月別アーカイブ: 2008年8月

稲佐山展望台からの展望

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稲佐山展望台からの展望

平成20年8月24日、水の浦から稲佐山・権現岩へ行く。稲佐山展望台からの展望。昼の全景はあまり紹介がない。山野歩き https://misakimichi.com/archives/1227 も参照。
稲佐山は長崎港の対岸にあり、標高342m(三等三角点地点は333.0m)。ロープウエイが渕神社駅から通う。
市街や港外を一望でき、長崎の名所。夜景もよい。山頂に吉井勇の歌碑 ” おほらかに 稲佐の嶽ゆ 見はるかす 海もはろばろ 山もはろばろ ”

水の浦から稲佐山・権現岩へ  平成20年8月

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水の浦から稲佐山・権現岩へ  平成20年8月

平成20年8月24日(日)晴。水の浦から稲佐山・権現岩へ。参加6人。
水の浦公園9時半発ーシンフォニーの森ー稲佐山ードッグラン広場(昼食)ー権現岩ー春木町ー梁川公園15時着。

水の浦公園から右尾根を上り、シンフォ二ー稲佐の森から登山道へ入る。稲佐山展望台からの展望は風景の項へ。
野外ステージでは、ライブ” Sky Jamboree ‘08 〜「笑顔」〜 ”があっていた。
権現岩へ行って尾根分岐に戻り春木町へ下ったが、送電線鉄塔を2つ過ぎて最後の出口がわかりにくくなっている。右手谷方へ下ると人家横に出る。

稲佐山の標高は、国土地理院地図によると三等三角点地点が333.0m。展望台のところが高く標石がない標高342mと表示されている。地図の切れ目に当たり間違いやすい。

慶巌寺と名号石  諌早市城見町

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慶巌寺と名号石  諌早市城見町

諫早公園の眼鏡橋から見ると、本明川を挟んで対岸に見える寺が慶巌寺であるので、近くの公園橋などを渡って行く。
慶巌寺は、元諫早村小路(原口町泉野)にあった常楽寺を、二代諫早藩主の室、慶巌院の志願により、慶長10年(1605)今の城見町岩小屋に移転・改築し、寺号を慶巌寺と改めた。諫早領主の帰依寺となり、霊屋廟所が設けられた。

八橋検校ゆかりの「六段発祥地」。諫江八十八ヶ所霊場第十五番札所。
参道の左右崖面の摩崖仏「三十三観音」(別項)は市指定有形文化財。右手には天明7(1787)年建立の芭蕉を偲んだ「翁塚」がある。
仁王門をくぐった正面が本堂で、佐賀鍋島藩の紋「杏葉」が打たれている。諫早家家宝「明珍の鎧」もここに保管されている。
境内左には、県指定有形民俗文化財「慶巌寺の名号石」がある。そのほか水害の慰霊碑や十六羅漢像がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による名号石の説明は次のとおり。

慶巌寺の名号石  県指定有形民俗文化財

指定年月日 昭和56年3月27日 所在地 諌早市城見町15−19 所有者 慶巌寺
碑面中央部に南無阿弥陀仏の名号を楷書で陰刻し、枠の線とともに薬研彫りである。右側に意趣と年紀の銘がある。これによれば、貞和7年(1351)衆生平等利益を祈念して建立されたものであるが、建立にかかわった人の名前と思われる碑面最下部の僧名や建立の具体的動機にかかわる歴史的背景等については不明な点が多い。
しかしこの種の名号石は県下に類例がなく、地方史研究のうえからも貴重である。

この「名号石」は、奇縁があってこの寺に祀られることとなったらしい。
「長崎県の石橋を訪ねて」のHP氏 ” Fwd−net 長崎・諫早 ”の散歩コーナーによる話は次のとおり。
慶巌寺の名号石

本明川に面してあり、諫早公園の対岸にあたる慶巌寺の境内にある。慶巌寺の山門脇に建つ屋根を被せた板碑が、この「名号石」です。
正面に彫ってある「南無阿弥陀仏」の彫り方が、特殊な「薬研彫(やけんぼり)}であることと、年代が貞和7(1351)年であることから、県の文化財に指定されている。

名号石の正面の銘は、下記のとおりである。
右意趣者為法界衆生平等利益也   一結  敬白。
南 無 阿 弥 陀 仏
貞和七年辛卯四月十三日
また、下の方に二十数名の名前が刻んであるようだが、判読できない。貞和七年は観応二年に変わっているのだが、観応の年号を使わなかったのは、後醍醐天皇と対立する南北朝時代なので、北朝の足利直冬が使わせなかったといわれ、諫早地方が当時足利勢の勢力下にあったという、歴史的な事実が浮かび上がってくる。

この名号石は、元々慶巌寺に有ったのではなく、以前は、大城戸(おおじょうご)と呼ばれた現在の諫早郵便局のあたりの小川に渡して、橋がわりに使われていたもの。
ところが、この石が夜になると、怪しい光を出すため、付近の人が畏れて使わなくなり、渡れば祟りがあるとの噂が流布された。
そのため、あらためて調べてみると、石板の裏側に南無阿弥陀仏の銘が読めたので、「墓石だ!」と肝を潰したという。こともあろうに、墓石を橋に使って踏みつけていたと思った住民は、祟りを恐れて供養のために慶巌寺に運んだ。

慶巌寺で「これは、名号石だ」とわかり、境内に祀って、磨耗を防ぐために屋根も設けた。さすがに名号石だけあって、自分で住民に知らせて、慶巌寺に収まったと考えるのは、考えすぎだろうか? でも、そう思ったほうが、楽しい。

やまめの里近くのオガタマノキ  雲仙市千々石町庚

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やまめの里近くのオガタマノキ  雲仙市千々石町庚

雲仙市千々石町木場から雲仙別所ダムへの県道128号線に入る。途中の分岐から岳集落奥のやまめの里へ向かう。上岳を過ぎ千々石川の上流まで進むと九州電力千々石第五発電所があり、すぐ先がやまめの里で道路は行き止りとなる。九千部岳の真下である。
発電所とやまめの里間は約50m。発電所を過ぎて左手の渓流沿いを見て行くと、中間ほどにこのオガタマノキがある。

気がけて見ると少し下流の対岸にも、幹囲は同じくらい、根元から2つに分かれたオガタマノキの大木があった。発電所のすぐ上の対岸側。
曇り日の夕方近く林間は暗く、木の写真は写りが悪かった。
「上岳のタブノキ」は次を参照。  https://misakimichi.com/archives/560
後の写真は、発電所手前の水分神社前にある桁石橋「宮橋」と、雲仙側へ県道を登った途中の岳展望所から見た「清水棚田」。やまめの里へは、この写真の道を右へ上がって行く。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。

オガタマノキの巨木

雲仙市千々石町のやまめの里近くの渓流沿いにある。樹高2mほどから5つに分岐して、幹周りおよそ4m。樹高20mほど。

諫早公園のミサオノキとヒゼンマユミ  諌早市高城町

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諫早公園のミサオノキとヒゼンマユミ  諌早市高城町

諌早公園一帯は、諫早市城山暖地性樹叢として国指定天然記念物に指定されている数十種の暖地性植物に覆われた緑豊かな丘陵地である。
公園内には、樹齢600年を越すクスの大木などがあり、本明川から移築された国指定重要文化財の眼鏡橋から城山へ遊歩道を上って行くと、途中にミサオノキが見られる。

山頂の広場に大クスが立ち、付近一帯にヒゼンマユミをはじめタブノキ、ムクノキ、スタジイ、ツガなどの大木がある。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。
「諌早公園の大クスと高城回廊の巨樹」は、先の項を参照。
https://misakimichi.com/archives/381

ミサオノキ( Randia cochinchinensis )

アカネ科ミサオノキ属 常緑低木
葉は対生し濃緑色の卵状楕円形〜長楕円形。革質で葉先は尖る。基部はくさび形。側脈は7〜8個。葉裏は淡緑色〜灰緑色。托葉は線形。
5月頃、集散花序の淡紅色を帯びた白い花を咲かす。花冠は筒状で花弁は5裂し反りかえる。雌しべは棒状でつき出る。
果実は7mmほどで赤紫褐色で秋に黒く熟し、翌年の晩春まで枝につく。
紀伊半島から四国・九州・沖縄に分布。原産地は熱帯アジア・太平洋諸島。
諫早市諫早公園のミサオノキ。花は5月中旬。果実は11月と1月下旬。

ヒゼンマユミ(肥前真弓)

ニシキギ科ニシキギ属 常緑小高木
葉は対生で、卵形〜長楕円形で縁にはまばらに浅い鋸歯がある。薄い角質で光沢がある。普通のマユミは落葉樹である。4〜5月、柄がある集散花序をだし、黄緑色の小さな花を咲かす。朔果(さっか)は球形で4稜がある。淡黄褐色に熟すると裂けて、赤褐色の仮種皮に包まれた種子が現われる。
諫早公園にあるヒゼンマユミ。花は5月。黄褐色の蒴果をつけていて、風鈴のようで美しい。蒴果は12月。
園内にはこのような高木のヒゼンマユミが数本あり、その種から育ってきたと思えるヒゼンマユミが多数ある。ヒゼンマユミは南方系の木で珍種といわれている。明治39年、千葉常三郎氏がここで発見した。「諫早市の木」に選ばれている。
諫早市役所の敷地内にもヒゼンマユミの大木がある。

諫早公園の眼鏡橋近くにある桁石橋

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諫早公園の眼鏡橋近くにある桁石橋

諌早市高城町の諫早公園へ移築復元されているアーチ石橋の名橋「眼鏡橋」を見たら、近くにある趣きのある桁石橋も訪ねてみよう。
「くじら橋」「御書院の太鼓橋」「慶巌寺の参道橋」は、いずれも諫早藩のご城下、眼鏡橋のふるさとにふさわしく見ごたえがある。

慶厳寺の参道橋の親柱は、「享和三年」と刻まれている。同寺の摩崖仏三十三観音・名号石などは史跡の項で別項。
HP ” Fwd−net 長崎・諫早 ”の中「石造アーチ橋以外の石橋たちを訪ねて」による説明は次のとおり。

写真  1  第 k-002 番   く じ ら 橋       諌早市高城町(諫早公園内)
安政年間(1858年頃)
郷土の聖人、土橋多助翁が、旧好古館(現諫早市役所)の裏門にに架けた橋。現在は諌早眼鏡橋の奥に移築。

くじら橋と土橋多助翁

諫早公園の、眼鏡橋の後ろに、小さな石橋が架かっている。これを「くじら橋」という。この橋は、元々、旧好古館(現諫早市役所)の裏門に、安政年間(1858年ごろ)に架けられた橋で、今でいう、市役所と北島医院の間に架かっていたという。
橋が架かっていた掘割は、山下淵から、水を取って、輪内(仲沖)に、水を通していた、用水路です。この用水路は、今も商店街を横断して、仲沖に水を送っている。

その後、明治6年に諫早小学校を建てるため、旧道路を潰したので、この橋が小学校の裏口となったが、大正10年から、始った諫早公園造りが一応の完成をみた後、上り口にの掘割に木橋を架けたが、木陰で腐食が早いため、大正末期に、くじら橋を、諫早公園昇り口に移した。
昭和の時代になり、何時しかこの橋の謂れも、忘れ去られて行き、昭和32年の諫早水害のあと、眼鏡橋を諫早公園に移築する際、盛土をするため、くじら橋は撤去することになったが、この橋が、「くじら橋」であったことは知らなかったが、良い橋で勿体無いため、眼鏡橋の池に架け替えることとなり、現在の位置に架けられている。

この橋が、くじら橋と呼ばれるのは、現在で言う新橋の上まで、鯨が迷い込んで来ることがあったからだというが、今となっては定かではない。
この橋が、「くじら橋」の名を取り戻したのは、昭和52年頃から、城下町の調査を始めた、諫早高城会の、山口祐造氏の、ご努力に拠ったものである。…
土橋多助翁が架橋した橋は、上記の鯨橋以外に半造橋、段堂橋、田代橋、森山の多助橋(市道下名多助橋線であれば現在の下井牟田からの市道)であったという。全て石橋であったという。…

写真  2  第 k-003 番   御書院の太鼓橋      諌早市高城町(諌早高校内)
江戸時代
藩政時代の庭園に架かる桁橋

旧諌早家の御書院(諫早高校)

現存する大名庭園が、そのままの姿で残っている諫早高校のシンボル「御書院」の庭園です。旧領主である、諫早家から寄贈された日本庭園を、諫早高校の生徒達は、「御書院」と呼んで大切にしています。…
庭園の中央に、大きく配した心字池は、どの角度から見ても心を和ませてくれます。庭園内には、楠木の古木が力強く茂っています。…
紅葉が池に映えて、良い雰囲気です。この日本庭園が学校敷地内にあるんですから、諫早高校は贅沢な学校ですよね。

眼鏡橋の諫早公園とは隣接し、諌早市体育館の後ろを回る高城回廊に御書院の入口があり、この御書院に入れます。
御書院には、梅雨の前に白い花をつける「なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)の木」がある。満開の時は、雪の積もったように見事だ。…

写真  3  第 k-017 番   慶巌寺の参道橋       諫早市城見町
享和3年(1806年)    長さ 8.0m 幅員  3.3m
筝曲六段発祥の地として有名。
諫早の眼鏡橋の川向にある慶厳寺の参道橋。摩崖仏三十三観音など見るべきものが多い。

慶巌寺(城見町)

本明川に面してあり、諫早公園の対岸にあたる。天満町〜蓮光寺〜此処、そして安勝寺と、本明川河畔に名刹が続く。
諫早の旧市街の中央に慶巌寺がある。有名な八橋検校がここで筝曲「六段」を創ったといわれる。毎年秋には、「六段祭り」も開かれる。
また、摩崖仏「三十三観音」があり、市指定有形文化財となっている。文化財かどうかは別にしても、古の民人達の信仰の深さが偲ばれる。

観音様を拝したところで、石段を上ってみよう。右手には、天明7(1787)年建立の、俳聖芭蕉を偲んだ、翁塚がある。明治の神仏分離の折に、廃寺となった、お四面さまの荘厳寺から移築した、仁王門が見事。…
仁王門をくぐって境内に入ると正面が、本堂。紋を確認すると、佐賀鍋島藩の紋、杏葉が打たれている。慶巌寺は、二代藩主の室、慶巌院の志望により、慶長10年に建立されたもの、二代直孝公の時代に、佐賀鍋島藩と諫早藩の上下関係が確定したので、当然の紋ともいえる。
境内には、奇縁があって、この地に祀られる名号石もある。そのほかにも、水害の慰霊碑や十六羅漢像、なんと言っても、普段は見れないが、諫早家家宝、明珍の鎧も、ここで保管されている。

古写真に残る石橋風景  (5)諫早眼鏡橋

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古写真に残る石橋風景  (5)諫早眼鏡橋

昭和32年(1957)7月25日の諫早大水害にも流されなかった「眼鏡橋」は、諌早市高城町の諫早公園内に、昭和36年9月に移されている。国指定重要文化財。
もともと本明川に架かっていたのは、ここから下流約450mのところ。今はそこに「眼鏡橋」の銘板があり、歩行者専用橋が渡っている。
諫早公園の現地説明板は次のとおり。古写真も同説明板から。

重要文化財  眼 鏡 橋

この橋は、すぐそばを流れる本明川の下流、ここから約450mの所に架けられていたものです。
本明川は昔からたびたびの洪水で橋が流され、人びとは長い間苦しんでいました。そこで、永久にこわれない石橋を作りたいという切実な願いが起こり天保10(1839)年精魂込めて架けられたものです。
それからは「いさはやのめがねばし、いきもどりすれば、おもしろかなり」と数え歌とともに愛され、親しまれてきました。
昭和32年、死者539人を出した大水害で、本明川の橋はほとんど流されたのですが、眼鏡橋はそのままで名橋の名をとどめました。
水害復興で川幅を広げるため橋を取り除いてしまう計画でしたが、こんな立派な石橋をなくすのは惜しい、という市民の熱意が実を結び、石橋で初めて国の重要文化財に指定されて、昭和36年9月、もとのままの形でここに移されたものです。
橋の長さ  49.25m   幅  5.5m   石の数 約2,800個
昭和33年11月29日指定        文 部 省  諫早市教育委員会

なお、眼鏡橋の移築復元には、工法確認のため1/5スケールの精密な復元検証模型が造られ、埼玉県所沢市ユネスコ村に残されている。
貴重な模型をぜひ諌早へ呼び戻そうと、諌早市や市民団体など運動を行っているが、現在のところまだ進展がないので、協力を呼びかけている。
「長崎県の石橋を訪ねて」HP氏の ” Fwd−net長崎・諫早 ”の中の要旨は次のとおり。詳しくは同HPを参照。最後の写真はユネスコ村の同模型。

諌早眼鏡橋の復元検証模型を呼び返そう

【復元の実験に使われた眼鏡橋の模型】
復元工事の指揮にあたられた、山口祐造氏(当時諌早市職員)は前例の無い復元工事の工法確認に1/5スケールの精密なモデルを石で作って実験しながらデータの収集を行った。
諌早眼鏡橋を移築後は、実験に使った模型の出来があまりに素晴らしかったため、文化財に準ずる扱いで、ユネスコ村に残されることとなった。

…長崎新聞を開いたら「模型古里へ戻そう」の記事が目に入った。当サイトの「諫早眼鏡橋」でも紹介している、埼玉県所沢市ユネスコ村のミニ諌早眼鏡橋の記事だった。(06/08/2003)
新聞記事には簡単にしか触れていないが、この模型は移築復元の唯一の成功例といわれる諌早眼鏡橋移築の技術的な諸問題の解決のために造られたもの。

この橋は模型とはいえ、10mの大きさであるとともに、出来栄えの素晴らしさから文化財に準ずる扱いをする為に、ユネスコ村に移築保存されていた。
今ごろになって返して欲しいとは、ちょっと申し訳ない気もするが、諌早に帰ってこれれば、こんなに嬉しいことは無い。なんとか実現に協力できないものだろうか?

古写真に残る石橋風景  (4)本河内高部ダムの「幻の石橋」?

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古写真に残る石橋風景  (4)本河内高部ダムの「幻の石橋」?

季刊「Web旅ムック」2007晩秋号 Ⅴol.7の16〜17頁の特集「石橋の旅 第4回」から転載した次の記事「まぼろしの石橋 本河内高部貯水池のダム底に眠る」をまず参照。
長さ8.0m、幅員2.8mの自然石の橋。
https://misakimichi.com/archives/405
この石橋も平成18年春の新ダム完成により、堰堤がかさ上げして造られ、水位が上がったため渇水期でもまったく見ることができなくなった。

「長崎水道百年史」は長崎市立図書館に行ったら、「長崎市水道九十年の歩み」長崎市水道局昭和57年刊が別にあった。こちらが読みやすく、わかりやすくまとめている。
長崎水道は日本で横浜・函館に次ぐ3番目の近代式上水道。本河内高部貯水池は明治22年3月起工、明治24年4月完成した。
写真は「長崎市水道九十年の歩み」の24頁にある。「着工前下流より」と「堰堤築造工事中」の古写真。
最初の着工前写真の中央に、かすかに小さなアーチ石橋の姿が確認できる。川の位置からこれが「幻の石橋」だろうか?。アーチの形が少し違うようにも見える。
次の堰堤工事中写真の左下のは放水口アーチで、最初にこれを造り堰堤を築き上げていく工法となる。現在でも旧堰堤に残る。

「幻の石橋」の記事は、以下のとおり「長崎市水道九十年の歩み」70頁に、渇水時に姿を現わした写真は104頁にあった。
この記事が貴重なのは、昔、本河内の妙相寺川に少なくとも6つ以上のこの種の石橋があった。幻の石橋はその4つ目。最下流側の「妙相寺橋」は、位置と現存としている意味がよくわからないが、2つ目と3つ目は本河内高部水源地の造成により壊された。
「幻の石橋」の上流にも、本を刊行した昭和57年3月当時、5つ目と6つ目の石橋がまだ現存していて、使われていたという記述である。

未曾有な長崎大水害は、この後すぐの昭和57年7月23日。妙相寺のある奥山地区は山崩れがあり、壊滅的な被害を特に受けた。
5つ目と6つ目の石橋が奥山地区を流れる妙相川にあったのなら大水害により損壊。最下流側の「妙相寺橋」もこのため、架け替えられたのか。「山口橋」という橋もあったと聞く。
日見トンネルのある本河内の方を流れる御手水川なら、トンネル西口に「本河内3号橋」と呼ばれる小さく見事な石橋(最後の写真)が現存する。ここは長崎街道の道だ。
年月が経ち、だんだんとわからなくなったことが多い。自然石で築かれたアーチ式石橋が、長崎だけということはないようである。

水没している文化財 本河内の幻の石橋

稀に姿を現わすことがあっても、普段は絶対に見ることができない、そういう存在を「幻の何々」と呼ぶ。
貯水池堰堤の内面や、浄水池、配水池などの内部構造も、まさにそれであるが、その仲間に、本河内高部貯水池の上流に近く水面下に没している石橋がある。これがいわゆる「本河内の幻の石橋」で、貯水池の水を落とした機会に、姿を現わした。
もっとも今までも、異常渇水で貯水池の水が減ると、その都度姿を現わして、給水制限の目安ともなり、最近では市民にもおなじみとなっていた。

この石橋は、自然石を巧みに組み合わせて構築された、非常に珍しいアーチ構造で、日本でも長崎だけにしかない。そして長崎も現川や三川など北部地区に多く残っている。
本河内の妙相川にも、この種の石橋が、少なくとも6つ以上はあったようで、その最下流側の1つは、今も妙相川橋として現存し、上流に向かって2つ目と3つ目は、水源地造成のために壊された。そして4つ目がこの、いわゆる「幻の石橋」で、貯水池造成により、永久に水没する運命となったのである。

これは昭和53年12月20日長崎市の有形文化財に指定されたが、普段は貯水池が水をたたえて、この石橋を保護してくれている。そして水が減るとこの石橋が、赤信号の代りに市民の前に姿を出すのである。
徳川時代の末期ごろに架けられたと思われるこの珍しい構造の石橋は、今後も本河内水源地と共に、長く生き続けていくであろう。
なお、これより上流の5つ目、6つ目は現存して、今も使われている。

富士見公園で長崎要塞地帯標が見つかる

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富士見公園で長崎要塞地帯標が見つかる

明治32年陸軍省建立「長崎要塞地帯(区域)標」のこれまでの調査結果は、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/54
平成17年12月から佐世保市の高橋輝吉氏と合同調査を行い、現在までの次のとおり標石の現存を確認している。(第一地帯標「飽の浦峠」分も含む)
第一地帯標 確認 7本  第二地帯標 確認 7本  区 域 標 確認 10本 計 24本

調査の資料となった「長崎要塞地帯略図」の中、第二地帯標「2−E」の地点は西高や活水高あたりを考えたが、不明のまま次の「2−F」浦上駅とも爆心地に近く、もう標石は現存しないだろうと思っていた。
先日2008/8/19、ブログ記事を見た [ zarakiri ] 氏から思わぬコメントをもらった。
「同じような地帯標は市内の富士見公園にもあります。穴弘法の裏山でも変わったものが見れると思います 」

ありがたい情報である。さっそく出かけた。西城山通りの富士見町「富士見公園」正面から、園地の周りを左方へ車道か遊歩道で行く。城栄町側公園入口の石段脇の植え込みの中に標石はあった。
「陸軍省」「長崎要塞第三?地帯標」「第五十五号」「明治三十二年六月十日」を確認した。
「2nd.Z」と刻みながら、下部漢字が「第三地帯標」としか読めない。番号の続きも悪い。要塞地帯法がたびたび改正され、標石の転用は多く見たからいいとしょう。高橋氏が喜ぶであろう。

この標石は、移設されたことも考えられる。昔、このあたりの道路を通り、どこかで不思議な石柱を見た覚えが、私にもかすかに蘇えった。
「穴弘法の裏山の変わったもの」とはどんなものだろうか。 金比羅山の高射砲陣地防空壕跡などは見ている。要塞地帯標などであれば、ぜひとも場所など詳しく教えていただきたい。

古写真に残る石橋風景  (3)大浦の石橋「大浦橋」

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古写真に残る石橋風景  (3)大浦の石橋「大浦橋」

古写真に残る石橋風景となると、大浦の石橋「大浦橋」にふれないわけにはいかない。記事はほとんど再掲となるので、次も参照。
https://misakimichi.com/archives/792

大浦の石橋「大浦橋」は、市内電車「石橋」終点の電停先にある。バス通りを信号により渡る。横断歩道白線のこんもりした盛り上がりが、アーチ石橋を渡っているのである。
「大浦橋」はこの暗渠下に今も実在する。石橋交番側から川に降り暗渠に入って、私が本年4月、実際に写してきたのが最後の写真である。そのときはちょうど暗渠の補強工事中だった。工事用ライトに、アーチが浮かび上った。

大浦の石橋「大浦橋」の古写真は2枚ある。いずれも現地のさるく説明板にあるもの。長崎大学附属図書館蔵の写真。
最初のは「大浦川沿いのまち並み」。石橋交番裏の電停側に説明板は設置されている。明治 30年代の撮影。「石橋、弁天橋、松ヶ枝橋、散見する人物などが確認できます」とあるとおり、左下に小さなアーチ石橋が確認できる。

次のは「大浦橋」。信号がある横断歩道の「石橋」バス停のところに説明板は設置されている。
「今でも道路の下を川が流れていて、かつての石橋が残っています」は良いとし、「明治19年(1886)、地元の有力者により、この写真の石橋に架け替えられました」とあるのは、誤解をまねきかねない。
掲載の写真はアーチ石橋がわからないし、車やバスをスムースに通すため、後でつけられた角に三角桁をつけた橋となっている。暗渠下の実際の石橋の良い写真が撮れなかったため、とりあえずこの写真としているらしいが、説明板としてどうだろうか。

石橋から上の大浦川を暗渠にし市道を広げたのは、昭和37年から同47年にかけた工事であったと市に確かめている。地元の林正康先生(先祖が大浦橋を架橋)の話でも大学生の頃だったと聞いているので、大浦橋が暗渠下になったのは、昭和40年くらいと思われる。