月別アーカイブ: 2008年8月

古写真に残る石橋風景  (2)西浦上の「大井手橋」

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古写真に残る石橋風景  (2)西浦上の「大井手橋」

正確な橋名はわからないが、多分、「大井手橋」というのではないか。浦上ダム下の浦上浄水場正門前に架かる。長崎バイパスに入らず、川平・女の都方面へのバスはこの左の道を行く。
浦上川の本流は西浦上小学校のところで曲がり、左からその支流となる大井手川(源流は滑石峠。上流部は滑石川という)が流れる。ここに浦上ダムが造られ、浦上浄水場ができたのは、第3回拡張事業(昭和16年9月−昭和20年2月)である。

写真集「’91長崎水道創設100周年 NAGASAKI WATER 100」長崎市水道局平成3年刊の38〜40頁にこの古写真はある。
浦上浄水場のろ過池・浄水井の掘削工事にかかった昭和18年3月頃の古写真に、アーチ石橋が写っている。浦上浄水場は昭和20年2月に完成。次の写真があるが、これには西浦上小学校の校舎やマンションのビルが写り、撮影年は不明。だいぶん後年と思われる。アーチ石橋は消え、新しい橋に架け替えられている。

浦上川水系についていえば、三川町へ入った屏風岩近くに、「眼鏡橋」というバス停が今もある。橋名だけ残り、ここにもアーチ石橋があったと思っているが、調べきれずにいる。

古写真に残る石橋風景  (1)日見の「三国屋橋」

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古写真に残る石橋風景  (1)日見の「三国屋橋」

日見宿は長崎街道25宿の一つ。長崎へ2里、矢上へ1里。長崎に近いため、宿泊者は少なく、人馬の継立場として栄えていたようだ。
日見宿に三国屋という酒屋があり、状持ち(飛脚)も勤めていた。三国屋主人(二代目)五郎七が、江戸からの書状を日見川の氾濫した中、書状を頭に巻き濁流を泳ぎ渡り、無事長崎代官所に届けた。
この行為を讃えた代官が、何か褒美をと五郎七に問うと「土地の者も旅人もこの川に橋がないので難儀しており、願いが叶えるなら、川に橋を架けてください」と申し出た。
代官はこの言葉に感動してアーチ型の石橋を架け、五郎七の屋号をとり「三国屋橋」と命名した(日見村史より)と伝えられている。日見宿は川を挟んで200mにあったようだ。

「日見の宿跡」史跡案内板は、現在、国道から網場道へ入り、右の宿町の方へ行ってすぐ「日見宿跡」バス停先のビル角にある。左折すると、ショッピングセンター前に「三国屋跡」があり、その先の日見川に新しい「三国屋橋」が架かる。
「三国屋跡」は近年まで同屋号の古店舗があったが、現在、更地となり近く2階建ワンルーム共同住宅が建つ公告があった。同地にあった説明板によると「三国屋橋」は、「昭和44年区画整理事業により架け替り、橋名だけが残っている」とのことである。

「三国屋橋」の古写真は2枚ある。
最初は、現在の「三国屋橋」脇に最近、設置されている長崎街道さるく説明板の中の写真から。
写真説明には「昭和五十九年三月重要文化財眼鏡橋保存修理工事報告書(災害復旧)」(長崎市教育委員会)撮影年月不詳とある。年月がまぎらわしく、アーチ石橋が撤去されたのはいつかわかりにくい。長崎大水害でなく、やはり昭和44年区画整理事業であろう。

次は、「長崎街道雑記 No.1」長崎街道雑記社平成16年刊の織田武人先生稿「5日見宿 三国屋橋」15〜17頁の資料から。
幕末〜明治10年頃上野彦馬撮影写真(東京国立博物館蔵)と、絵画は日見中学校50周年誌からの写である。
この稿によると、次の文献に日見の石橋の記録がある。「(4)の石橋は、(2)の記録により、天明四年(東浜町安川吉左衛門・今鍛冶屋町林田政五郎両名が架橋寄進を長崎代官に)願出、翌年天明五年(1785)に架設された事になる」と推論されている。
詳しくは「長崎街道雑記」の同稿を参照。

(1)日見村史より(上記内容)
(2)長崎代官手代控ー金井八郎備考録 第一巻より
往還筋并道造之事 日見宿石橋造立之義願候…天明四年十一月
(3)道中日記より 佐久間庸軒著 安政五年十二月十二日…宿中 石ノ太鼓橋有…
(4)長崎県内の橋調査による(明治十五年国道・県道架橋取調より) 宿名 石橋壱ヶ所 …天明五年四月掛カル

ローマ字の橋名を刻んだ一の瀬橋  長崎市本河内1丁目

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ローマ字の橋名を刻んだ一の瀬橋  長崎市本河内1丁目

長崎市の中島川石橋群は有名なため、多くのHPなどにある。ここに取り上げたのは上流部の2橋。かさ上げしている「古橋(中川橋)」は前項で見た。次はローマ字の橋名を刻んだ「一の瀬橋」。
現地へ行った際は、橋の次の点を見落さないように紹介してみる。

「一の瀬橋」は本河内低部ダムのすぐ下にある。市内電車の終点「蛍茶屋」電停から左へかつての長崎街道の道へ入る。電車車庫裏で一の瀬橋が中島川を渡る。
橋の親柱にローマ字で橋名があることは知っていたが、Kazu氏ブログの「長崎の史跡」の項を見たので、一の瀬橋も訪ねてみた。
参 照  http://blogs.yahoo.co.jp/kazu7046/39599623.html

「ICHINOSE BASHI」の表記は、橋の手前と渡った先の親柱2本「一瀬橋」の橋名の上に刻んでいた。しゃれたデザインの彫り。ローマ字はまだはっきりしている。
古橋と同じように、一の瀬橋にも長崎街道さるく説明板が新しく設置されていると思ったのだが、橋自体の説明板はない。前からあった「史跡 一の瀬口 蛍茶屋跡」の説明板だけだった。

これには幕末頃と思われる一の瀬橋の古写真はあるが、簡単な内容の説明板である。橋の詳しい説明も折り込んだ説明板が、必要なのではないだろうか。
古写真と比べ、親柱は形が違い付け直されたのがわかる。
長崎市HP「長崎市の文化財」による説明は次のとおり。

一 の 瀬 口   市指定史跡  

指定年月日:昭和45年10月7日 所在地:長崎市本河内町 所有者:長崎市
一の瀬口は、一の瀬橋を中心とする日見街道の一部をいう。一の瀬橋は、承応2年(1653)唐大通事陳道隆(日本名穎川藤左衛門)が私財を投じて架設した半円形の石橋である。橋名にはローマ字で「ICHINOSE BASHI」とあるが、これは明治20年(1887)ごろ刻まれたものである。
昔は、この付近は樹林が茂り、夏は蛍の名所であり、料亭があったので、いつのころからか蛍茶屋と呼ばれた。長崎を旅立つ人と見送りの人たちが別れを惜しんで酒を汲みかわしたのも、この地であるが、当時をしのぶ遺構は、今では、この一の瀬橋と付近の街道の一部だけとなっている。

ところが 越中哲也先生稿は違う。九州文化図録撰書3「長崎街道」図書出版のぶ書房2002年刊、「天領長崎」72頁に「現在の一ノ瀬の親柱にローマ字でItinose Bashiと刻んである。これは明治15年(1882)、日見峠に車馬の通行できる日本最初の有料道路を造るとき、この橋を出発点としたので、車の便を考え、旧石橋を量上げしたとき、このローマ字入りの橋名を建てている」
日見新道の開通は、明治15年(1882)だから、越中先生のとおりでよいのではないか。

かさ上げしている古橋(中川橋)  長崎市中川2丁目

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かさ上げしている古橋(中川橋)  長崎市中川2丁目

長崎市の中島川石橋群は有名なため、記事と写真は多くのHPなどにある。ここに取り上げるのは上流部の2橋。
かさ上げしている「古橋(中川橋)」と、ローマ字の橋名を刻んだ「一の瀬橋」。現地へ行った際は、橋のこの点を見落さないように紹介してみる。

「古橋(中川橋)」は中川2丁目にあり、新大工通りは一方通行なので、「中川」バス停の鳴滝入口車道側から行くとすぐである。かつての長崎街道に架かった石橋。
中島川の支流、鳴滝川を跨ぐ。石畳道が残り古橋を渡れば「トロトロ坂」が蛍茶屋の方へ続く。
「旧江戸に通ずる長崎街道石畳保存会」が以前に設置していた現地説明板に、古橋がかさ上げし、重量により欠けやすい部分が布石により補強されていることを図示で説明されていたが、わかりにくかった。
最近、長崎街道さるく説明板に新しく設置替えされていることを、Kazu氏ブログの「長崎の史跡」の項により知り、説明板を写しに出かけた。
参 照  http://blogs.yahoo.co.jp/kazu7046/43911012.html

古橋は蔦が少し払われ、かさ上げ部分と以前の親柱もよく写せた。かさ上げした部分の重量だけでも重いのに、今は車も通る。アーチ石橋の堅固さを実感できる市内で珍しく貴重な橋である。長崎市HP「長崎市の文化財」による説明は次のとおり。

古    橋 (中川橋)  市指定文化財

指定年月日:昭和47年6月10日 所在地:長崎市中川町 所有者:長崎市
鳴滝川に架かるこの橋は、桜馬場から一の瀬に通じる長崎の玄関口にあたり、承応3年(1654)唐通事・林寺?(林守壂が正か)が私費を投じて架けた。眼鏡橋から数えて6番目に架けられた石橋で、この頃堂門・玉帯・高麗・一の瀬の各橋が毎年続いて架けられている。
創架後崩流の記録はないが、現在は勾欄親柱等をそのまま埋めこんで、約1mかさ上げしてある。径間5.1mで、この水系最大の石橋であるが、側壁石に入念な仕事ぶりを見ることができる。大正7年(1918)下流に新しく中川橋が架かり、この橋は、古橋と改称された。

ところで、古橋をかさ上げした時期だが、このHPや現地説明板は説明していない。
HP「長崎市観光・宿泊ガイド あっ!とながさき」によると、
「かつては“中川(なかご)の段々”と呼ばれていたようにこの橋から続く坂道は石段だった。側面から見ると約1m近く野石でかさ上げされ、欄干の丸親柱が埋もれているのがわかるが、これは明治初期に車の交通に対応するため敷石が改良されたもののようだ。他に例を見ない貴重なものになっている」とある。
九州文化図録撰書3「長崎街道」図書出版のぶ書房2002年刊、越中哲也先生稿「天領長崎」73頁にも、「中川橋も、石段を坂道に改造したときに一ノ瀬橋同様に量(かさ)あげされている」とあり、一の瀬橋の橋名を、ローマ字入りで「ICHINOSE BASHI」と建て、日見新道が開通した明治15年(1882)ごろのことと思われる。

浦上ダムの岩屋川補水工事  長崎市岩屋町

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浦上ダムの岩屋川補水工事  長崎市岩屋町

浦上ダムには、岩屋川からも補水している。取水口は、長崎工業高校近く。道の尾交差点から入った市道滑石町岩屋町線の谷間を跨ぐ大きな「岩塔橋」の下である。導水管で岩屋中学校横をくぐらせる。出口はJR道の尾駅南の踏切りのところ。「上道の尾橋」の脇にコンクリート暗渠の出口があった。浦上浄水場で聞いたので間違いないだろう。

岩屋川の取水口「岩塔橋」の下から、長崎工業高校横の「かりそこ橋」まで約50mほど、岩屋川沿いにきれいに造った導水路が見られる。先は道路の下となるだろう。
「かりそこ橋」も一見アーチ石橋風で、このあたりの景観となる。
https://misakimichi.com/archives/612

「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊344頁による説明は次のとおり。これは「1週間で工事が完成」とあり、1964年(昭和39)11月当時、緊急補水した工事しかふれていない。
現在、岩屋川の取水施設や導水路は立派なものになっており、後の整備工事をいつしたのか、記録を探すが年表など見ても特に記してないようなのでわからない。

第9章 水とのたたかい  第12節 岩屋川補水工事

1週間で工事が完成
戦後における長崎市の水事情にとって1964年(昭和39)からの6年間は、まさに苦難の時期といえる。特に浦上水系は戦災復興後の給水の需要に配水量が追いつかず常時ピンチの事態が続いていた。1964年(昭和39)11月は「2日に6時間」という最悪の事態であった。
長崎市渇水対策本部は冬場にかけてのピンチを切り抜けるため緊急対策として岩屋川上流をせき止めて長さ372mを200mmの管で緊急補水し、岩屋中学校横を通って浦上水源池へ1日1,000㎥導水する計画を立てた。11月7日に着工、同月11日に完成し翌12日から補水を開始した。…

浦上ダムの川平導水路及び導水トンネル  長崎市川平町

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浦上ダムの川平導水路及び導水トンネル  長崎市川平町

日本は昭和初期頃から軍国主義的な方向へ向い、この影響は長崎にも大きく及んだ。造船を始め軍需関係の工場が多くなり、工業用水の確保と人口増加による給水の対応が急務となった。
第3回拡張事業(昭和16年9月〜昭和20年2月)により完成したのが、「浦上ダム」である。当初は家野郷二郷橋付近に建設する計画もあったが、水質が良く集水面積が大きい浦上川支流の現地点の場所にダムが建設された。

浦上ダムの場所は、滑石峠に源を発する滑石川の下流域大井手川。西浦上小学校前で川平方面から来た浦上川本流と合流する。
従って、浦上川本流の水は川平郷に取水堰を設け、導水路及び導水トンネルによって浦上ダムに導かれることとなり、ダム建設と同時にこの工事は施工された。
ダム下には「浦上浄水場」ができた。配水池は地形と防空的関係から地下に造られ、日本最初のトンネル式配水池となったが、資材と労力不足により未完成となった(鹿尾配水池は完成)。

取水堰は、川平町市営住宅先の浦上川本流にある。導水路は同住宅の裏手をまっすぐに通って、けやき台進入道路の下に導水トンネル入口がある。隧道区間は860m。
導水トンネル出口はダム堰堤先のバス停「浦上水源地公園」の所らしい。ここの公園下なのか、湖面にあるのか、見ることはできなかった。

浦上ダムは貯水量増加のため、1958年(昭和33)に堰堤が1m嵩上げされた。三組川内にも取水施設が造られた。
「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊242頁による説明は次のとおり。

第7章 戦時下の水道  第3節 第3回拡張事業
工事方法
今次計画の第3回拡張事業工事概要を表示すれば次の如し
浦上川水系
水  源  本流導水路 (隧道860m、開渠300m) 支流は直接流入
貯水池  容量1,620,000㎥
堰  堤  混凝土造重力式  堤頂長95m  堤高 河床上17.5m 

水道施設の銘板アラカルト

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水道施設の銘板アラカルト

本河内高部の創設水道完成に当たって、有栖川宮からご真筆の「龍瓶」の二字が下賜され、以来、増設水源地や導水トンネルなどに、水に由来した銘板がはめられた。いずれも、絶ゆることなき清浄の水源を祈念する佳句が選ばれている。
この銘板の設置も、第2回拡張工事で終わりとなった。

「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊209〜210頁による説明は次のとおり。
写真集「’91長崎水道創設100周年 NAGASAKI WATER 100」長崎市水道局平成3年刊89頁には、「水道施設銘板ア・ラ・カルト」として特集がある。
最初の写真は、本河内ダムの創設水道、起工・落成の銘板(明治22年3月起工 明治24年4月落成)

第1回拡張工事(明治33年8月〜明治37年3月)で設置された銘板は、
本河内低部ダム          「水旱無増減」  男爵 伊東巳代治
西山ダム               「寒漿濟我人」  男爵 伊東巳代治
本河内導水トンネル入口     「玉   聲」   男爵 伊東巳代治
鳴滝導水トンネル入口       「英   泉」   男爵 伊東巳代治
第2回拡張工事(大正9年10月〜大正15年3月)で設置された銘板は、
小ヶ倉ダム              「人力通霄漢」  市長 錦織  幹(現存せず)
小ヶ倉トンネル入口         「玉聲珊然 」  市長 高崎 行一
出雲浄水場導水トンネル出口  「噴 玉 洞」   市会議長 重藤鶴太郎
出雲浄水場配水池入口      「滾々不蓋 」  市長 高崎 行一(小ヶ倉公宅裏にあったものを現地点に移設)       

上天草の次郎丸岳・太郎丸岳  上天草市松島町今泉

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上天草の次郎丸岳・太郎丸岳  上天草市松島町今泉

平成20年8月10日、上天草市松島町の次郎丸岳(標高397m)・太郎丸岳(同281m)へ登る。山頂からの展望など。
島原半島と平成新山がよく見えた。山野歩きの項も参照。

上天草の次郎丸岳・太郎丸岳  平成20年8月  

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上天草の次郎丸岳・太郎丸岳  平成20年8月

平成20年8月10日(日)晴。上天草市松島町の次郎丸岳(標高397m)・太郎丸岳(同281m)へ。先日は登山道へかかる麓まで行ったが、時間がなく山頂へ登ってなかった。参加3人。
今泉登山口10時半発ー西辺集落ー太郎丸分れー太郎丸岳ー同分れー次郎丸岳(昼食)ー今泉登山口14時着。

島原半島と平成新山がよく見えた。帰りは国道266号線を姫戸町まで南下。白嶽(標高372m)の山頂展望台へ行った。山頂へは10分ほど歩く。後の6枚が白嶽の写真。

山の神の神木  上天草市松島町阿村

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山の神の神木  上天草市松島町阿村

国道324号線の松島町「合津」交差点から、姫戸町方面へ八代海沿いの海岸を南下する国道266号線へ入る。高舞登山の登り口を過ぎ、阿村トンネルを出たところが松島町阿村である。
阿岳とは、高舞登山とは茶屋峠をはさみ対面にある山。山の神は、阿岳入口から500mほどの小川沿いにあるので、九州自然歩道近くの農免道路により行く。

阿村トンネルを出てカラオケ店ピープルから左折。農免道路へ上がって山腹をかなり進む。
「阿岳さん入口」の次に、「阿村山の神入口」の案内標識が小川の橋を渡った脇にあり、これから5分ほど歩いて登る。
小川の上流に石祠の「山の神」が祀られ、両脇にこの神木が立っていた。

上天草市教育委員会編「上天草市の文化財」平成18年刊25頁による説明は以下のとおり。
市指定天然記念物ではない。祠の右の木、地元でいう「さぶろ」とは、イスノキでないだろうか。
上天草市阿村出張所黒瀬様に調べてもらったところ、山の神は農耕の神様。オコゼや貝殻が好き。「さぶろ」は「ゆす?の木」と地元は言っていた。ジャガイモくらいのチョコレート色の実がなり、中身を出して笛にすることができる。
屋久島にたくさんある木だが、天草には少ない。この木の大木も少なく珍しいとのことであった。

天然記念物  山の神の神木  (松島町阿村)

阿岳入り口から500mほどの小川沿いに、山の神(祭神は大山の神と木花開耶媛)の祠があります。その前に2本の神木が植えられていて、祠に向い左側は幹囲3mの槇、右にさぶろが植えてあります。特に幹廻り1.7mのさぶろの木はまれに見る大木です。