古写真に残る石橋風景 (5)諫早眼鏡橋
昭和32年(1957)7月25日の諫早大水害にも流されなかった「眼鏡橋」は、諌早市高城町の諫早公園内に、昭和36年9月に移されている。国指定重要文化財。
もともと本明川に架かっていたのは、ここから下流約450mのところ。今はそこに「眼鏡橋」の銘板があり、歩行者専用橋が渡っている。
諫早公園の現地説明板は次のとおり。古写真も同説明板から。
重要文化財 眼 鏡 橋
この橋は、すぐそばを流れる本明川の下流、ここから約450mの所に架けられていたものです。
本明川は昔からたびたびの洪水で橋が流され、人びとは長い間苦しんでいました。そこで、永久にこわれない石橋を作りたいという切実な願いが起こり天保10(1839)年精魂込めて架けられたものです。
それからは「いさはやのめがねばし、いきもどりすれば、おもしろかなり」と数え歌とともに愛され、親しまれてきました。
昭和32年、死者539人を出した大水害で、本明川の橋はほとんど流されたのですが、眼鏡橋はそのままで名橋の名をとどめました。
水害復興で川幅を広げるため橋を取り除いてしまう計画でしたが、こんな立派な石橋をなくすのは惜しい、という市民の熱意が実を結び、石橋で初めて国の重要文化財に指定されて、昭和36年9月、もとのままの形でここに移されたものです。
橋の長さ 49.25m 幅 5.5m 石の数 約2,800個
昭和33年11月29日指定 文 部 省 諫早市教育委員会
なお、眼鏡橋の移築復元には、工法確認のため1/5スケールの精密な復元検証模型が造られ、埼玉県所沢市ユネスコ村に残されている。
貴重な模型をぜひ諌早へ呼び戻そうと、諌早市や市民団体など運動を行っているが、現在のところまだ進展がないので、協力を呼びかけている。
「長崎県の石橋を訪ねて」HP氏の ” Fwd−net長崎・諫早 ”の中の要旨は次のとおり。詳しくは同HPを参照。最後の写真はユネスコ村の同模型。
諌早眼鏡橋の復元検証模型を呼び返そう
【復元の実験に使われた眼鏡橋の模型】
復元工事の指揮にあたられた、山口祐造氏(当時諌早市職員)は前例の無い復元工事の工法確認に1/5スケールの精密なモデルを石で作って実験しながらデータの収集を行った。
諌早眼鏡橋を移築後は、実験に使った模型の出来があまりに素晴らしかったため、文化財に準ずる扱いで、ユネスコ村に残されることとなった。
…長崎新聞を開いたら「模型古里へ戻そう」の記事が目に入った。当サイトの「諫早眼鏡橋」でも紹介している、埼玉県所沢市ユネスコ村のミニ諌早眼鏡橋の記事だった。(06/08/2003)
新聞記事には簡単にしか触れていないが、この模型は移築復元の唯一の成功例といわれる諌早眼鏡橋移築の技術的な諸問題の解決のために造られたもの。
この橋は模型とはいえ、10mの大きさであるとともに、出来栄えの素晴らしさから文化財に準ずる扱いをする為に、ユネスコ村に移築保存されていた。
今ごろになって返して欲しいとは、ちょっと申し訳ない気もするが、諌早に帰ってこれれば、こんなに嬉しいことは無い。なんとか実現に協力できないものだろうか?