月別アーカイブ: 2014年11月

松ノ森神社の御神橋  長崎市上西山町 ( 長崎県 )

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松ノ森神社の御神橋  長崎市上西山町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。サイト用画像撮影に出かけた。神社境内風景も添える。この橋は、本ブログ2008年4月記事も参照。
https://misakimichi.com/archives/814

松ノ森神社の御神橋 まつのもり
長崎市 松ノ森神社・参道 石桁橋 長5.8m(2G) 文化15(1818) WEB(石橋) 保存状態良好 石工:原田嘉兵衛(北有馬)/構造は単純だが橋面石を使用/高欄の束柱に四神(青龍、玄武、朱雀、白虎)の浮彫 1 C

陸軍用地境界標石の受難  佐世保市相浦 愛宕山 ( 長崎県 )

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陸軍用地境界標石の受難  佐世保市相浦 愛宕山

長年にわたって、要塞地帯標や軍港境域標など踏査し研究されている佐世保市在住、高橋輝吉氏から最近
10月14日と11月5日に送ってきた資料。新しくデジカメを買ったので、10年前に写した標石の写真と比較するため、近くの山を訪れたという。
「山の名は??伏します」とあるが、「高速道路近く 実盛谷(さねもりだに)です」とあり、佐世保市相浦の愛宕山の東側斜面となる実盛谷一帯の話だろう。
「愛宕山」は標高259.0m。佐世保市の西九州道の ”相浦中里IC”傍にある円錐形の山。「飯盛山」・「相ノ浦富士」とも呼ばれている。

年代は不明だが戦時中、陸軍が愛宕山に堡塁を築く計画があり、用地を接収し境界標石を建てた。これが高橋氏写真の「陸第三七号」や「陸第六二号」などであろう。結果的には、堡塁は築かれず、陸軍境界標石だけが数本残ったとの高橋氏の話である。
同氏は10年前にこの標石を丹念に探し、写真に残していたので、現在はどうなったか、実藤谷のその地点を本年3月、デジカメで再確認に行った。この報告の要点。

今年3月「デジカメ」にと思い、山へ行ってみました。
A 10年前「陸第三七号」をフイルムで撮っていました。3月行ってみました。「陸」がない。3日後—4m下に有った。人工的か?。雷か?
B 「陸第六二号」なんで此んな所にと?。10年前の写真あり。今年3月、写真を見ました。「?」。六二号左後ろの椿が、右石の後ろに。?。今、思うと地滑りで10年の間に64cm左より右へ。何かの参考になりませんか?

以下、写真と資料が多くあった。愛宕山の現地をまったく知らない私には、理解しにくい点もあるが、資料をそのまま全部載せる。地滑りの原因は記していない。山間の地滑りなどで戦時中の陸軍用地境界標石も、頭部を欠いたり位置を変えるなど受難に遭っていることを、高橋氏は報告しているのである。

上西勝也氏HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史」あとがきから ( 長崎県 )

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上西勝也氏HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史」あとがきから

以下は、日本の測量史研究をされている京都市在住、上西勝也氏HPのあとがきから。
私たちが協力して2012年11月末、長崎魚見岳台場跡(国指定史跡)上の大久保山登山道途中で見かける、内務省地理寮(刻面は「地理局」)が1876年(明治9)に設置した測点を発掘したことにふれられている。
発掘状況の詳しくと、上西氏HPの報告は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3503
https://misakimichi.com/archives/3510
先生が今どうされているか、現況をHPで開いてみたら、この長崎の関したあとがきに気付いた。

上西勝也氏 HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史」(旧題:三角点の探訪)

このホームページでは地図をつくるための測量の歴史とともに、わたしが探訪した測量の標石や遺跡をはじめ測量や地図に関する話題を紹介します。

あとがき
2013年1月
前年にひきつづき測量関係の切手収集に力を入れました。エクアドルの切手でフランス遠征隊による南米赤道直下の子午線長測定200周年と250周年を記念した1936年と1986年発行の全14種をバラバラで全部入手できました。
夏にはアイルランドへ旅行しましたが、かつて英国が統治した国であり几号水準点も見つけることができました。几号だけでなく文字数字が付刻されているものが多いようでした。
長崎で内務省地理寮が1876年(明治9)に設置した測点を発掘しました。この測点は地上の表示標存在だけが以前から知られていましたが今回は地中の本体を見つけました。2006年(平成18)2月に初探訪についで昨年4月に掘削予備調査、11月に本体測点発掘となりました。現地の皆さまに大変ご尽力をいただきました。

2014年1月
昨年は標石の探索はほとんどやっていませんが測量史跡のほうは国内あちこちを探訪してきました。柏崎市にある北方探検家、松田伝十郎の顕彰碑、佐渡市宿根木にある幕末の地理学者、柴田収蔵の生家、北海道別海町西別川河口の伊能忠敬が到達した最端地点、稚内市声問にある松浦武四郎の宿営地跡などを訪ねました。そのほか文献によって江戸時代以前の測量について調べこのHPを充実しました。

貨幣石産地  天草市河浦町宮野 ( 熊本県 )

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貨幣石産地  天草市河浦町宮野

これは鹿児島県への往路の話。天草鬼池港から本渡市へ出、新和町を通る天草下島東岸回り県道26号により牛深港へ行った。その途中、河浦町宮野で見た「熊本県指定天然記念物 貨幣石産地」の標石。写真1の珍しい塀構えの家の県道沿い手前に立っていた。
何かと思い、その家の裏手へ道を進むと、奥の民家は倒壊。右側に産地らしい崖面があったので写してきた。手前の家人に聞くと、化石らしく石はどこかの公民館へ持っていっていると言う。

今、改めて調べてみると、熊本県文化財の指定には、もうない?。HP上でわかったのは、次を参照。
http://home.384.jp/mejibee_sr/40600kumamoto.htm
「河浦町 …宮野の貨幣石産地は、残念ながら民家は住む人も無く荒れて、観察は出来ませんでした。
貨幣石は新生代の底生大型有孔虫で、示準化石となります。」とあり、私のと同じ「貨幣石産出地標識」「産出地跡」の写真があった。

熊本市立熊本博物館HPには、次のような「カヘイ石」解説と写真があるので、参照。
http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/kids/k_chisitu/ksk_sin_001.htm
名称 : カヘイ石(原生動物有孔虫類)
学名 : Nummulites sp.
時代 : 新生代古第三紀
産地 : 熊本県牛深市
地層 : 白岳砂岩相当層
カヘイ石は貨幣石とも書くように、硬貨のような形をしていて、古生代の示準化石として知られているフズリナと同じ原生動物の仲間です。そして、カヘイ石は、古第三紀の示準化石です。日本のカヘイ石は、東京都の小笠原の母島、沖縄県石垣島と熊本県の天草南部などから産出することが知られてれています。

いずれにしても「貨幣石」とは、硬貨のような形をした「カヘイ石(原生動物有孔虫類)」という化石。天草ビジターセンターや熊本市立熊本博物館などに展示されているから、機会があったら見学してもらいたい。 

六郎次山  天草市深海町・河浦町路木

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六郎次山  天草市深海町・河浦町路木

天草市HPの文化財による説明は、次のとおり。国道266号深海分岐に案内表示板があり、山頂の公園展望台まで車道が上がる。山頂近くで車道がわかりにくいが、少し下ると表示板がある。

六郎次山
■指定区分 国指定
■指定種別 名勝
■指定年月日 昭和10年6月7日

天草下島の東海岸、深海町と河浦町の境界にそびえる六郎次山(標高405m)は下島における代表的な展望所で、下島大観山ともいい、昭和10年に千巖山及び高舞登山(上天草市)などとともに国の名勝に指定されています。
国の名勝には「観賞価値の高いもの」が選ばれますが、六郎次山の山頂からは、眼下に穏やかな深海湾の入り江を望むことができます。また、遠くには御所浦島や獅子島、長島など八代海(不知火海)に浮かぶ大小の島々を一望でき、これらのすばらしい風景を目の当たりにできます。

■地域 牛深
■所在地 深海町及び河浦町路木
■見学 常時

烏帽子坑跡  天草市牛深町西田代又

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烏帽子坑跡  天草市牛深町西田代又

天草市HPの文化財による説明は、次のとおり。牛深ハイヤ大橋を渡って、下須島の西岸「小森海岸」へ行くが、かなり遠い。「小森海岸」は、日本の夕陽百選の地である。

烏帽子坑跡
■指定区分 市指定
■指定種別 史跡
■指定年月日 平成4年12月2日

烏帽子坑は、明治30年天草練炭株式会社が創業を始め、数年間採炭されました。下須島西岸の海を隔てた「烏帽子瀬」に構築され、今も当時の姿をそのまま残している珍しい海底炭鉱跡です。
牛深を中心とした天草南部炭田は、俗に「キラ炭」と呼ばれる無煙炭で、カロリーが高く、揮発性の強い優秀な石炭で、軍艦の燃料となりました。このため、当時の海軍省などの天草炭田への期待は大きいものがあり、海底掘進という危険性があっても、露頭する炭層の採炭に着手し出炭しましたが、湧水等に悩まされ、数年間ほどで創業を中止したとされています。
それ以降約110年の間、何十回もの台風が来襲し大波を受けたにも関わらず、赤土と松ヤニを混ぜて接着したとされるアーチ型の赤レンガの坑口は現代にもその姿を留めています。
烏帽子坑の奥、西海岸に沈む風景は「日本の夕陽百選」にも選ばれています。

■地域 牛深
■所在地 牛深町字西田代又1103−2 海上にあるため、接近はできません。

牛深港のハイヤ像  天草市牛深町

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牛深港のハイヤ像  天草市牛深町

蔵之元港からフェリーで牛深港へ帰る。ハイヤ娘が出迎え。
牛深ハイヤ節は、熊本県天草市牛深(旧牛深市)で江戸時代から伝わる「元祖ハイヤ節」である。現在では全国40ヵ所以上のハイヤ系民謡のルーツとなっている。
写真3,4の「牛深ハイヤ」像は、昭和58年4月2日建立。牛深ロータリークラブ創立20周年記念。制作石原昌一。

蔵之元のゴリラ  長島町蔵之元自治公民館前

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蔵之元のゴリラ  長島町蔵之元自治公民館前

国道389号で蔵之元港にすぐ着く手前、蔵之元自治公民館前で、ゴリラを見た。地元自治会が平成23年10月に制作した「ながしま造形美術展」の作品。
以前は蔵之元港に展示していて、写真のとおりの町説明板があった。現在、蔵之元港には、最新作のマンモス像が展示されている。

明神古墳群  長島町蔵之元明神

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明神古墳群  長島町蔵之元明神

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。蔵之元港への国道389号に明神古墳群への入口案内板がある。

明神古墳群
【所在地】出水郡長島町蔵之元明神
【種 別】県指定史跡
【指定年月日】昭和 58 年4月 13 日

明神古墳群のある蔵之元は,長島の西北部にあたり,西に長島海峡をへだてて天草の牛深市を望む。古墳群は,東シナ海に流れ込む河川の南側で,礫層の上に形成された広葉樹やガジュマルの茂る海岸防風林の中にある。
古墳群全体は小高い墳丘を形成し,その中に 30 基余りの栗石積みの竪穴式石室が点在している。うち6基が昭和 37,38(1962,63)年に発掘調査されたが,他は未調査である。
1号墳は栗石を横積みした不整形な長方形で,長軸が約3 m ある。石室床面ではサンゴや軽石の破片,人骨片,鉄鏃,刀子などが発見されている。
2号墳は,羨門をもつ横穴系竪穴式石室で,長軸約 2.75m,羨道の長さ 55cm で遺物はない。
3号墳は,2号墳と同形式で,土師器片,鉄刀,鉄鏃等が出土し,頭骨と鏡も出土し小浜崎古墳群した。

小浜崎古墳群  長島町蔵之元鬼塚,白金,白金先

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小浜崎古墳群  長島町蔵之元鬼塚,白金,白金先

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。蔵之元港への国道389号に小浜崎古墳公園への入口案内板がある。

小浜崎古墳群
【所在地】出水郡長島町蔵之元鬼塚,白金,白金先
【種 別】県指定史跡
【指定年月日】昭和 58 年4月 13 日

小浜崎古墳群は,長島の西北部,東シナ海に細く突き出た丘陵に点在する鬼塚古墳1号墳・2号墳,白金古墳,小浜崎古墳の総称である。
鬼塚古墳1号墳は,6世紀中葉から後葉にかけての横穴式石室をもつ高塚古墳である。羨道をもつ複式石室の構造は,北九州・畿内タイプの要素が強く,本県唯一のものである。
鬼塚古墳2号墳は,竪穴式で複式の箱式石棺を有する。
白金古墳は,6世紀中葉の横穴式石室をもつ積石塚古墳である。形式的には,柄鏡式に近いが前方後円墳であるかは不明である。墳丘は,長径 7.3m,短径 5.7m,高さ 1.7m の小規模なものだが,金環,ガラス小玉類その他の副葬品が確認されている。
小浜崎古墳は6世紀中葉と推定され,中心に地表下 20 〜 30cm ほど掘りこんだ竪穴式石室をもち,その上に円形の墳丘があったと推定される。石室は,扁平な割石を小口積みにして側壁をつくっている。過去に盗掘にあっているためにめぼしい副葬品はないが,昭和 39(1964)年の発掘調査で鉄剣破片等が確認されている。