月別アーカイブ: 2014年11月

岩戸山入口太鼓橋  南島原市加津佐町巳 ( 長崎県 )

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岩戸山入口太鼓橋  南島原市加津佐町巳

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。山門を上がった厳吼寺境内橋も参考に載せる。本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/643

元・岩戸山入口の太鼓橋 いわと
南島原市 加津佐町巳 石桁橋(弓型) 長3.3m(G) 寛延元(1750) WEB 平成13、木の下川の改修工事に伴い撤去、解体展示 4 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,401 岩戸山入口太鼓橋
加津佐町巳
橋長:3.3m  橋幅:2.1m  拱矢:0.2m
架設:寛延元年(1750)
単径間桁橋
加津佐駅前から国道251号線を北西へ1.1Km、橋を渡り信号を左折すると厳吼寺があります。
上り口右手にあります。

「岩戸山入口の太鼓橋は、寛延元戊辰年、1750年平成13年より逆算して251年前、厳吼寺三世別州知伝和尚の代なり。当時の島原城主は松平忠刻治世の時たり。今般、木の下川改修工事にともない、後世に遺せんが為に記念として茲に保存せんとするものなり。
維時  平成十三年三月廿三日 厳吼寺廿六世 菁山幸雄 誌之」

№1,309  厳吼寺境内橋
加津佐町巳 厳吼寺(がんくうじ)
橋長:5.9m  橋幅:2.4m
架設:文政12年(1829)
加津佐駅前から国道251号線を北西へ1.1Km、橋を渡り信号を左折すると厳吼寺があります。
正面の階段を上りきった放生池に架かっています。

龍石海岸  南島原市西有家町龍石 ( 長崎県 )

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龍石海岸  南島原市西有家町龍石

島原半島ジオパークパンフレット及び同公式サイトによる説明は、次のとおり。 国道251号沿いにある。

10 龍石海岸(雲仙火山のはじまり)
島原半島の中央にそびえる雲仙火山は、およそ50万年前から活動をはじめました。龍石海岸では、雲仙火山が最初に噴出したとされる50万年前の地層を観察することができます。

◆雲仙火山のはじまり
雲仙火山が誕生する前に、海の中にたまった地層を、雲仙火山の最初期の噴火の噴火に由来する堆積物がおおっています。その年代はおよそ50万年前です.地層の中に含まれる軽石が、最初の雲仙火山は、溶岩ドームをつくるような今の噴火とは異なる、爆発的な噴火を起こしたことがわかります。

中通熊野神社御神橋  南島原市布津町乙 ( 長崎県 )

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中通熊野神社御神橋  南島原市布津町乙

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。親柱の「文化十年」の面は写し忘れた。灯籠・手洗鉢も珍しい。

中通熊野神社の神橋 なかどおりくまの
南島原市 中通熊野神社・参道 石桁橋(弓型) 長4.6m(2G) 文化元(1804) WEB 保存状態良好 3本の中間柱上に横桁を置き、その上に石梁を架けただけの簡単な構造 1 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,861 中通熊野神社御神橋
南島原市布津町乙
橋長:4.6m  橋幅:2.4m
2径間円弧桁橋
架設:文化元年(1804)
本殿は階段を上り、さらに直角に曲がり階段を上ったところにあります。

秩父が浦公園  島原市秩父が浦町 ( 長崎県 )

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秩父が浦公園  島原市秩父が浦町

島原半島ジオパーク公式サイトによる説明及び現地説明板は、次のとおり。
島原外港から行くと、国道251号に案内標識がない。がまだすロード入口の1つ手前から黄線のとおり左折。「民宿 浪速」の前を通って、枝分かれの道を左へ進むと秩父が浦公園である。

◇秩父が浦公園
1792年大崩壊した眉山の山体は、一気に有明海に突っ込み、多数の島々と津波を生じさせました。秩父が浦公園では、海食により山体の残骸(流れ山)の内部を観察することができます。
大きな災害の結果として生じた流れ山は、現在は風光明媚な景観を作ったり、天然の漁場や港として活用されています。

1792年、島原市の西にそびえる眉山は、雲仙普賢岳噴火の最末期に頻発した大きな地震によって崩壊しました。崩壊した土砂は岩屑なだれとなって、当時の 島原の町の南側を埋め尽くしただけでなく、一気に有明海に突っ込んで大きな津波を発生させました。この津波は対岸の肥後の国(熊本)にも押し寄せ、島原半島、熊本側の双方で甚大な被害を引き起こしました。この災害による犠牲者は15000人に達し、有史以降、国内最大の火山災害となっています。
島原市仁田団地第一公園の展望所からは、山側に眉山の生々しい崩壊壁が観察出来るほか、市街地に流れ下った岩屑なだれが、無数の「流れ山」を形成している様子が一望の下に観察出来ます。また、島原市秩父が浦公園付近では、海食により流れ山の内部がよく観察出来ます。

島原半島県立公園  秩父が浦   (現地説明板)
島原港から南に延びる2キロメートルの曲折に富んだ美しいこの海岸一帯を秩父が浦と呼んでいます。
古くは、柳ヶ浦といわれていましたが、秩父の宮殿下が大正14年島原においでになった折、この美しい風光を鑑賞されたのを記念して秩父が浦と改称されました。
寛政4年(1792)雲仙岳の活発な火山活動によって、島原市の背後に美しい稜線をみせている眉山が大崩壊し、大量の土砂が城下町を埋め、海中になだれこみ空前の大惨事をおこしました。
眼前に美しい姿を見せる島々がその時の名残りの九十九(つくも)島であり、眉山は今なお当時の生々しい爪あとを残しています。
秩父が浦は海の公園として親しまれ、昭和45年に島原半島県立公園に指定された景勝の地です。
俳聖高浜虚子翁は九十九島の景観をつぎのように詠んでいます。
山裂けて くだけ飛び散り 島若葉            長崎県・島原市

浜の川湧水  島原市白土桃山2丁目 ( 長崎県 )

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浜の川湧水  島原市白土桃山2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータ及び島原市HPの観光情報による説明は、次のとおり。湧き出し口は、普段は蓋をされ見学できない。
場所は、島原市湧水マップの左下である。付近は各路地に余計な案内標識が多く、矢印どおり進むと迷ってしまう。国道251号の桃山入口から黄線の路地を120mまっすぐ歩くとすぐである。車は不可。

浜の川湧水 はまのかわ
島原市 白土桃山 湧水(石造) 寛政4(1792)以降 名水百選/水の郷 WEB 現役利用 寛政4の眉山大崩壊による地殻変動に伴い誘発された湧水(地下の地層帯が、火山灰と砂礫層が互層する帯水層となっていたため、地下水に強い圧力が加わり自噴したとされる)/切石で4つに仕切られ、①魚・食品の洗い場、②食器・食品のすすぎ場、③食器・食品の洗い場、④洗濯場と分かれている 1 B

島原湧水群/浜の川湧水
数多くある湧水の中でも「浜の川湧水」には、4つの区画に区切られた洗い場があって、食料品を洗うところ、食器を洗うところなど各用途によって上から順々に水を利用していくような仕組みになっており、現在もそのしきたりが守られています。
現在みられる島原市内の湧水の多くは、1792(寛政4)年の雲仙岳噴火に伴う群発地震による地殻変動によって誘発されたものといわれています。
市街地においては、地下の地層帯が、火山灰層や砂れき層が互層した良好な帯水層となっていて、源水涵養帯としての透水性に富む山体(眉山)が直前にまで迫っていることから、地下水に強い圧力が加わり自噴しやすい状態となっているため湧出しているといわれています。
市内の各所に祀られた水神様に、水を大切に思い感謝した先人たちの気持ちがしのばれ、それは今に受け継がれてきています。湧水池や水路、洗い場などの環境保全は、現在も地域住民の手によって行われています。
このような住民の手による管理保全や湧水の利用、また、市が進めてきた水辺環境の整備などが評価され、昭和60年に環境庁から島原湧水群が全国「名水百選」の一つに、また、平成7年には国土庁から「水の郷」に選定されました。

音無川  島原市白土湖→海 ( 長崎県 )

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音無川  島原市白土湖→海

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータ及び島原半島ジオパーク公式サイトによる説明は、次のとおり。

音無川 おとなし
島原市 白土湖→海 排水路 長約1㎞,幅3-4m 寛政4(1792)以降 WEB C護岸 寛政4の眉山大崩壊により誕生した白土湖(地下水の湧出してできた湖:日量約4万t)の水を排水するための人工河川/勾配が緩やかで、水の流れる音がほとんどしないことからきた呼称 3 B

白土湖(しらちこ)と音無川(おとなしがわ)
1792年、島原市の西にそびえる眉山は、雲仙普賢岳の噴火の最末期に生じた大きな地震によって大崩壊を起こしました。この崩壊に伴って生じた窪地に、周囲の井戸からあふれた水がたまって出来たのが白土湖です。白土湖は、現在は南北約200m、東西約70mほどの大きさがありますが、形成当時は今の約4倍に当たる、南北約
900m、東西約200mの大きさがあったそうです。
白土湖の出現により、当時の主要街道である島原街道は寸断されてしまいました。その後も水の湧出は止まらず、街道の寸断は続いたため、この水を排水するための水路が建設されました。この水路は山体崩壊が発生する前の海岸線の形にほぼ一致し、勾配が緩やかで、水の流れる音がほとんどしない事から、「音無川 (おとなしがわ)」と名付けられました。
白土湖の湖底からは現在も大量の水がわき出しており、その量は1日あたり4万トンと推定されています。明治末には、この豊富な湧水を利用した酒造所やラムネ工場が湖畔にありました。酒造所は今でも白土湖畔に軒を構えているほか、湖畔には米や野菜を洗うための洗い場も設置されており、今でも住民の生活用水の一部として利用されています。

御用御清水  島原市城内1丁目 ( 長崎県 )

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御用御清水  島原市城内1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。
武家屋敷跡見学者用駐車場近く、島原第一中学校の北西角にある。

御用御清水 ごようおしみず
島原市 城内1丁目 湧水(石造) 寛文9(1669) 市史跡 市教委/WEB 保存状態良好/木戸を復元 城主の居館があった三の丸の用水の水源地/石塀で囲まれた長方形の取水場(入口に木戸) 1 B

島原市指定史跡  御用御清水  (現地説明板)
寛文9年(1669)丹波国(京都府)福知山から入府した藩主松平忠房公は、武家屋敷一帯の生活用水として水道の設置を行いました。
この御用御清水も城主の居館があった三の丸(現、県立島原高等学校および市立第一小学校敷地)の用水として建設されたことが松平文庫の古文書に記されています。
武田流軍書候圮師神之巻の「方角を以て水を用うべきの事」の条に「酉(とり)の方よりの出水をば智水と言う也、才智名にして自然に富貴到来の家となる。合戦するときは大いに切り勝相也」とあり、三の丸御殿の真西に当るこの湧水を、特に大切にしたことはたいへん興味のあることです。
建設以来三百年以上、どのような干ばつにも涸れることなく豊かな清水が湧き出ています。
昭和57年12月26日指定   島原市教育委員会

キリシタン墓碑?  雲仙市瑞穂町西郷辛 ( 長崎県 )

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キリシタン墓碑?  雲仙市瑞穂町西郷辛

島原鉄道西郷駅の西側踏切の曲がり角道を海岸側へ進むと、小さな墓地がある。3枚目写真の墓碑は、旧庄屋宅前の藩境石を案内してくれた方からキリシタン墓?ではないかと聞いた。地元で研究されているらしい。

瑞穂町西郷辛の藩境石  雲仙市瑞穂町西郷辛 ( 長崎県 )

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瑞穂町西郷辛の藩境石  雲仙市瑞穂町西郷辛

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。
島原鉄道西郷駅の西側踏切の曲がり角に立つ。旧庄屋宅とは、佐賀藩神代鍋島領伊古村庄屋下村家ではなく、島原藩島原領伊古村庄屋深浦家がこの奥にある。村境でなく、領境石である。

瑞穂町西郷辛の藩境石 さいごうしん
雲仙市 (伊古)旧庄屋宅前 境界石(尖頭角柱) 高135㎝,19.5㎝角 江戸期 WEB(筑前国境石散歩) 移設・転用(「貯水池記念」碑) (裏面)「此村 島原領」 3 C

伊古遺跡  雲仙市瑞穂町西郷伊古名 ( 長崎県 )

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伊古遺跡  雲仙市瑞穂町西郷伊古名

長崎県教育庁学芸文化課HP「長崎県の遺跡大辞典」による説明は、次のとおり。伊古公民館のところに説明板があった。

遺跡名 伊古遺跡(いこいせき)

所在地 雲仙市瑞穂町西郷伊古名
緯度 北緯32°51′57″ 経度 東経130°14′40″
標高 15〜20m 地形 扇状地
種別 遺物包含地 時代 縄文時代草創期〜中世
資料所在地 雲仙市教育委員会 指定状況 未指定
参考文献等 辻田直人「長崎県の動向」『九州旧石器』第10号 九州旧石器文化研究会 2006
川道 寛「長崎県の動向」『九州旧石器』第11号 九州旧石器文化研究会 2007

遺跡・史跡の概略
伊古遺跡は、島原半島北側に広がる扇状地上に位置する。西側は西郷川が流れ、東側には雲仙山系より続く比高差5mほどの台地が延びる。遺跡はその間に広がる水田地帯に位置し、古来より条里跡として知られていた。平成15年に行われた県営圃場整備事業に先行する試掘調査において、遺跡範囲の拡大と、弥生時代中期〜後期の大規模な集落が展開することが明らかとなった。その後の本調査では、弥生時代のみならず様々な時代の遺物遺構が検出されている。縄文時代では細石器と土器の共伴関係が見られ、2,000点近い資料が検出されている。弥生時代では甕棺や住居跡、環濠の可能性のある溝などが見つかっている。また、旧河川跡から多くのウッドサークルと共に大量の土器も検出されている。中世においても多くの資料が見られ、初期龍泉窯系青磁碗を副葬する土坑墓(木棺墓?)や礫を敷き詰めた道路跡、100枚以上の土師皿を礫と共に集中廃棄している祭祀遺構など多くの遺構・遺物が検出されている。

主な遺構
弥生時代住居跡、甕棺、ウッドサークル、中世道路跡、土師皿集中廃棄遺構
主な遺物
細石核、細石刃、弥生時代土器・石器、輸入青磁・白磁、瓦器碗、石鍋