ローマ字の橋名を刻んだ一の瀬橋  長崎市本河内1丁目

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ローマ字の橋名を刻んだ一の瀬橋  長崎市本河内1丁目

長崎市の中島川石橋群は有名なため、多くのHPなどにある。ここに取り上げたのは上流部の2橋。かさ上げしている「古橋(中川橋)」は前項で見た。次はローマ字の橋名を刻んだ「一の瀬橋」。
現地へ行った際は、橋の次の点を見落さないように紹介してみる。

「一の瀬橋」は本河内低部ダムのすぐ下にある。市内電車の終点「蛍茶屋」電停から左へかつての長崎街道の道へ入る。電車車庫裏で一の瀬橋が中島川を渡る。
橋の親柱にローマ字で橋名があることは知っていたが、Kazu氏ブログの「長崎の史跡」の項を見たので、一の瀬橋も訪ねてみた。
参 照  http://blogs.yahoo.co.jp/kazu7046/39599623.html

「ICHINOSE BASHI」の表記は、橋の手前と渡った先の親柱2本「一瀬橋」の橋名の上に刻んでいた。しゃれたデザインの彫り。ローマ字はまだはっきりしている。
古橋と同じように、一の瀬橋にも長崎街道さるく説明板が新しく設置されていると思ったのだが、橋自体の説明板はない。前からあった「史跡 一の瀬口 蛍茶屋跡」の説明板だけだった。

これには幕末頃と思われる一の瀬橋の古写真はあるが、簡単な内容の説明板である。橋の詳しい説明も折り込んだ説明板が、必要なのではないだろうか。
古写真と比べ、親柱は形が違い付け直されたのがわかる。
長崎市HP「長崎市の文化財」による説明は次のとおり。

一 の 瀬 口   市指定史跡  

指定年月日:昭和45年10月7日 所在地:長崎市本河内町 所有者:長崎市
一の瀬口は、一の瀬橋を中心とする日見街道の一部をいう。一の瀬橋は、承応2年(1653)唐大通事陳道隆(日本名穎川藤左衛門)が私財を投じて架設した半円形の石橋である。橋名にはローマ字で「ICHINOSE BASHI」とあるが、これは明治20年(1887)ごろ刻まれたものである。
昔は、この付近は樹林が茂り、夏は蛍の名所であり、料亭があったので、いつのころからか蛍茶屋と呼ばれた。長崎を旅立つ人と見送りの人たちが別れを惜しんで酒を汲みかわしたのも、この地であるが、当時をしのぶ遺構は、今では、この一の瀬橋と付近の街道の一部だけとなっている。

ところが 越中哲也先生稿は違う。九州文化図録撰書3「長崎街道」図書出版のぶ書房2002年刊、「天領長崎」72頁に「現在の一ノ瀬の親柱にローマ字でItinose Bashiと刻んである。これは明治15年(1882)、日見峠に車馬の通行できる日本最初の有料道路を造るとき、この橋を出発点としたので、車の便を考え、旧石橋を量上げしたとき、このローマ字入りの橋名を建てている」
日見新道の開通は、明治15年(1882)だから、越中先生のとおりでよいのではないか。