月別アーカイブ: 2008年3月

大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚の調査

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大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚の調査

西彼杵半島外海地方の藩境石塚の所在については、これまでこの項や川上氏寄稿により調査の一部を紹介している。
今回調査したのは、大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚で、「深入の辻」の傍爾石と「ヘン岳」の塚。地元も関心を持って探してくれており、平成20年3月22日、川上、中尾、私が訪ねた。案内してくれたのは、前外海こども博物館長松川先生と地元の高橋さん。

この2箇所の藩境石塚のことは、藤野保編「大村郷村記」第六巻(図書刊行会 昭和57年)98〜99頁の黒崎村「當領佐嘉領大境并傍爾石之事」出津郷の中に、次のとおり記している。

牧野内平より同所頭出津郷へんたけ、夫より同郷白木迄
一大塚七拾五 内貳ツ舫塚
出津郷白木終舫大塚見渡建石より白木頭、夫より同所大さこ赤首中道境ニ終る
一建石四拾六
小城海手初の塚より深入之辻迄
一大塚貳拾四、内壹ツ傍爾石、深入之辻ニ建
傍爾石銘文
従是 東南佐嘉領 西北大村領  末ニ向

「深入之辻」とは、現東出津町の道の駅「夕日が丘そとめ」国道反対側をやや登った高台である。黒崎中学校から行く方が道がはっきりしている。写真のとおりの藩境石(傍爾石)があった。
次に、現西出津町の「ヘン岳」(漢字では小字あり「変岳」と書く)に向かった。出津教会上の道を進み、この背後の小高い山。奥の民家手前にドロ神父井戸があり、尾根に上がると、神父が拓いたという広い畑があった。

「ヘン岳」ピークを目指し、雑木の尾根を南へたどる。石を積んだ藩境塚は間隔を置かず次々に現れ、山頂まで10基ほど。先の次のピークまでとその下りで8基ほど見た。
まだ探せば塚は続いてあるだろうが、山麓は畑地跡や赤道となり不明瞭で、ここで切り上げた。
なお、資料としては、案内してくれた松川先生の作成稿で、平成17年度文化財サポーター育成講座研修資料「外海における大村藩領地と佐賀藩領地について」などがある。

有田町に残るアーチ石橋  西松浦郡有田町

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有田町に残るアーチ石橋  西松浦郡有田町

佐賀県西松浦郡有田町に残るアーチ石橋は、5橋である。西光寺前の橋、三空庵前の橋、篠原邸前の橋は、有田町商店街の本通り裏の川に架かる。
トンベイ塀通りを歩くが、西光寺前の橋は、河川改修から川筋が変り、陸に上がった格好になっている。為朝橋は、有田ダム下の中流に離れてあり、札ノ辻交差点からダム道へ入る。西有田の黒岩橋は龍門ダムの入口の少し先である。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真  1  第 116 番  西光寺前の橋       有田町大樽
大正8年8月          長さ 約6.0m  幅員 2.5m
石工:松尾勝次郎、光武初次郎 服部泰吾氏寄付
平成11年に河川改修で現在のような形になったようだ。橋の向うは石垣が組まれて埋められている姿は今一つ。
商工会議所内の明治初期の石倉を改造してつくられた有田陶磁美術館の右手から、細い道をはいると、路地にトンバイ塀がみえる。解体した登り窯のレンガや窯道具を塀に利用したもので、このコースでは随所にみられ、独特の雰囲気をかもしだしている。
このコース上に3つの石造アーチ橋と出会える。

写真  2  第 117 番  三空庵前の橋       有田町上幸平1丁目
大正年間と思われる     長さ 約6.0m  幅員 約1.5m(2.0mに拡幅)
同上のトンバイ塀通り。このコース上の2つ目の石造アーチ橋。

写真  3  第 184 番  篠原邸前の橋       有田町上幸平1丁目5から入る
年代は未確認         長さ 6.6m   幅員 2.1m
毎年のように陶器市に来てるのに、この橋は知りませんでした。
トンバイ塀通りの裏通りから入り込んだら、なんと立派な邸宅専用の石橋。なんとも贅沢なうらやましい環境。3つ目の石造アーチ橋。

写真  4  第 186 番  為 朝 橋         有田町白川
年代は未確認         長さ 6.0m   幅員 5.4m
札の辻交差点から有田ダムに入る。坂道になる手前。
為朝といえば鎮西為朝のことだろう。為朝といえば、強弓であちこちに矢を射込んでいる…(諫早の御舘山稲荷神社)。

写真  5  第 192 番  黒 岩 橋          有田町広瀬山
大正12年(1923年)   長さ 12.0m  幅員3.7m
竜門ダム下と言った方が判りやすい。伊万里から川棚に向かう県道に架かる。旧西有田町の黒岩橋は端正なアーチを見せる。
橋の上流部には水路と集水施設がある。現在はコンクリートで補強されているが、もともとは石組の水槽で在ったそうだ。水の利用と石造技術がマッチした西有田の風景を楽しんだ。

なお、最後の写真は、JR佐世保線の珍しい「有田2連橋梁」。国道35号線桑古場交差点近くで見られる。

さが名木100選  80 弁財天のイチョウ  西松浦郡有田町泉山1丁目

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さが名木100選  80 弁財天のイチョウ  西松浦郡有田町泉山1丁目

国道35号線有田町の桑古場交差点か泉山交差点からJR佐世保線の北を行く県道へ入る。これは有田町中心部を通る県道である。東へ向い大イチョウは、町の東部泉山の磁石場跡「白磁ヶ丘公園」へ行く途中の市道左手にあり、一目でそれと分かる高木がある。
佐賀県同パンフレットによる説明は次のとおり。

80 弁財天のイチョウ
・所 在 地  有田町泉山
・推定樹齢   1000年
・大 き さ  樹高 40m  幹回り 11.6m  枝張り 18m
・登録番号   38136
雄木で、樹齢は、1,000年を越すといわれているが、勢いは全く衰えていない。1828年、有田皿山が「文政の大火」に見舞われたとき、泉山の窯元・池田家(池田伝平窯)は、この銀杏に隣接し、大イチョウの枝に抱かれていたため消失をまぬがれたと伝えられている。
国天然記念物(大正15年10月20日指定)

なお、佐賀県HPの中の「国指定天然記念物の部(1)」による説明は次のとおり。

有田のイチョウ(ありたのいちょう)

国指定天然記念物/ 大正15年10月20日指定
西松浦郡有田町泉山524
植物

神社や寺院の境内地の他、最近は街路樹としても植えられるイチョウは、中国原産の落葉高木であり、生きる化石ともいわれている。
有田のイチョウは、弁財天社の境内に所在し、雄木で、根回り11メートル、目通り幹回り9メートル、樹高38メートル、枝張りは31メートルに及ぶ県内随一のイチョウ巨木で、全国的にも貴重である。推定樹齢は、1000年以上であるが、樹勢は今も旺盛である。

さが名木100選  26〜28 川古・武雄・塚崎の大楠(クスノキ)  佐賀県武雄市

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さが名木100選  26〜28 川古・武雄・塚崎の大楠(クスノキ)  佐賀県武雄市

佐賀県武雄市にとてつもない3本の大クスノキがある。全国クスノキ巨木の順位から川古は第5位、武雄は第7位、塚崎は第53位とされている。
平成20年3月20日、黒髪山の帰りに寄って写した。
佐賀県同パンフレットによる説明は次のとおり。

26 川古の大楠(クスノキ)
・所 在 地  武雄市若木町川古7845−1
・推定樹齢   3000年
・大 き さ  樹高 25m  幹回り 21m  枝張り 27m
・登録番号   06309  
環境省の調査では、全国第5位とされている。幹の南西部には空洞があり、その中には稲荷の石祠が祀られ、奈良時代には、名僧行基がここを訪れ、大楠の一部には2.4mの観音像を刻んだと伝えられている。
大楠周辺は川古の大楠公園となっており、連日、県内外から観光客も絶えず訪れられている。
国天然記念物(大正13年12月9日指定)

27 武雄の大楠(クスノキ)
・所 在 地  武雄市武雄町武雄5334−2
・推定樹齢   3000年
・大 き さ  樹高 30m  幹回り 20m  枝張り 33m
・登録番号   06314  
このクスノキは、武雄神社裏手の御船山山麓にあり、環境省の調査では、全国第7位とされている。
本幹には、12畳敷きの広さの空洞がある。また、武雄市で一番古い武雄神社の御神木とされており、地元の守り神として親しまれている。
市天然記念物(昭和45年7月15日指定)

28 塚崎の大楠(クスノキ)
・所 在 地  武雄市武雄町武雄5563−2
・推定樹齢   2000年
・大 き さ  樹高 18m  幹回り 13.6m  枝張り 18m
・登録番号   0627284  
武雄市文化会館横の高台に位置しており、昭和38年の落雷によって、本幹の9m以上が失われ、中は空洞になっている。
推定樹齢2000年といわれており、県でも重要な文化財である。
市天然記念物(昭和60年4月22日指定)

佐賀県有田の黒髪山・青螺山   平成20年3月

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佐賀県有田の黒髪山・青螺山   平成20年3月

平成20年3月20日(木 春分の日)くもり。佐賀県有田の黒髪山(標高516m)・青螺山(標高618m)へ行く。参加12人。車3台は高速道の波佐見有田まで利用。
コースは、龍門ダム9時半発ー後の平ー黒髪山ー見返峠ー青螺山(昼食)ー青牧峠ー龍門ダムに15時着。
稜線は風が強く寒かった。黒髪山の山頂岩場の鎖・階段下りと、青螺山の急登りに手こずった。
青螺山の石柱は、佐世保高橋氏が探した伊万里港の「陸軍輸送港域第二区標」「昭和一五年六月十日」。 

長与インター入口近くでアーチ石橋が見つかる  西彼杵郡長与町高田郷

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長与インター入口近くでアーチ石橋が見つかる  西彼杵郡長与町高田郷

西彼杵郡長与町高田郷にも、まだ知られていないアーチ石橋が残っていた。これも「《トピックスで読む》長崎の歴史」の著者江越先生の話から。
先日、勤め先の大瀬戸歴史民俗資料館を訪ねたとき、長崎市三ツ山町に残っていた「小谷橋」(先項)と一緒に、この長与町の橋のことも聞いていたのだが、私は今、中尾城公園に移築されている「百合野橋」のことと思って、よく聞いてなかった。

百合野団地入口で現在、JR線路をまたぐ橋が「百合野橋」となっている。もともとアーチ石橋であった橋は、団地へ入って「百合野団地第一」バス停右下にある小さな橋である。
話の様子が違うので昨夜、先生へ再び確かめた。先生も実際見られたのでなく、この橋は大宮町の道津さんから聞いた話。道津さんが近くをよく歩くので見つけられていたのである。
幸い道津さんは、私のかつての職場の先輩。電話して場所を確かめ、本日(3月19日)調べに行った。

場所は、道の尾を通って長与へ行くJR長崎本線沿いの県道33号線。川平有料道路長与インター入口のすぐ手前左側にクリーニング店「洗濯工房」がある。この店裏とJR線路との間に小さな川が東の山手から流れている。
壊れかけた石橋が、店裏のコンクリート壁にへばりつくように残っている。線路側は水害により上石が流されているようだが、骨組みはしっかりしていて、アーチの形を完全に残している。

脚立で橋まで降りる。上流側の中央切石に「明治四十四年二月築造」と刻んでいた。橋名がもしやとして下流側へ回ったが何もなかった。長さ5m、幅員4mくらいの橋。
店の家人に聞くと、昔は橋の高さで脇に旧家があり、県道が通っていた。今の県道が高くかさ上げして造られたため、敷地を高く上げて現在の店を作っているそうである。
うまい具合に列車が通った。壊れかけているが、いつまでも残ってもらいたい市近郊のアーチ石橋である。

なお、最後の写真2枚は、中尾城公園文化ホール下へ移築されている「百合野橋」と、「百合野団地第一」バス停下の現在の橋。

三輪神社などのクスノキ  長崎市琴海形上町

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三輪神社などのクスノキ  長崎市琴海形上町

国道206号線により長崎市琴海形上町へ行く。形上小学校を過ぎ長崎市立琴海病院前に来ると、国道の左方に高木がこんもりした神社が見える。鳥居に「三輪神社」とあった。
境内由緒書によると、当時の形上村の庄屋相川新右衛門がキリスト教弾圧の偽装策として、寛永10(1633)年、智津大権現を祭神としてこの老碕の守に奉祀したとある。
神社の記事は、fwd−net長崎・諫早「神社に行こう」に紹介がある。
参道石段の中段右にあるクスノキはかなり大きい。幹周りは5mほどあった。

国道へ戻り少し行くと、これも国道沿いのすぐ左方へ、石垣で囲まれた高い木立がある。石垣の間の通路を入ると、クスノキの幹周り4mを越す大木を中心に、池のある庭園がこしらえられていた。
家は古くて小さく、庭はだいぶん荒れぎみであったが、何となく昔、形上地区で由緒のあった屋敷跡のようである。前記の形上村庄屋宅でなかったかと思っているが、確認はしていない。

波佐見金山跡  東彼杵郡波佐見町湯無田郷

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波佐見金山跡  東彼杵郡波佐見町湯無田郷

波佐見金山跡は、波佐見町湯無田郷にある。ここは県道1号線の中尾山入口。右折して白山陶器前を過ぎ、上内海住宅バス停に史跡案内板がある。住宅裏の川向こうに金山跡の坑口2つが見られ、1つは完全に扉で塞ぎ、1つは畑のビニールハウス続きの倉庫として利用されているようだ。堤が住宅をはさんで上下にある。

下流の陶山神社左側の川脇斜面にも坑口があって、石垣で塞いでいると聞いたが、探しきれなかった。この川脇の道は昔の旧道か、堤下で川を渡るところに古い桁橋があり、「中尾橋」と刻んだ銘柱を見つけた。

陶山神社前に残る赤レンガ造アーチ石橋( https://misakimichi.com/archives/684 を参照。切石に「伊東橋」と刻みがあるよう)の解明のため、このあたりはもう少し関連づけて、史料や資料を調べる必要があるだろう。
「波佐見金山跡」の現地説明板は次のとおり。操業当時の古写真は、波佐見町「はさみ100選 ガイドブック」1987年刊70頁から。

波佐見金山跡

明治二十九年、金鉱脈を発見し、翌三十年、鹿児島県祁答院重義により採鉱開始し、日露戦争時(明治37・38年)有望金山として外債募集に役立った。
坑道は西側に朝日坑をはじめ五坑、東側に三坑、その他に一坑があり、鉱石は電車で精錬所(現在の白山陶器)に運び粉末に砕き、金、銀をとり出していた。電力は初め川上水力発電所からの送電によったが、のち火力発電所(赤煉瓦建物)を設けた。
明治四十三年、日本興業銀行が直接経営に当り”波佐見鉱業株式会社”となる。
大正三年八月、貧鉱となって、突然閉山した。この間、金一、〇三三Kg(二七五貫余)、銀二、三九四Kg(六三六貫余)を採掘する。
その後、金山は三菱鉱業の手に移り、大東亜戦争中、大村空廠が疎開して坑道に地下工場を設けていた。
平成四年一月    長崎県波佐見教育委員会