月別アーカイブ: 2009年12月

三和町 今昔  (5) 川原木場海岸の蛇紋石

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三和町 今昔  (5) 川原木場海岸の蛇紋石

旧三和町文化協会写真クラブ編「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊写真集の掲載古写真について、5点を抽出する。
これは、タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真というわけではない。話題性がある古写真の、現地確認などの結果を報告する。

54頁  〔写真説明〕   蛇 紋 石
川原海岸の蛇紋石はだれでもしっている。しかしこの石がどうして川原海岸にだけあるのかそれを説明する人はいない。この写真は川原木場の海岸で町境から150mほど野母崎町に入った所です。3階建のビルほどもある大きな岩、山肌から海の底の岩までがみんな蛇紋岩である。ここの石が川原海岸に流れたかどうかは別にして、蛇紋岩のもとはここにはある。

■確認結果

この大石の写真は、「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊でなく、「三和町 今昔」(Part2)平成2年11月刊の写真集54頁に掲載がある。珍しい自然の造物。
旧野母崎町との町境というと、県道34号線の川原木場公民館前バス停から少し先に「堺橋」がある。川は熊ノ岳から流れる「熊川」。橋名のとおり川が境界で海岸へ下るが、車は川沿いや集落内の道からは行けない。

川原木場バス停に戻り、海星グランドの方の道を300mほど行くと、カーブミラーの所へ海岸へ下る急な車道がある。海岸へ降りて車を置き、海沿いの防波堤の道を終点まで歩くと、熊川がここに流れ落ち、古写真の蛇紋岩の大石が先に見える。
この辺りは一面、蛇紋岩の大断崖となっており、樺島や天草が半島のように見える絶景の海岸。ずいぶん先まで行った。写真をじっくり見てもらう。

蛇紋岩は、岩石の緑黒色の脂感が蛇の色を思わせるところからつけられた岩石名。全国に連続的に点在し、岩石は極めて珍しいというわけではないが、海岸付近の露出は少なく、しかも蛇紋岩だけで構成された礫浜は、日本でも外にほとんどなく、美しい。(三和町郷土誌)

長崎の古写真考 目録番号:5378 眼鏡橋(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5378 眼鏡橋(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。

目録番号:5378 眼鏡橋(1)

〔画像解説〕
眼鏡橋は、寛永11年(1634)旧町名の酒屋町と西古川町(現栄町-古川町)間に興福寺第2代住持である唐僧「黙子如定(もくすにょじょう)」によって架設された我が国最初の唐風石橋である。長さ23.2m、幅4.7m、橋面までの高さ5.46mで中央に束柱のあるアーチ石橋である。現在は重要文化財に指定されている。眼鏡橋の建設は、その後中島川の各通りに次々と唐風石橋が架設される契機となった。江戸の日本橋、岩国の錦帯橋とともに日本三大橋の一つに数えられている。記録によれば、正保4年(1647)の洪水で崩落し、慶安元年(1648)平戸の僧好夢が一度修築したと伝えられる。その後中島川は数度の洪水を起こしているが、橋は破損しても崩落することはなかった。昭和57年(1982)の長崎大水害では、橋のアーチ部分上部を流失するという大被害を受けたが、元の橋に復元され、今も中島川の水面に眼鏡のような双円の美しい橋影を映している。

目録番号:6662 眼鏡橋(3)

■確認結果

きよう朝日新聞長崎地域版2009年12月10日付の「長崎今昔 長大写真コレクション」に目録番号:5378「眼鏡橋(1)」の古写真が掲載された。上記の超高精細画像による解説には問題はない。ところで新聞記事の解説内容である。後段に「後方左の高い山は彦山です」と説明を付け加えている。

目録番号:5378「眼鏡橋(1)」と目録番号:6662「眼鏡橋(3)」の背景の山を見てもらいたい。眼鏡橋を下流側から上流を向いて撮影した古写真である。東方は風頭山の稜線であり、その奥にある彦山は眼鏡橋からは見えない。

古写真の背景の山は、眼鏡橋が架かる中島川の上流北方、右から武功山、そして尾根が続く最も高い山は烽火山(標高426m)、左へ下って健山と思われる。
新聞記事とするなら、現地確認を再三、お願いしているが、どうしたことだろうか。
満潮時の水深は、すぐ上流に魚市橋の名が残る最初の時代の魚市があったし、桃渓橋近く二股の所まであって、船の写真が写っている。(二股と桃渓橋 目録番号:6050 上野彦馬撮影)

三和町 今昔  (4) 宮崎橋とせんたく石のこと

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三和町 今昔  (4) 宮崎橋とせんたく石のこと

旧三和町文化協会写真クラブ編「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊写真集の掲載古写真について、5点を抽出する。
これは、タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真というわけではない。話題性がある古写真の、現地確認などの結果を報告する。

17頁  〔写真説明〕   宮崎橋とせんたく石のこと
宮崎橋が木造だったころは川の中心に柱が建っていた。この柱は流れて来たゴミがひっかかり、橋の下はくぼ地になって魚の住みかになっていた。フナ、ハイネ(ハヤ)、ラックウ(ザリガニ)など子供の最高のつり場でした。
橋より20mほど下流、(工事中の仮橋の根元付近)には大きな板石があった。宮崎部落の洗たく場になっており、五、六人の人がならんで洗たくしていた。各家庭に洗濯機がはいってくるまでこの洗たく石は使われていた。

■確認結果

川原本村から台場があった蛭子崎を回ると県道は下りとなり、宮崎川を宮崎橋で渡り宮崎集落へ入る。現在の宮崎橋は、「昭和57年7月」架と銘板がある。
古写真は昭和30年頃からの宮崎橋の変遷を写している。2枚目の工事途中の古写真は「昭和57年ごろ」が正しいようである。

明治時代の「川原道」については、昭和58年3月長崎県教育委員会発行の長崎県文化財調査報告書第63集「橘湾の漁労習俗」(香焼図書館に蔵書あり)交通の項に、地元古老から聴き取った話として記述があり、次のとおり「三和町郷土誌」陸上の交通458頁が引用している。
同頁には、川原道のほか蚊焼道、布巻道、藤田尾道、千々道、深堀道の引用文がある。

(一)川原道
年崎のホリ首の丘を通り、川原本郷へでる。えべす坂を越え、モウタレ川(宮崎川)三間ま申の石橋を渡り、宮崎へ入る約三・五キロの道をいう。
石橋は郷土誌編集員の高崎市郎先生に生前、話を確かめたことがあるが、簡単な桁橋だったそうである。

ところで私の探しものは「洗たく石」。長靴を履いて干潮時、宮崎橋下の川に行ってみた。川底はブルドーザーで均され、「洗たく石」は完全になくなっているが、写真の通り一部、痕跡を残しているよう岩面が川底にあった。

近くの奥さんに聞くと、やはり数人が同時に洗たくできた大きな板石(岩)だった。川の工事で壊され、後はどうなったか判らないそうである。
「モウタレ川(宮崎川)三間ま申の石橋」も、この「洗たく石」(岩)を飛び石渡りした程度のものではなかろうか。

三和町 今昔  (3) 川原大池、小池

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三和町 今昔  (3) 川原大池、小池

旧三和町文化協会写真クラブ編「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊写真集の掲載古写真について、5点を抽出する。
これは、タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真というわけではない。話題性がある古写真の、現地確認などの結果を報告する。

13頁  〔写真説明〕   大池、小池の航空写真

■確認結果

阿池姫の伝説にまつわる神秘性をもつ川原大池。入口が塞がれた海跡湖である。野母半島県立自然公園に属し、長崎県観光百選の地。航空写真は、昭和40年代の撮影と思われる。
ご覧のとおり、川原大池のそばに小池があった。水路はなかったが、地下では繋がっていたようである。小池のことは、ヘラブナ釣りで私も記憶がある。

小池はその後に埋め立てられ、永年、遊休地となっていた。平成16年(2004)、牟田尻地区の小池跡奥に、まず町営住宅(戸数20戸)が完成。同年、地盤が弱い小池跡には「三和記念公園」が建設された。中央にビオトークがある公園となっている。

昔の大池と小池の間は、軟弱な葦の原だったと思われる。明治時代の脇岬村路(往時の川原回り「みさき道」の経路と推定)は、そのため宮崎の集落からこの小池の北岸を通り、川原木場へ向かっていた。
現在、三和公民館ホール中庭に展示している「明治三十二年十一月建」道標は、もともと小池上の高濱村路との分岐に立っていた標石である。明治34年測図の国土地理院旧版地図を掲げる。この項は次も参照。 https://misakimichi.com/archives/23

最後の写真は、川原秋葉山神社の中腹農道途中から川原大池と小池跡の遠望。沖は天草。
川原大池は次の風景の項を。 https://misakimichi.com/archives/1719

三和町 今昔  (2) 宮崎海岸(川原海水浴場)

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三和町 今昔  (2) 宮崎海岸(川原海水浴場)

旧三和町文化協会写真クラブ編「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊写真集の掲載古写真について、5点を抽出する。
これは、タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真というわけではない。話題性がある古写真の、現地確認などの結果を報告する。

11頁  〔写真説明〕   宮崎海岸
宮崎の海岸には松の木が多かった。小学校の運動場が広くなる前は運動場から海岸までの間を松林と言っていた。その松も昭和40年ごろまでは1本か2本は残っていたのをおぼえています。
上 段:昔の宮崎海岸(川原海水浴場付近)    下 段:現在の宮崎海岸

■確認結果

川原海水浴場は阿池姫の伝説にまつわる神秘性をもつ川原大池と公園を有し、長崎県観光百選の地でもある。長崎市立川原小学校がそばにある。
町制施行50周年記念誌○長崎県三和町「さんわの足跡 1955−2004」平成16年11月刊の20頁に同古写真の掲載があり、上段の写真の撮影は「昭和20年代」となっている。
説明は次のとおり。

昭和25年川原海水浴場が開設され、これに伴い同年5月7日から長崎バスは1日14本がすべて川原発になりました。
昭和30年の町村合併の際には、休憩所(桟敷)8棟、店舗1店があり、川原観光協会事務所が開設。昭和41年ごろのシーズン行事として、7月1日に海開き、8月上旬には西瓜流し、中旬にはサザエ拾い、下旬には日焼けコンテストなどが行われていました。桟敷の料金は中学生以上1人100円、小人50円でした。

同足跡も現在の対比写真を掲載しているが、川原海水浴場の蛇紋岩円れき浜が砂にかぶり、施設が現在のように整備された年代は、年表を見ても特に記していない。

三和町 今昔  (1) やなん尻の石倉

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三和町 今昔  (1) やなん尻の石倉

旧三和町文化協会写真クラブ編「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊写真集の掲載古写真について、5点を抽出する。
これは、タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真というわけではない。話題性がある古写真の、現地確認などの結果を報告する。

10頁  〔写真説明〕   やなん尻の石倉
宮崎の海水浴場から先を、やなん尻(しり)という。そこには大池の出口があり、石で作った家(地元では石倉という)があり、海岸は磯場として最も人気があった。
今は防波堤ができ魚釣りの名所になっている。石倉は現在も一棟残っている。
上 段:石 倉    下 段:昭和30年ころの石倉とやなん尻海岸

■確認結果

長崎の漁村の海岸に昔、よくあった石倉。川原(宮崎)海水浴場の南側となる「やなん尻」という磯場に、写真集発行の平成元年頃、1棟が残っていることを写している。
「やなん尻」とは、川原大池出口の橋を渡った先。上段の残った石倉は、下段の昭和30年頃の写真と比べると、建物の向きは違うが、橋を渡ってすぐの角の敷地一帯のようである。背景の山並みを対照。

平成21年の現在、この場所へ行っても今は何もない。石倉ほか屋敷は全部解かれ、野菜畑となっている。石倉の残ったような石の数個を、かろうじて道路との角石に見るくらいである。
野菜畑のまだ奥にも広い平らな別の畑地があり、真ん中に1棟の倉庫があるが、蔦が這ったトタン小屋であった。大池出口の橋は、近代的な排水門を兼ねた橋に変っている。

あづまの里から裏雲仙の鉢巻山へ  平成21年12月

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あづまの里から裏雲仙の鉢巻山へ  平成21年12月

平成21年12月6日(日)曇り。あづまの里から裏雲仙の「鉢巻山」(標高631.8m)に登り、九州自然歩道へ下る。10月下見したコース。参加8人。車3台で出発。
あづまの里10時発—万里の長城—鉢巻山(昼食)ー吾妻岳鞍部大だまり—九州自然歩道—あづまの里14時20分着(徒歩距離 約8km)

「鉢巻山」は裏雲仙の吾妻岳西方にあるピーク。愛野展望台交差点を直進、県道58号線へ入る。「牧場の里あづま」の案内標識があり、牧場入口の駐車場に車を置いて歩き出す。
牧場内の高台に「万里の長城」展望台がある。長城奧の終点が「鉢巻山」登山道の入口。正面に鉢巻山の山頂が見え、「千々石断層」の上を登って行く。雑木林の尾根道で展望がないが、途中1箇所に展望岩場がある。

これを越すと、最後の急な登り。山頂近く100m手前の地点で、ロープに沿って右へ入る。奥の岩場上が、山頂に代わる絶景のポイント。高度感がある場所で、多良山系、諫早湾と橘湾が一望できる。九千部岳奥の雲仙の山々は霧氷がついていた。
「あづまの里」からゆっくりと1時間半で鉢巻山の山頂へ着いた。山頂は三角点のみで、景観はまったく望めない。

日当りがある林内で昼食後、吾妻岳との鞍部大だまりへ向けて下る。急傾斜のガレで道がわかりにくいが、テープに注意する。「大だまり」まで下ると、朝霧の「←吾妻岳 自然歩道→」標識がある。猪垣を越え、鉢巻山の山腹を巻き気味にさらに20分ほど下ると、弘法原ー田代原間の九州自然歩道中間位に出る。鉢巻山の一周コースとなり、あづまの里駐車場へ戻った。

宮さんの参加ブログ記事は、http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/22579777.html

長崎の西の空の夕日  09−25

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長崎の西の空の夕日  09−25

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 4  平成21年12月 4日の17時25分頃から
写真  5〜 7  平成21年12月 4日の22時51分頃から 漁り火

トトロ? バス停とクリスマスイルミネーション

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トトロ? バス停とクリスマスイルミネーション

川原大池へ行く長崎市南部、川原町の長崎バス「川原本村」バス停。川原地区公民館隣の「コンビニエンスOHTA」前にトトロがいる。
トトロの写真は、本年3月に紹介済み (https://misakimichi.com/archives/1661
だが、建物のクリスマスイルミネーションも凝っている。

あとの写真は、次の宮崎町「宮崎」バス停そばと、晴海台町の団地上9街区角の家のイルミネーション。

茂木地区のイチョウの大木  長崎市千々町・茂木町

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茂木地区のイチョウの大木  長崎市千々町・茂木町

長崎の紅葉も見頃を過ぎてきた。きのうは快晴。為石から県道34号野母港宿線により網場まで行く。千々町と茂木町に、次のイチョウの大木がある。
昨年12月載せたが、時期はずれの裸の木でお粗末すぎた。鮮やかな黄色の葉に撮り直しである。

茂木玉台寺のイチョウは、私が見たところ長崎市内一の大木。市指定天然記念物の寺町大音寺墓地のより大きいと思われる。茂木の町並み、港とともに、寺後ろの墓地高台から写したかった。玉台寺は毎日、庭を丹念に掃いているから、黄色の絨毯は無理だった。
裳着神社の木と「夫婦銀杏」と言われる茂木史談による話は、以前の記事を。それぞれからツーショット。

茂木小学校のは、木に登って遊んだというコメントをもらっていた。この木だろうか。若菜川河口へ行くと、4年生が「EM菌」(有機微生物群。ヘドロ中の有害物質を浄化し水質を向上させ悪臭も抑える効果があるとされる)の土団子を干潟に埋めていた。大悲魚濫観音祭りは、12月4日。

写真  1〜  4    千々町 四国茂木60番札所裏のイチョウ
千々川岸。背景は小八郎岳下の猿岳(秋葉山)。幹囲は3mはある。

写真  5〜  6    茂木町 立石海岸と茂木港沖防波堤
沖防波堤に釣り人多数が上がっている。霞むのは雲仙と島原半島。

写真  7〜 13    玉台寺のイチョウ
幹囲は4.7mほど、20m以上の大木。前記事は次を参照。      
https://misakimichi.com/archives/1514
https://misakimichi.com/archives/1524 (夫婦銀杏)

写真 14〜 16    裳着神社のイチョウ
幹囲は3mほどだが名木。神社は史跡の項を参照。
https://misakimichi.com/archives/1515

写真 17〜 18    長崎市立茂木小学校のイチョウ

写真 19〜 21    若菜川河口干潟、魚濫観音堂