長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−47 出島橋
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
プロセイン・ドイツが観た幕末日本
169頁 ⅤⅠ−47 長崎、出島橋、1861年、ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ
〔図版目録〕
ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作、「出島の橋」。
アルベルト・ベルグ画に基づくフォトリトグラフ。出典(略)
■ 確認結果
日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)
1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。
169頁のⅤⅠ−47「出島橋」は、1861年ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ。「出島橋」と省略されているが、「出島の橋」に間違いない。左上に「DESIMA」と記している。
これは、現在の国指定史跡「出島和蘭商館跡」にある出島絵図説明板や出島模型(橋の模型は少しおかしい)のとおり、出島「表門の橋」(石橋)を、出島埋立地の東端から描いている。
奥が長崎港で、背後の山は稲佐山の北東尾根である。
出島復元整備事業で出島「表門の橋」を、再び中島川に架ける計画がある。古写真は見あたらず、この1861年ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフは、貴重な史料となる。
長崎市出島復元整備室は、このフォトリトグラフの存在を知っているのだろうか。川岸には橋が架かっていた場所の石材のような石がまだ散乱している。
現在の「出島橋」という名称の橋は、出島跡のすぐ上流にトラスト工法の鉄橋が架かり、出島「表門の橋」とは、架橋場所が違うので、誤解のないようお願いしたい。