天門峰の明治9年地理局測点  上西氏HPから

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天門峰の明治9年地理局測点  上西氏HPから

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
以下は、上西先生同HPから、今回調査分の「大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点」、「鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸」、「ダイヤランドの水準点」の報告と写真を紹介するが、理解を深めるため「長崎の測量」、「天門峰の明治9年地理局測点」も項目順により再掲した。
上西先生HPは、次を参照。  http://uenishi.on.coocan.jp/

天門峰の測点  (民部省・工部省・内務省の測量の項)

地図:長崎西南部

2006年(平成18)2月に長崎で内務省地理局の標石が2ヶ所に残存していることが分かり現場を探訪しました。その位置は長崎港の港口に新しく架橋された女神大橋をはさみ西の天門峰と東の大久保山中腹にある魚見岳です。

天門峰は標高160メートルの山で神崎(こうざき)神社からの登山道を女神大橋西端から入り
20分程度の急登で達することができます。山頂にある大岩が測点になっています。岩の大きさは幅1.4、奥行0.8、地上高さ1.0メートル、上部中央(「地理局」刻字の真上)には一辺20センチメートルの正方形で深さ2センチメートルのくぼみがあり、さらにその中央には一辺9センチメートルの四角い凸部があり東西、南北方向に対角線が彫られています。やや斜めになった岩盤上の刻字は縦書きで左が「地理局測點」(幅6、全長40センチメートル)右が「明治九年第四月」(「第四」の文字は推定、幅4、全長34センチメートル)と読めます。内務省地理寮が改称され地理局が発足したのは1877年(明治10)ですから実際の観測は1876年(明治9)の地理寮時代に行われ標石の刻字は後年にされたとも考えられます。京都清水寺に残存する内務省の「測點」は地理寮と地理局の両方が彫られています。この標石はかなり以前から知られているようで現地のガイドブックにも載っていました。

山頂の岩に「明治九年第四月地理局測点」と刻んだ三角点があり、10年前までは何とか判読できましたが、現在「地理局」だけがかろうじて確認できます。この岩の上に立って展望する人の登山靴に踏まれて磨耗したのでしょうか。 [林正康:長崎県の山歩き 葦書房 2000 p73]同様の記述は[長崎市教育委員会:長崎市周辺ハイキングコース 1975 p29]

このガイドブックにあるほど磨耗はしてませんが、かなり判読し難い字もあり写真を撮るのに苦労しました。なお山頂には近年設置されたと思われる直径5センチメートルで「+」と「基準点」のみ彫られた金属標が載った地上高さ10センチメートルのコンクリート杭がありました。女神大橋架橋関係の測量に使用されたものかもしれません。