月別アーカイブ: 2009年12月

朝日選書 188P写真  81 稲佐崎の和船とロシア止宿所

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朝日選書 188P写真  81 稲佐崎の和船とロシア止宿所

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 188P写真  81 稲佐崎の和船とロシア止宿所

長崎の対岸稲佐崎の入り江に停泊する弁才船(奥)とイサバ船(手前)。丘上の日本家屋は長崎港で越冬するロシア東洋艦隊の乗組員の止宿所。
ベアト撮影、1864年ごろ、鶏卵紙、28.7×23.8

〔解説記事 186P〕  稲佐の和船

1864年ごろ、イギリス人写真家フェリクス・ベアトが稲佐海岸で撮影した江戸時代の和船の写真です(写真81)。
ベアトは横浜で開業した腕利きの旅行写真家で、上野彦馬にも影響を与えました。暗箱と呼ばれていた当時のカメラは今よりもずっと大きく、レンズの焦点距離も長かったので、写真の精度は抜群でした。現在の稲佐の三菱電機工場横の丸尾公園あたりから朝日町商店街付近を撮っています。この入り江は埋め立てられて今は面影がありません。
このあたりは1858年の開港条約締結後ロシア人の止宿所(ししゅくしょ)となります。
大きなほうの船は千石船または弁才船で、米を千石(約150トン)運べました。長さは約23メートル。船底が平らで船の骨組みとなる龍骨がなく、1本の帆柱に横帆とシンプルでしたので、洋式帆船のように帆柱に登る必要がありませんでした。スピードは速く、経済的だったため各地を回航した菱垣廻船や北前船などに使われました。シーボルトも『日本』でこの船の構造を図解しています。屋根を持つ手前の小さな船はイサバ船と呼ばれた近海用の魚や物資の輸送船です。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:1276「和船(3)」 撮影者:F.ベアト 撮影地域:長崎 年代:1864 の古写真。同解説は次のとおり。
台紙に Group of Japanese Junk and boat in the Canal とある。向こう岸にもやっている和船はかなり大型である。ここは運河というより入江みたいなところであろう。人々の生活のにおいがする。

私の以前の記事は、次を参照。この古写真の撮影場所は不詳とされていたが、背景は浜平上の日昇館あたりの山。当時、波止場があった丸尾山の丸尾公園西角から旭町(「朝日町」は誤)商店街後ろの稲佐崎方面を写したものである。
この入り江は舟津浦や江の浦と呼ばれ、平戸小屋町の町名も残るとおり平戸藩屋敷があり、昔から栄えた浦。長崎港内でも台風を避けられた。
https://misakimichi.com/archives/142
https://misakimichi.com/archives/1557
https://misakimichi.com/archives/654

朝日選書117P写真「47 和船と稲佐崎」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5310「稲佐海岸」)の作品は、すでに前に述べた。
https://misakimichi.com/archives/2143
そのとき、この朝日選書188P写真「81 稲佐崎の和船とロシア止宿所」(目録番号:1276「和船(3)」)は、丸尾山の波止場から稲佐崎方面を左向きに変えた作品と説明している。

今回、この古写真の解説記事で、新たに「丘上の日本家屋は長崎港で越冬するロシア東洋艦隊の乗組員の止宿所」「このあたりは1858年の開港条約締結後ロシア人の止宿所(ししゅくしょ)となります」と説明が加わった。
「ロシア人の止宿所」となった場所は、現地確認がないようで、少々誤認があると思われる。
旭大橋の入口に長崎日ロ協会が設置した「幕末・明治のいわゆるロシア村」の説明板がある。ロシア村の場所は、稲佐崎の先端から裏手志賀の波止を向いた高台一帯である。

「47 和船と稲佐崎」の説明では、ロシア村への登り口が右方にもあり説明は少し合うが、「81 稲佐崎の和船とロシア止宿所」では、この古写真の右写真外高台となり、写真にはほとんど写っていない。当時の高台への道と現在の住宅地図を掲げる。別の坂道なのである。
旭町商店街の手前から言うと、47の右の坂道は馬渡歯科医院が登り口。上のマンション「カネハレジデンス旭町」が稲佐崎の「ホテル・ヴェスナー」跡である。81は商店街通りをまだ行って黄金橋手前、ビューティサロンあさひ角を右へ入った道の坂道となる。

したがって、この古写真に写っている「丘上の日本家屋」は、「ロシア人の止宿所」となった一帯ではなく、舟津浦の昔から栄えた集落の高台である。奥へ行くと現在、山野辺邸と共立病院、萬福寺、旭保育園、悟真寺がある。
旭大橋入口の「幕末・明治のいわゆるロシア村」説明板は、この古写真を取り上げていない。
付近の詳しくは、「稲佐風土記」著、長崎日ロ協会の会長松竹先生へ確認をお願いしたい。

朝日選書 172P写真  73 大村湾口の時津村

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朝日選書 172P写真  73 大村湾口の時津村

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 172P写真  73 大村湾口の時津村

明治中期の長崎郊外、大村湾奥の時津村の家並み。大村からの海路の長崎口で、ニ十六聖人もここから上陸した。遠景は塩田。
撮影者不詳、1886年bごろ、鶏卵紙、25.8×19.0、手彩色

〔解説記事 167P〕  塩づくりの村だった時津村

1886年ごろに撮影された時津村(現在の時津町)です(写真73)。中ほどに見える瓦屋根が浦郷にある市場付近の町屋です。手前の農家と思われる藁ぶき屋根の集落とは対照的です。
浦郷はかつて大村湾の鮮魚が揚がる市場でした。また、長崎へ向かう旅人の重要な港口でもありましたた。大村から船で時津に上陸すると、諫早経由の長崎街道より1日節約できました。
1597年、のちにカトリックで聖人に列せられることになる26人のキリシタン殉教者も、東彼杵町から船に乗せられ、大村湾奥のこの港に上陸しました。
家並みの奥の大きな木が2本立つ場所は、1640年に建立された村社の八幡神社です。入り口にある「ともづな石」は船の係留に使われたもので、浦郷が江戸時代に波止場だったことを伝えています。
神社の後方が浜田郷で、海岸伝いに塩田が見えます。塩づくりは農業とともに時津の重要な産業でした。江戸末期には総戸数852軒のうち113軒が塩づくりに従事し、時津全体で年間4720俵、約4万2480キロの塩がとれたといわれています。
明治の終わりに塩田は田畑に変わり、海岸は埋め立てられ、今では工場や学校、住宅地に姿を変えました。最近の時津は、長崎の衛星都市として人口が増えてきました。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5653「時津の家並み」の古写真。同解説は次のとおり。
大村湾に接する西彼杵郡時津村とその港。手前は密集した浦郷で、港の入り江を挟んで対岸は崎野の海岸から人家に至る。大村との往還にはこの港が頻繁に利用された。背後の丘陵地は、長与の岡郷、嬉里郷に続く一帯で、後方の高い山は、琴ノ尾岳。

朝日選書の172P写真は、タイトルが「73 大村湾口の時津村」とあるが、「大村湾奥」が適当ではないか。
写真下の解説図でも、後方の高い山は「琴ノ尾岳」ではない。左上鞍部のところが山頂アンテナ塔がある「琴ノ尾岳」から尾根が下った「扇塚峠」。写真に写っている右の高い山は「仙吾岳」(標高375.6m)と丸田岳方面となる。

私の以前の記事は次を参照。この古写真の撮影場所は、国道交差点から時津川の西岸へ現在の「新地橋」を渡る。長与町立長与図書館の上手の高台、戦没者や原爆死没者の慰霊碑のある公園と思われる。宝永5年(1628)から浦郷北泊「稲荷大明神」が祀られている。
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/48654714.ht
https://misakimichi.com/archives/1837

江戸時代、時津村は大村藩領。時津港は彼杵港(現・東彼杵町)との間にも船便があり、長崎街道の近道となった。「時津街道」は大名や幕府の役人にも利用され、現在もその名残りとして「お茶屋」と呼ばれる時津本陣が残る。
時津街道は、長崎市西坂を起点に時津港までの12km。時津港から彼杵までの海路20km。矢上経由の長崎街道60kmに比べ、好天なら一日の行程を短縮できた(長崎新聞ふるさと賛歌)。したがって、解説記事167P中の「大村から船で時津に上陸すると」は、少し違うのではないだろうか。

朝日選書 165P写真  70 1860年の相撲取り

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朝日選書 165P写真  70 1860年の相撲取り

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 165P写真  70 1860年の相撲取り

スイス人写真家ロシエが松本良順の援助で撮影した日本で最初の相撲風景。大関熊川一行。ロシエとの出会いで彦馬の写真家の道が決まった。足もとに影が短く落ちていることから、日が真上から差す真夏の屋外撮影であることがわかる。体の色が黒いのは、肌色の感色性が悪いため。
ロシエ撮影、1860年、鶏卵紙、8.6×5.7

〔解説記事 163P〕  相撲の取組や土俵入り
相撲取りの写真としては、日本で最初のものです(写真70)。1860年夏、長崎を訪れたピエール・ロシエが撮影しました。場所は出島の内部で、写っているのは大関熊川一行です。
松本良順の自伝によれば、ロシエは相撲を撮影しようとしましたが、動くのでうまく撮れなかったそうです。結局、奉行の許可を得て、良順に撮影の便宜を図ってもらったということです。幕内上位の力士を出島に招待し、相撲を取る様子や勝ち負け、土俵入りなどを撮影させました。

相撲取りの足もとに影が短く落ちていることから、日が真上の真夏の屋外撮影であることがわかります。肌が黒ずんでいるのは、湿板写真は赤い肌色に感応できなかったためです。左のかみしもの男性は行司ですが、軍配は腰に差しています。
福岡藩から写真修行に来ていた前田玄造は、このとき、ロシエに付き添って写真術を学びました。写真撮影に苦労していた上野彦馬と堀江鍬次郎は、ロシエから薬剤と外国製カメラ、レンズを紹介されました。彦馬は、津の藤堂家の支援で、150両のカメラを出島商人アルバート・ボードインから手に入れました。これが機縁となり藤堂藩に仕え、江戸に出ていきます。
ロシエは日本において写真術が発達するための恩人であったわけです。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5864「 相撲(9)」 撮影者:ミルトン・ミラー 撮影地域:長崎 年代:1861-62? と同古写真。
長崎医学伝習所の責任者だった松本良順自伝によって、撮影者はロシエが正しいのがわかったのか、日本で最初の相撲写真。ロシエとの出会いが、上野彦馬に写真家の道を決めさせた貴重な写真である。

出島で撮影された相撲取りは、大関熊川一行。私の関心は今回は疑問ではなく、この「熊川」なる力士のことである。
長崎市川原町の川原木場公民館広場奥の道脇に、今は忘れさられたような「天保三年 熊川清四郎力士 十一月十九日角力中」と刻まれた自然石の碑がある。次がその資料。
三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.126 平成4年11月 郷土誌余聞「その35 力士の記念碑」。元郷土誌編纂委員長高崎市郎先生の稿。話はまとめられ三和公民館蔵書に、高崎市郎先生の「ふるさとものがたり」としてある。

…一坪程の台座替りの石垣の上に約ニメートル程の自然石が建てられ、苔むしたその石碑には「天保三年 熊川清四郎力士 十一月十九日角力中」としてあり今より百六十年も昔のことである。蘇鉄を植え込んだこの場所も草茫々として初めての者には見逃す程の有様である。
部落の人々には相撲取りの墓と呼んでいるようであるが墓とはしてない。熊川は本名でなくて川原と脇岬の村境が熊川であるのでその地名を四股名にしたのではなかったのだろうか。
天保時代には百姓町人などは姓が許されておらず、ただ名のみであったことを思えば、この力士にも住所氏名がはっきりした文書も無く又、この人の素性もわからない。然し角力中でこの碑を建てたことは、この力士が力量は勿論の事、人格的も余程尊敬に値したものも思われる。
百六十年後の今日迄この碑が人々の手によって保存されることに地元民の心根を嬉しく思った。この場所は昔の人々がいつも通った「みさき道」の東側の本街道であった。…

この稿は「みさき道」に関係するため、研究レポート”江戸期の「みさき道」”第2集22頁及び第3集34・53頁に資料として載せている。
天保3年というと1831年。出島で古写真が撮影された1860年と29年の隔たりがある。天保3年を生年月日と考えると、一番力量があった年代のようだ。引退後、万延元年(1860)親方として、四股名を継いだ大関力士とともに出島へ出かけたこともあり得るだろう。

熊川は野母崎ゴルフ場ニノ岳近く、展望台がある熊ノ岳(288.4m)に源を発する。旧三和町と野母崎町の町境を天草灘へ流れ、このため熊川の名となったのだろう。
古写真に残った「熊川」力士が、石碑の不明な人物とはたして同一人かわからないが、この力士が地元出身であって、力量はもちろんの事、人格的もよほど尊敬に値した人だったことを、地元として切に願う。高崎先生に生前、歴史的な撮影の出来事を知らせ、古写真を見せていたら、どんなに喜ばれたことだろう。
熊ノ岳風景は三和の散策(10)参照。 https://misakimichi.com/archives/1721

(追 記 2012年2月3日)
この古写真の力士は、HP「相撲の史跡・好角土俵 好角家・相撲史研究者たちの情報」
http://sumou-shiseki.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/ を参照。
幕末の大坂相撲、肥後出身「熊川熊次郎」ではないかと思うとの、見解の記事が載っていた。

2010年11月19日 (金) 熊 川
長崎大学付属図書館の幕末・明治期日本古写真メタデータ・データペースを“相撲”で検索すると、19点、“角力”でプラス1点出てくるが、同じ場面のものもある。
『龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港』(朝日選書)には、「1860年の相撲取り」と題して、大関熊川一行の写真が紹介されている。大学のデータベースでは撮影者ミルトン・ミラーとなっているが、本の方はロシェとなっている。この件についてはブログ「みさき道人」をごらんください。
このブログには相撲取りの墓がしばしば紹介されているが、長崎市川原町にある天保三年 熊川清四郎力士 十一月十九日角力中」の碑の主が関係あるのかもしれないと推察されている。
下がりを着けたまわし、塩を持った弟子などを見ると、幕末の大坂相撲、肥後出身熊川熊次郎ではないかと思う。

朝日選書 152P写真  63 人力車に乗る芸子衆

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朝日選書 152P写真  63 人力車に乗る芸子衆

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 152P写真  63 人力車に乗る芸子衆

諏訪神社近くの長崎公園で人力車に乗る4人の芸子衆。長崎公園は1863年に長崎で初めての公園となった。 
撮影者不詳、1897年ごろ、鶏卵紙、25.1×20.2、手彩色

〔解説記事 150P〕  人力車に乗る芸子衆
1897年ごろ、諏訪神社近くの長崎公園(通称は諏訪公園)で人力車に乗る芸子衆です(写真
63)。当時の人力車の構造や俥(くるま)屋の服装、女性の装束・髪形などがわかります。
人力車は明治時代のタクシーでした。1870年に佐賀の和泉要助らが「車付きの西洋腰掛け台」として東京府に出願したのが始まりで、あっという間に全国の大八車や駕籠に取って代わりました。時速は8〜10キロぐらいで、歩く速さの2倍程度です。車輪にゴムのタイヤが付くのは
1900年代以降でした。

長崎公園は1873年の太政官布告により制定された長崎で最も古い公園です。中心市街地にありながら、自然に囲まれた閑静な雰囲気のある憩の場として親しまれています。
ここは江戸時代、安禅寺という寺があり、1672年には長崎奉行の牛込忠左衛門が東照宮を祀りました。この本殿は現存しています。

左の奥に見える石碑は元禄期(1700年前後)に長崎を訪れたオランダ商館付きの医師たち、すなわち『日本誌』を著して啓蒙期のヨーロッパに日本の正確な情報を伝えたドイツ人エンゲルベルト・ケンペル、スェーデン人のカール・フォン・リンネの弟子として植物学者でもあったカール・ペーテル・テュンべり、大著『日本』を出版し、日本でも多くの門人を育てたフランツ・フォン・シーボルトといった「出島三賢人の碑」です。これは現在長崎歴史文化博物館の裏に移設されています。明治の写真に写し出された景色にはまだ人工物に侵されない人間と自然の調和が見られます。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:4719「諏訪公園と人力車に乗る女性たち(1)」の古写真。解説は次のとおり。
現日本銀行横の長崎公園(通称:諏訪公園)入口から登り、県立長崎図書館前を右に折れケンペル・ツンベリー及びシーボルトの記念碑の前を通って、中央に葵の紋が入った石造りの門を潜ると公園の丸馬場(安禅寺跡)である。写真は、明治を代表する人力車に芸子衆が乗る公園の広場「丸馬場」の風景である。奥に東照宮へ行く階段と鳥居が見える。…

同データベースには、目録番号:5101「諏訪公園三賢人の碑」の古写真もあり、解説は次のとおり。
明治後期から大正期(1870〜1920)の手彩色の絵葉書。諏訪公園の入り口にシーボルトの記念碑があり、その横に、ケンペル、ツンベルクの碑が並んでいる。これらの碑は、シーボルトが出島の花畑に建てたものを、ここに移設したものである。

現在「出島三賢人の碑」は、長崎県立図書館の正門右側、長崎公園(通称:諏訪公園)入口にある。古写真に写っている縦長の石碑は、「施福多(シーボルト)君記念碑 日本の近代化に貢献したドイツ人(1796−1866) 明治12年(1879)建立」である。

朝日選書及びデータベースの解説は、それぞれ記していることが違い理解しにくい。朝日選書の解説記事について言うと、大したことではないが、次を指摘したい。
(1)長崎公園ができたのを、写真下の解説では「1863年」と記している。太政官布告の明治6年「1873年」の誤まりのようである。
(2)出島三賢人の来日年は、ケンペルは元禄3年(1690)、テュンべり(通常の表記は「ツンベルグ」)は安永4年(1775)、シーボルトは文政6年(1823)。
「元禄期(1700年前後)に長崎を訪れたオランダ商館付きの医師たち、すなわち…」とは続かない。
(3)出島三賢人の碑は「現在長崎歴史文化博物館の裏に移設されています」とある。古写真上では長崎公園丸馬場から、公園入口に移設されただけのようである。
「現在長崎県立図書館側の公園入口に移設されています」で良いのではないか。
(4)最後の写真は、古写真の撮影場所と思われる公園の丸馬場あたり。ここに三賢人の碑が一時あったのか、再確認をお願いしたい。
手彩色の絵葉書を見ると、現在の公園入口に最初から設置されたように見える。

朝日選書 136P写真  57 茂木海岸の町並み

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朝日選書 136P写真  57 茂木海岸の町並み

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 136P写真  57 茂木海岸の町並み

幕末に外国人の遊歩が認められ、海水浴場やホテルがあった長崎郊外茂木海岸付近。外国人はここから船で雲仙に渡った。 
撮影者不詳、1886年ごろ、鶏卵紙、25.8×19.9

〔解説記事 134P〕  茂木の海岸
1886年ごろの茂木村(現在の長崎市茂木町)です(写真57)。干潟が広がる浜には網の干場と伝馬船と呼ばれた小舟が見え、家並みには藁ぶき屋根が交じり、江戸時代の村の様子を残しています。1901年には中央に突き出した岬に、小浜、雲仙へと渡る船の桟橋ができました。海岸線は21年に埋め立てられ、今は県道34号が通っています。
茂木の歴史は古く、大村純忠が1580年、長崎とともにイエズス会に寄進しました。このときの契約書は長崎歴史文化博物館に所蔵されています。

江戸時代、出島のオランダ人は茂木まで遊歩が許されていました。このため、茂木では洋食の文化が先取りされ、明治時代には外国人の行楽や海水浴のためにホテルが建てられました。
岬中央の茂みに白く見える建物は、茂木の旧庄屋屋敷です。1906年、前に紹介した天草生れの道永栄が、外国人相手の茂木長崎ホテルをここに建てました。
茂木には若菜川の河口を利用した良港があります。小浜、島原、熊本、天草だけでなく、鹿児島、柳川、佐賀と結ばれ、交通の要所でした。水揚げされた鮮魚は、長崎の台所を支えただけではありません。現在でも京名物の鱧(はも)は茂木産が多いというから驚きです。

■確認結果

岬中央の茂みに白く見える建物を拡大してみる。たしかに茂木村の旧庄屋屋敷だろう。古写真下の解説図では、この建物を「茂木長崎ホテル」と表示し、解説記事では1906年、道永栄がこのホテルを初めて建てたように読まれる。
1886年ごろの撮影だから、この建物について年代に合った補足が必要なようだ。
解説図の「現在県道のある場所」も、前面茂木漁港の埋め立てにより少し変っているのではないだろうか。現在の写真は、玉台寺背後の高台墓地から写した。

長崎市立博物館編「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年刊の28頁による解説を載せる。
「…安政2年(1855)当時の庄屋は森岡豊左衛門で、リンデン伯もこの豊左衛門を訪問している。リンデン伯はその「日本の思い出」のなかで、食堂のような部屋で夕食をご馳走になったが、その部屋からは、一方には海、他方には村の美しい風景が望まれたと記述している。
同宅跡は、その後茂木ホテルが建てられたが、明治39年道永栄が買収、ビーチホテルと改称、戦前までは外国人達の格好の保養所として賑わった」

私の以前の記事は、次を参照。茂木ホテルと言われたのは、若菜川河口弁天崎(後のビーチホテル)と、潮見崎新田(後の松柏楼)に2つあったのが知られていなく、混同された古写真解説が多い。茂木村の旧庄屋屋敷の建物はこれでないだろうか。
道永エイの方の茂木ホテルの貴重な古写真は、裳着神社の拝殿に飾ってあった。「道永エイ」と刻んだ寄進石が境内に残っている。
https://misakimichi.com/archives/1535
https://misakimichi.com/archives/1818

朝日選書「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」が出版

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朝日選書「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」が出版

朝日新聞長崎県内版の連載「長崎今昔」を1冊にまとめた朝日選書「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」が出版された。
国内最大級とされる長崎大学の古写真コレクションから、坂本龍馬が長崎で活躍した時代を中心に、1860年〜大正後期の80枚を越える写真を取り上げている。

「龍馬が見た長崎」は朝日新聞出版刊。四六判216㌻。税込み1470円。お求めは書店かASA(朝日新聞販売所)で。
以上、きよう2009年12月17日付同紙面記事(クリック拡大)から出版を紹介する。

本書の古写真解説において、数作品の撮影場所の説明など疑問とする点を現在、順次調査中。本ブログ記事にしている。
きようの記事にある「②1869年ごろ撮影された中島川」の確認結果は、上の現地写真のとおり。背景の山、右から烽火山、健山、帆場岳(三つ山)、金比羅山(東尾根。立山ではない)より、解説にある奥の橋は、「長久橋」(中島川変流前の当時の橋)に間違いないことをすでに確認している。

朝日選書 40P写真  11 新大橋から中島川上流を望む

外国人の遊歩道として中島川河口に架かった新大橋から上流を写す。奥の長久橋には鉄橋見物の人が群がっている。
1869年ごろ、鶏卵紙、23.5×20.0、『スチルフリード・アルバム』
(詳しい解説記事は、同書38P 略) 

小長井のかき焼きと県界ウオーキング  平成21年12月

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小長井のかき焼きと県界ウオーキング  平成21年12月

平成21年12月15日(火)曇り。小長井のかき焼きと県界ウオーキング。木林(もくりん)会の恒例行事。参加20人。お世話になりました。
長崎駅8時36分発ーJRー湯江駅ーバスー小長井駅前ー県界小長井漁協直売店かき小屋(昼食)ー県界ー太良町今里のオガタマノキー竹崎街道で釜へ出るー土井崎ーバスー諫早駅ーJR−長崎駅16時02分着(徒歩距離 約6km)

JRと県営バスを乗り継いで小長井駅前まで行き、佐賀県との県界手前の小長井漁協直売店かき焼小屋まで約3km歩く。途中の山は毘沙天岳(標高161.4m)と諫早湾を隔てて見える雲仙の山。
笑ってコラえて!ダーツの旅に出たかき小屋。天候不順等により小長井産かきは今のところ小ぶりらしい。エビ、イカ、アジの干物、カマボコ、シイタケも、たくさん焼いて食べたが安かった。

昼から天気が持ち直し、県界橋奥の集落、佐賀県太良町今里へオガタマノキの大木を訪ねる。さが名木100選の木ではないが、多良山麓の広々とした所に立ち、樹形が良い。
この木の場所は次を参照。  https://misakimichi.com/archives/753
バスの時刻まで間があり、旧道を土井崎バス停まで歩いた。

朝日選書 124P写真  51 ねずみ島のピクニック

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朝日選書 124P写真  51 ねずみ島のピクニック

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 124P写真  51 ねずみ島のピクニック

長崎在留外国人の郊外ピクニックで、背後に乗ってきた船のマストが見える。中央に寝そべるグラバーはライフルを持ち、警護のサムライも交わる。着飾った子供や女性もいる。
ベアト撮影、1866年ごろ、鶏卵紙、29.3×19.1

〔解説記事 122P〕  ねずみ島のピクニック
長崎港口のねずみ島で撮影された居留地に住む外国人のピクニックの記念写真です(写真
51)。このとき長崎に滞在中で、たまたま同行したベアトが撮影しました。背後には乗ってきた船のマストが写されています。
1854年9月7日、日英和親条約を結ぶために長崎に入港したジェイムズ・スターリング提督率いるイギリスの東洋艦隊は水夫の休養のためみずみ島上陸を要求し、長崎奉行荒尾成充はこれを許可しました。10月14日には長崎で日英和親条約が締結されています。イギリス領事は1859年以来、5月24日のヴィクトリア女王の誕生日を記念して居留地のヨーロッパ人をピクニックに誘うことを恒例としていましたが、この写真は1866年のピクニックのようです。
中央で寝そべるトーマス・グラバーのひざの上にライフル銃が見えます。その右後ろに座るのがアントニウス・ボードイン博士です。弟でオランダ領事をしていたアルバート・ボードインは後方の右に立っている口ひげの人物です。このとき長崎の居留地に住んでいた大部分の人たちがこれに参加したのではないでしょうか。
ちょんまげ顔の日本人は警護のサムライですが、記念写真では集団のなかにうち解けています。攘夷をとなえる「テロリスト」の外国人襲撃を警戒しながらの危険なピクニックでしたが、たくさんの女性や子供たちも交じり、楽しみな行事だったようです。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6195 「ねずみ島のピクニック(1)」の作品。超高精細画像がなく「背後に乗ってきた船のマストが見える」が良く確認できないが、本の古写真には、たしかに背後に大きな船のマストが2本、かすかに写っている。

私の以前の記事は、次を参照。目録番号:3885 「外国人の野外パーティ(3)」(朝日選書108P 42 ヴィクトリア女王在位60年記念パーティ と同写真)などとともにふれている。
https://misakimichi.com/archives/1873

「ねずみ島」は安政年間から外国人の遊歩が認められていた島なので、これら古写真の撮影場所は「ねずみ島」に間違いないと思われる。背景の各島や山の姿から確認している。
神の島や神崎鼻では、外国人の遊歩規定がほとんど考慮されていないこととなる。
朝日選書は今回、42・51の作品とも「ねずみ島」として解説されたので、了とした。

ところで、幕末・明治期日本古写真データベースの超高精細画像解説の方。以前は撮影場所を「神の島」と解説していた。指摘により修正されたのは良いが、どうして「場所は後の高鉾島の角度から神崎鼻」と判断されたのだろう。
目録番号:3885 「外国人の野外パーティ(3)」などは、まだ「神崎鼻」のままとなっている。

朝日選書 117P写真  47 和船と稲佐崎

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朝日選書 117P写真  47 和船と稲佐崎

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 117P写真  47 和船と稲佐崎

長崎の対岸、稲佐の入り江(船津浦)の船溜り。稲佐崎の左の家屋はロシア人上陸場で右は取締勤番所。丘の上は止宿場であった。
上野彦馬撮影、1874年、鶏卵紙、26.7×19.7、『上野彦馬明治初期アルバム』

〔解説記事 114P〕  趣ある稲佐崎の伝馬船
1874年に写真家の上野彦馬が撮った長崎の対岸、稲佐崎の伝馬船です(写真47)。場所は現在長崎港の奥に架かる旭大橋のつけ根あたりです。
ここに船を浮かべて撮影すると古い日本画のような趣となるためか、外国人写真家フェリクス・ベアトも1864年に長崎を訪れたとき、このアングルで船遊びを撮影しました。彦馬の弟子で東京に出て写真家として成功した内田九一も、1872年に明治天皇の西国巡行に随行したとき、ここで同じ構図で撮影しています。
右端には遠洋を走る「弁才船」(千石船)も見えています。伝馬船上では、3人の船頭が船具を動かす瞬間が見事にとらえられています。風と波のないときを見計らって、絶妙なタイミングでポーズをとらせた写真です。
江戸時代の古地図を見ると稲佐崎には建物がなかったのですが、この写真では瓦屋根の建物が目立ちます。右奥には長崎市街も見えています。
丘の上一帯は「稲佐のロシア人居留場」です。1893年11月にはこの岬の丘の上に稲佐のお栄と呼ばれた道永栄が、ロシア人相手の「ホテル・ヴェスナー(ヴェスナーは春の意)」を建てます。海岸にはそこに登る桟橋が築かれます。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5310 「稲佐海岸」の作品。超高精細画像解説で場所説明は変えているが、タイトルがまだ「長崎湾水の浦」のままなのは?
私の以前の記事は、「長崎の幕末・明治期古写真考(2)」ほか多くの記事でふれている。
https://misakimichi.com/archives/654 ほかを参照。

撮影場所を読者にわかりやすくするため、「現在長崎港の奥に架かる旭大橋のつけ根あたりです」と説明したと思われるが、そこは「志賀の波止」となる。
「志賀の波止」はこの古写真の稲佐崎の岬の裏側の入り江で、正しい撮影場所の「船津浦」船溜りとはまったく違う場所を理解される。

後掲するが、朝日選書188Pに1864年ごろベアト撮影の「81 稲佐崎の和船とロシアの止宿所」がある。解説記事186Pでは、撮影場所を「現在の稲佐の三菱電機工場横の丸尾公園あたりから朝日町(「旭町」が正)商店街あたりを撮っています。この入り江は埋め立てられて今は昔の面影がありません」としている。
同じ入り江「船津浦」の撮影であり、撮影場所の説明は後者に合わせてよいのではないか。

ウーパーちゃん?  眼鏡橋近くのおもしろ石

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ウーパーちゃん?  眼鏡橋近くのおもしろ石

発見者の長崎・中島川石橋群と眼鏡橋 http://isidatami.sakura.ne.jp/isibasigun1.html 参照。

これ、ウーパールーパーに似ていない?
ウーパールーパーに似た石を眼鏡橋下の石崖で見つけました。【 眼鏡橋下の川岸(唐僧・黙子如定像下付近)】 
眼鏡橋のハートの石(3個)と共に観光の人気ものの石にしたいと思います。
※ ウーパーちゃんと名前をつけておきます。2009.11.20

ウーパールーパーは、1980年頃に、愛くるしい顔から一躍人気者となり、今なお人気のサンショウウオの仲間です。現在では個体数が少なく、絶滅の恐れのある野生動物、植物を保護することを目的とした条約、ワシントン条約(CITES)にリストされています。ということは、ウーパールーパーの野生体は絶滅の可能性があるということです。
生息地:メキシコのソチミル湖、または周辺など。

ハート石は、眼鏡橋と魚市橋の左川岸(寺町側)の石組みのなかにハート型の石(魚市橋側の階段を下りる)が3個埋め込まれている、と紹介しているが、HP「眼鏡橋日記」のマニアの人の調査によると、辺りの両岸などで現在19個が確認されている。
(番外6)ハート石の謎 http://f-makuramoto.com/30-megane/ex06/ex06.html 参照。

後ろの写真は、近くで私が見かけた外のウーパー石4個、眼鏡橋に投げられたコイン、袋橋下に今も残る船繋ぎ石、観光通り角居酒屋の石臼「磨屋校」(旧磨屋小学校?)。