野母崎町・野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」 平成5年
「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。野母崎町・野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」平成5年から、3 高浜海岸の今と昔(高浜)と、6 野中の一本松。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行120〜121頁ですでに紹介済み。写真は「浜添」という高浜海水浴場あたりと、先の現料亭「松美」入口にある「忍の地蔵」、そして高浜へ下る途中、「延命水」水場の右側にあったという「野中の一本松」跡。
野母崎町・野母崎町教育委員会 「のもざき漫歩」 平成5年
3 高浜海岸の今と昔(高浜) 8〜12頁
(略)幼い私も、籠を届ける父について行くことがたびたびでした。野母方面へ行くのに、浜添から「忍の地ぞう」の下を通り、その浜へ出ると、なだらかな砂の道となっていました。そこは満潮時になると、潮がガンブリ満ちて通れませんでした。
小古里の浜の小川の尻も、崖地の下に石を並べて飛び石をつくり、その上を跳んで渡りました。海岸沿いは、ほとんど砂浜を歩いたり、石垣で護岸をしている、畑のきしを歩くのが普通でした。長浜から南越にかけて、五百メートルほども長い砂浜が続いていたので、幼い私の目には、物すごく広い砂原のように見えました。父の話によれば当時、小学校の運動会も、この地で催していたということでした。
浜添の海岸は、通称「前の浜」といいます。その砂の丘を「クマン峠」といいました。そこには毎年、夏になるとハマユウが白い花をつけ、快い香りを放って咲きました。渚では、ハマグリとシジミがたくさんとれていました。クマン峠から浜辺まで、なだらかな白い砂の流れが、南手から北へ長く続いた眺めは、海の青と調和して、それはそれは、絵になる光景をそなえておりました。(略)
6 野中の一本松 22〜24頁
現在、毛首の集落から東北の方向に三百メートル程へだてたところに『野中』という字があります。そこは徳道を経て三和町川原の方へ通じる道がひらけています。その途中に大きな松の木が一本あったことから『野中の一本松』と、いつのころからか村人は呼んでいたそうです。
それはそれは大きいばかりでなく、枝振りの美しさも他に類を見ない松でした。てっぺんまでの高さは二十メートル、周りが十五、六メートルもあったろうといわれています。まして、この木の近くに混々(滾々が正)と清水が湧き出て、通行人は言うまでもなく、当時黒浜、以下宿から本村の学校へ通う子供たちの憩いの場所でもありました。
ところで、この松は根ッコから一メートルぐらいのところが空洞になっていて、その中は畳二枚も敷ける程の広さで、おとなが立てるほどの高さはあったといいます。穴の中は自然にできたのでなく「金ノミ」で削りとられていたようで、内側の壁は風化した土はだを見るようでした。当時。村へ出まわる巡礼や、物乞いが、雨風をしのぎ冬の季節をここで過ごしていたようであります。
ところが、北風の強い昼下がりのできごとでありました。もうもうと立ちのぼる黒煙は、『野中の一本松』の方向だと村人たちがさわぎ出しました。もっとも近い毛首の人たちは手に手に手桶を持ってかけ上っていきました。近くの川から水を汲み、穴めがけてヒッかけたので、消し止めるには長くかかりませんでした。後になって村の人の話しでは、穴の中で焚き火をしての不始末からではなかったかということでした。そのことから二日、三日と経ったころ、松葉がだんだん緑を失い、ひと月とたたないうちに枯れ木となってしまいました。
この松の木の近くに、白くコケでおおわれた石碑が建っていますが、さらにそのそばにはお地蔵さまが祭られてあります。この松と碑とお地蔵さまの三体には何か因果関係があるのではないかと思われます。しかし、現在では巨木はなく地蔵さまと碑が、むかしの物語を秘めて、語ることもなく残っているだけであります。
(注) 現在、国道499号となっている県道長崎〜野母間は、昭和18年開通と野母崎町郷土誌年表にある。高浜海岸の話はその以前の思い出で、高浜から古里までの道の様子を伝えている。この頁には昔の海岸線と道を今と比較した地図がある。街道といわれる道と少し違うが、参考となる。浜添は今も字名「浜ゾ」で残る。
砂の丘「クマン峠」の名は不思議である。脇岬の砂丘も「熊根」という。「クマ」は道や川の折れ曲がっている所、あるいは奥の引っ込んだ所を言う古語らしい。曲がった地形をあらわすのか、熊野神社に関係するのか。
野中の一本松は、清水が湧く「延命水」の石祠の右側にあった。松ヤ二採取で戦後、枯れたという。この話は川原道の道筋であったことを伝え、黒浜・以下宿から高浜に行くにもここに上って、「みさき道」と合流していたと考えてよい内容の資料である。
このほか野母の漁師の始まり、観音寺の観音像の由来など史実と民話を平易に収録している。