古写真に残る石橋風景  (4)本河内高部ダムの「幻の石橋」?

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古写真に残る石橋風景  (4)本河内高部ダムの「幻の石橋」?

季刊「Web旅ムック」2007晩秋号 Ⅴol.7の16〜17頁の特集「石橋の旅 第4回」から転載した次の記事「まぼろしの石橋 本河内高部貯水池のダム底に眠る」をまず参照。
長さ8.0m、幅員2.8mの自然石の橋。
https://misakimichi.com/archives/405
この石橋も平成18年春の新ダム完成により、堰堤がかさ上げして造られ、水位が上がったため渇水期でもまったく見ることができなくなった。

「長崎水道百年史」は長崎市立図書館に行ったら、「長崎市水道九十年の歩み」長崎市水道局昭和57年刊が別にあった。こちらが読みやすく、わかりやすくまとめている。
長崎水道は日本で横浜・函館に次ぐ3番目の近代式上水道。本河内高部貯水池は明治22年3月起工、明治24年4月完成した。
写真は「長崎市水道九十年の歩み」の24頁にある。「着工前下流より」と「堰堤築造工事中」の古写真。
最初の着工前写真の中央に、かすかに小さなアーチ石橋の姿が確認できる。川の位置からこれが「幻の石橋」だろうか?。アーチの形が少し違うようにも見える。
次の堰堤工事中写真の左下のは放水口アーチで、最初にこれを造り堰堤を築き上げていく工法となる。現在でも旧堰堤に残る。

「幻の石橋」の記事は、以下のとおり「長崎市水道九十年の歩み」70頁に、渇水時に姿を現わした写真は104頁にあった。
この記事が貴重なのは、昔、本河内の妙相寺川に少なくとも6つ以上のこの種の石橋があった。幻の石橋はその4つ目。最下流側の「妙相寺橋」は、位置と現存としている意味がよくわからないが、2つ目と3つ目は本河内高部水源地の造成により壊された。
「幻の石橋」の上流にも、本を刊行した昭和57年3月当時、5つ目と6つ目の石橋がまだ現存していて、使われていたという記述である。

未曾有な長崎大水害は、この後すぐの昭和57年7月23日。妙相寺のある奥山地区は山崩れがあり、壊滅的な被害を特に受けた。
5つ目と6つ目の石橋が奥山地区を流れる妙相川にあったのなら大水害により損壊。最下流側の「妙相寺橋」もこのため、架け替えられたのか。「山口橋」という橋もあったと聞く。
日見トンネルのある本河内の方を流れる御手水川なら、トンネル西口に「本河内3号橋」と呼ばれる小さく見事な石橋(最後の写真)が現存する。ここは長崎街道の道だ。
年月が経ち、だんだんとわからなくなったことが多い。自然石で築かれたアーチ式石橋が、長崎だけということはないようである。

水没している文化財 本河内の幻の石橋

稀に姿を現わすことがあっても、普段は絶対に見ることができない、そういう存在を「幻の何々」と呼ぶ。
貯水池堰堤の内面や、浄水池、配水池などの内部構造も、まさにそれであるが、その仲間に、本河内高部貯水池の上流に近く水面下に没している石橋がある。これがいわゆる「本河内の幻の石橋」で、貯水池の水を落とした機会に、姿を現わした。
もっとも今までも、異常渇水で貯水池の水が減ると、その都度姿を現わして、給水制限の目安ともなり、最近では市民にもおなじみとなっていた。

この石橋は、自然石を巧みに組み合わせて構築された、非常に珍しいアーチ構造で、日本でも長崎だけにしかない。そして長崎も現川や三川など北部地区に多く残っている。
本河内の妙相川にも、この種の石橋が、少なくとも6つ以上はあったようで、その最下流側の1つは、今も妙相川橋として現存し、上流に向かって2つ目と3つ目は、水源地造成のために壊された。そして4つ目がこの、いわゆる「幻の石橋」で、貯水池造成により、永久に水没する運命となったのである。

これは昭和53年12月20日長崎市の有形文化財に指定されたが、普段は貯水池が水をたたえて、この石橋を保護してくれている。そして水が減るとこの石橋が、赤信号の代りに市民の前に姿を出すのである。
徳川時代の末期ごろに架けられたと思われるこの珍しい構造の石橋は、今後も本河内水源地と共に、長く生き続けていくであろう。
なお、これより上流の5つ目、6つ目は現存して、今も使われている。