の端は、西坂の丘付近であった。写真右に長崎湾の向こうに見えている長崎市街地は、立山の山裾と風頭山の山裾に挟まれた中心部の全域である。

目録番号: 698 長崎稲佐海岸(1)   撮影者未詳
〔画像解説〕
ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している。民家を背景に三人の人物が見える屋形船を写したこの写真は、整理番号66-14と同一の写真であるが、当写真では左側が切れている。

目録番号:6664 長崎稲佐海岸(6)   撮影者未詳 ボードインコレクション(4)

目録番号:3233 長崎稲佐海岸(7)   内田九一
〔画像解説〕
長崎、稲佐の舟遊びを撮影したもの。着色されている。目録番号1196、3238と同じく、内田九一により明治天皇の長崎行幸時(1872年)に撮影されたと推測される。

■ 確認結果

長崎港内の入江の風景。現在の旭町にあった「稲佐崎」と、丸尾町にあった「丸尾山」や「大鳥崎」との間に囲まれ、平戸小屋町や江の浦町近くまで湾入し、イサバ船や弁財船の格好の碇泊地となっていた。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1557

さてこの一帯の入江が、丸尾山を削り埋め立てられたのは、いつ頃だろうか。HP「舎人学校」の前慶応大学教授高橋先生から照会があり、長崎の伊能忠敬研究会入江氏と先月調査した。
「長崎市制65年史」や「明治維新前後の長崎」(復刻版)に史料があり、埋め立ては長崎港第二期港湾改良工事で、明治31年(1898)10月から始まり、完成は明治37年であろう。

この際、関係古写真を比較していて、入江氏が貴重なパノラマ写真となることに気付いた。上記はすべて同じ写真で、目録番号の上2枚が左部分、下4枚が右部分。
この記事では、松の枝の続きが良い目録番号:5576「稲佐のイサバ船と弁財船(3)」と、目録番号:1206「長崎稲佐海岸(2)」を取り上げ、他は掲載を略した。

入江氏がモノクロ変換し、つないで作成した。パノラマ写真であることは、超高精細画像では特に端がカットされ、私も気付かなかったが、古写真研究関係者もほとんど知らないだろう。
撮影者は、内田九一、上野彦馬、ベアトが考えられ、撮影年代ともいろいろな解説がある。関係者は研究を深めて統一して解説してほしい。