月別アーカイブ: 2014年11月

下村脩博士ノーベル化学賞受賞記念碑  雲仙市瑞穂町 ( 長崎県 )

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下村脩博士ノーベル化学賞受賞記念碑  雲仙市瑞穂町

雲仙市HPの市の情報、平成22年11月3日(水)の記事は、次のとおり。最後の写真が生家(元伊古村庄屋宅)と聞いた。

下村脩博士ノーベル化学賞受賞記念碑除幕式
下村脩博士ノーベル化学賞の功績をたたえて、博士の本籍地である雲仙市瑞穂町の瑞穂総合支所玄関前に記念碑が建立されました。この日は秋晴れの中、市内外多くの方が訪れ、下村夫妻、石田議長、奥村市長、小中学生の代表者12名により除幕式が行われ、岩戸小学校生徒による木場浮立の演舞も式典に花を添えてくれました。最後に、博士からお礼の言葉があり「この碑が将来の若い人の啓蒙のために役立つことを望んでいる」と挨拶。午後からふるさと会館での講演会に臨まれました。

三木小橋  雲仙市吾妻町本村名 ( 長崎県 )

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三木小橋  雲仙市吾妻町本村名

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータは、次のとおり。
吾妻町三室バス停手前から旧道へ入る。海岸沿いの堤防のところ。撤去された海岸側の親柱(下半分も置かれてあった)が電柱根元にあり、折れた2本をつなぐと「三木小橋」のように判読できる。

№3,783  三木小橋

雲仙市吾妻町本村名(もとむらみょう)
径間:1.8m  桁厚:18cm
単径間桁橋

国道251号線、島原街道の旧道を少し辿ってみました。見落としそうでしたが、古い高欄。
残念ながら親柱の文字が読めません。傍らに放置してある石材。下半分が折れてなくなっています。
内部 コンクリートで補修したところは塩害のためか鉄筋がむき出しになっています
そのうち再び補修が必要になることでしょう。

守山のスクイ  雲仙市吾妻町本村名地先 ( 長崎県 )

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守山のスクイ  雲仙市吾妻町本村名地先

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。「吾妻町郷土誌」の詳述は略。
三室バス停手前から旧道へ入る。海岸沿い堤防のところから干潮時に見える。

守山のスクイ もりやま
雲仙市 本村名地先 魚垣 長約300m 江戸期? 市有形民俗 市教委 形は残っているが、管理や補修は行われていない この地域で江戸期に遡るスクイもあるが、昭和25以後廃業が相次ぎ、現存するスクイが江戸期由来に該当するかどうかは不明 2 B

守山大塚古墳  雲仙市吾妻町 ( 長崎県 )

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守山大塚古墳  雲仙市吾妻町

雲仙市HP「雲仙市の主な遺跡」による説明は、次のとおり。航空写真も同HPから。諫早湾干拓堤防道路入口から山手へ向かう。

○守山大塚(もりやまおおつか)古墳

■古墳時代(約1700年前)
県内最古級の前方後円墳
島原半島で唯一現存する前方後円墳で、離島を除く長崎県内では最大級の大きさを誇ります。後円部の直径は約45メートル、全長は70メートルを測ります。後円部中央の高さは約7メートルあり、写真で判るように、現在は墓地として使用されています。平成21年度に行われた古墳周囲の発掘調査により、古墳に葺石(ふきいし)が施されていたことや周りに周溝(しゅうこう)(堀)が巡ることが判明しました。また、出土した壺や甕の破片から、4世紀前半には古墳が作られていたこともわかりました。墳丘(ふんきゅう)の大きさも一回り大きくなることが予想され、80メートル前後の大きさと考えられます。前方後円墳の形そのままに現在のお墓が建ち並ぶ姿は一見の価値有りです。
なお、宮崎康平氏の書籍「まぼろしの邪馬台国」でも紹介されています。

守山大塚古墳の航空写真
守山大塚古墳を上空から見た写真(右奥が前方部 後には田内川(たないがわ)が流れる)

葺石基礎検出写真 古墳西側の水田を調査した結果、現在の墳丘の外側に、当時の墳丘基礎部分が発見された。径50センチメートルほどの川原石(後を流れる田内川から採取?)を積み上げている。

鈴田峠の藩境籠立場・跡  大村市 <長崎街道> ( 長崎県 )

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鈴田峠の藩境籠立場・跡  大村市 <長崎街道>

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。
表示板がなく場所がわかりにくいから、HP「伊能忠敬測量による長崎県内の主な街道・長崎街道」から鈴田部分を載せる。鈴田峠(日野峠)から大村側へ復元植栽している松並木を100mほど進むと、街道右手脇に遺構の石垣平地が見える。
後ろの写真は、大村市中里町側の国道まで下る途中の石畳坂、渡辺伝弥久の墓、大神宮など。

鈴田峠の藩境籠立場・跡 すずた
大村市 <長崎街道> 籠立場 江戸期 歴史の道百選 WEB 石垣がよく残る 1 C

旧長崎街道鈴田峠  大村市・諌早市の市境 ( 長崎県 )

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旧長崎街道鈴田峠  大村市・諌早市の市境

現地説明板は、次のとおり。後ろの写真は、鈴田峠の北側、風観岳(標高236.2m)の山頂にかけて見られる丸型(大村藩塚)や三角型(佐賀藩御倉入地大渡野村、諫早領破篭井村、大村領鈴田村の大型「三方境塚」)の「藩境石塚」、鈴田峠硯石の傍にあった藩境石を日清戦争後、改刻転用移設した「遥拝所」碑、三角点。
これらは本ブログ次も参照。 https://misakimichi.com/archives/630

旧長崎街道鈴田峠
ここは、大村藩と佐賀藩諫早領の藩境となった鈴田峠です。現在でも、大村市と諌早市の境となっています。
長崎街道は、小倉から長崎に至る57里(230km)を結ぶ九州随一の幹線道路で、海外との窓口であった天領長崎にもたらされた異国の文物や情報を、いち早く江戸に伝えるため、江戸時代前期に整備されました。長崎へ向かう諸大名や長崎奉行、江戸へ向かうオランダ商館長一行や象がこの道を通りました。
この境にある大石は、境石、硯石、鬼の足形石などと呼ばれ、境の目印となっています。江戸参府途中のオランダ商館医シーボルトもこの峠で大村藩役人の出迎えを受けたと記録しており、藩境の重要な場所でした。ここから大村側へ少し進むと大名などが籠を降ろして休憩した籠立場の跡を見るこどできます。
また、藩境に沿って横に伸びる道沿いには、石を積み上げた塚が点々と残されています。これは藩境を示す石塚で、特にここから北にある風観岳の山頂にはひときわ大きな三角塚が築かれています。(写真)
この一帯の山道は、当時の景観が極めて良く残されており、平成8年、文化庁により「歴史の道百選」に選定されました。
平成12年3月   大村市教育委員会

大村街道  諫早市破篭井町<長崎街道> ( 長崎県 )

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大村街道  諫早市破篭井町<長崎街道>

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。
旧長崎街道鈴田峠や大村側の藩境籠立場跡などは、次記事とする。

大村街道 おおむら
諫早市 破籠井町<長崎街道> 道路 長1.46㎞ (指定範囲) 江戸期 市史跡 WEB 未舗装 雰囲気を良く留める 1 C

大村街道   市指定史跡 昭和52年3月5日指定 (現地説明板)
破篭井町から山間部に入り、日野見岳の麓を経て大村市との市境にいたるまでの長さ約1.5km、標高差約
120mを長崎街道の一部・大村街道として指定しています。
この街道の中ほどには、大渡野番所が置かれ、領民の出国や他領からの入国を取り締まりました。その番所の遺構も現在まで残っています。
長崎街道は小倉ー長崎間57里(約228km)、23の道中宿場がある主要な脇街道であり、幕府直轄の貿易港・長崎と江戸とを結んで重要な役割を果たしました。
また、長崎奉行の交替、オランダ商館長の江戸参府、黒田藩・鍋島藩による長崎港警備などに利用されました。
1826年(文政9年)、この地を通ったシーボルトは、「…多良岳に源を発して諫早付近の海に注ぐエイショウ川という小川を越え、海岸沿いに大村の町に向かうたいへん気持ちのよい街道を進んだ。諫早と鈴田という小さな村の間にはたくさんの茶が栽培されていて、畑という畑には整然と茶の木が植えてある。…大村領の境界では2人の武士が姿を見せ、使節に挨拶し行列を先へと案内した。…」と記しています。(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト著「日本」)
なお、この指定区間は、平成8月文化庁選定の「歴史の道百選」に選定されました。
平成9年12月24日   諫早市教育委員会

「みさき道」の展望ベンチ造りと草刈り整備  2014年11月 ( 長崎県 )

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「みさき道」の展望ベンチ造りと草刈り整備  2014年11月

2014年11月9日(日)曇りのち晴。「みさき道」の展望ベンチ造りと草刈り整備の予定が、参加は私1人。みさき道歩会例会をしばらく休止していたし、朝から天気がすっきりしなかったので、仕方ない。久し振りひとりで「みさき道」の現況を確認しながら、のんびり歩いた。
三和行政センター9:30—蚊焼峠9:59—郷路八幡12:34(昼食)13:00—岳路上ベンチ予定地点14:38—徳道サイクリング道路出合15:34—黒浜16:20(徒歩距離 約8km)

サンサンさんわフェスティバルの会場から出発。古茶屋坂の入口先で、すぐ新設車道が横切る。地滑りがあっていて、奥の沢に砂防ダムを築く工事があった。一帯を立ち入り禁止にして、「みさき道」もロープが張られ、この区間(地蔵寺下り分岐まで約500mの間)が通行禁止となったのは、2年ほど前からである。
当初工事はやっと完成したが、西へ回り込んだ谷でも地滑りが発見され、第2期砂防ダム建設工事に別の業者が、正月明けから工事車道を延長して着工するという。ここはもう「みさき道」ルートと関係ないところである。

したがって、当初工事が完成した部分は、本来の「みさき道」ルートを歩かせてもらうよう、長崎県振興局砂防ダム課へ要望した。11月5日午前、県から3人、工事業者責任者、土地所有者、私とで現場立会い確認のうえ、通行禁止のロープを外し道の整備を、私の方の会でしてよいとの許可をもらった。
その5日の現地確認の状況が、写真の3枚目までである。

きょうの例会は、これが主な目的だったが、1人でロープを外し、山間地主の土地に入らないようロープをつけ変えるに時間がかかった。郷路八幡の鳥居に着いたのは、12時半過ぎ。ここで昼食とした。
「みさき道」入口看板も、塗り替えて設置しなおした。工事区間の通行禁止は当面解除されたので、各山岳団体や愛好者へ周知してもらいたい。
ただし、工事車道が横切るところは、正月明けからまたダンプなど多く通る。工事車両注意看板を設置し、ここには登山者横断白線を引いてもらい、双方とも注意するよう要望した。

岳路上の展望ベンチは、ちょうど徳道までの中間地点となる。伐採地で展望が良かったが、前面に植えられた植林が成長して、軍艦島や外海方面がまったく見えなくなった。当会手造りの40人は座れたベンチも、竹など腐った。この場所に代わるのは、付近をだいぶん探したが、もう少し進んだ植林地である。
「みさき道」の通路すぐ上に、少し登ると平坦地があった。木立越しとなるが、展望の適地はまあ、ここくらいだろう。きょうは1人ではベンチを作製できず、次回にみんなの応援をもらって設置したい。

「みさき道」はそんなに荒れていなかった。徳道のサイクリング道路に出る手前は、本道ながら相変わらずのイバラとカズラの道となる。草刈りにいつも苦労していた。カヤの原に出る手前から、まっすぐ進む迂回路がたいぶん利用されているようで、テープが多く巻きつけられていた。
サイクリング道路出合から黒浜へ市道を下るが、大カーブ地点に昔の里道の近道がある。これを下るとすぐ黒浜バス停へ着いた。

(注意) 写真2、11、12に「みさき道」脇と上部にブルーシートを被せている箇所が写っている。道下斜面にコンクリート擁壁を造った際、少し地滑りが確認できたと言う。この部分も買収し、いつかは「みさき道」ルートを一部変えてもらうかも知れないとの、県砂防ダム課の話である。当面の通行に支障はないらしい。

御伊勢ドンの灯籠  南九州市知覧町打出口 ( 鹿児島県 )

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御伊勢ドンの灯籠  南九州市知覧町打出口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。
私は知覧町で訪問先を間違っていた。打出口集落にある現地写真は後日、宮崎市贄田様に撮影をお願いし送ってもらったものである。

御伊勢ドンの灯籠 おいせ
南九州市 打出口 石常夜灯 高1.24m 文政5(1822) 市教委(文化財ガイド・知覧p120) 移設・展示 伊勢信仰→集落に小さな御伊勢様を勧請した/角柱状の竿石上部に正方形の開口部 2 C

御伊勢ドンの灯籠 (現地説明板)
文政5年(1822)に建立された石灯籠です。地元の伝承では、伊勢神宮に参詣したのを記念して建てたのだとされています。御伊勢様を信仰する余り、集落に小さな御伊勢様を勧請して建てたのでしょう。この辺りの地名を「おいせどん東」と言います。御伊勢ドンとはもちろん現在の三重県伊勢市にある伊勢神宮のことです。元々は国家祭祀の場でしたから、平安時代などは極限られた宮中の人々の信仰対象でした。時代が鎌倉・室町と下ってくると、その信仰が武士の間にも広がり、江戸時代には庶民へも広がって行きました。人々は伊勢神宮に参詣するために講を作り、少しずつお金を積み立てて、代表者を参詣に送り出しました。
知覧でも伊勢信仰は盛んだったようで、上郡、桜の元にも伊勢神社があります。また海岸部の南別府竹迫には御伊勢講に使われた、御神体・小祠(しょうし)・太鼓などが残されています。 

立花河地堤  西彼杵郡時津町日並郷 ( 長崎県 )

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立花河地堤  西彼杵郡時津町日並郷

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。サイト用画像撮影に出かけた。
日並交差点から旧国道に入り、山下酒店角から日並川沿いの町道を遡る。廣済寺分院先の橋は宇野工業の方へ右折、コンクリート林道を終点まで進む。

時津町マップでは「高地池」(黄囲線の場所)、現地の平成4年11月改修記念碑には「橘河内地区老朽溜池」とあった。時津町教育委員会編「時津町郷土誌」昭和54年発行には、10〜11頁「4.沼、堤、池」の項に写しの記録があるだけである。

立花河地堤 たちばなこうち
(西彼杵)時津町 溜池 堤長33m 天和2(1682)→天保4(1833)嵩上げ 町教委 一部C改修 施工: 奉行・松尾好之助、田中九兵衛 3 –