慶巌寺と名号石  諌早市城見町

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慶巌寺と名号石  諌早市城見町

諫早公園の眼鏡橋から見ると、本明川を挟んで対岸に見える寺が慶巌寺であるので、近くの公園橋などを渡って行く。
慶巌寺は、元諫早村小路(原口町泉野)にあった常楽寺を、二代諫早藩主の室、慶巌院の志願により、慶長10年(1605)今の城見町岩小屋に移転・改築し、寺号を慶巌寺と改めた。諫早領主の帰依寺となり、霊屋廟所が設けられた。

八橋検校ゆかりの「六段発祥地」。諫江八十八ヶ所霊場第十五番札所。
参道の左右崖面の摩崖仏「三十三観音」(別項)は市指定有形文化財。右手には天明7(1787)年建立の芭蕉を偲んだ「翁塚」がある。
仁王門をくぐった正面が本堂で、佐賀鍋島藩の紋「杏葉」が打たれている。諫早家家宝「明珍の鎧」もここに保管されている。
境内左には、県指定有形民俗文化財「慶巌寺の名号石」がある。そのほか水害の慰霊碑や十六羅漢像がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による名号石の説明は次のとおり。

慶巌寺の名号石  県指定有形民俗文化財

指定年月日 昭和56年3月27日 所在地 諌早市城見町15−19 所有者 慶巌寺
碑面中央部に南無阿弥陀仏の名号を楷書で陰刻し、枠の線とともに薬研彫りである。右側に意趣と年紀の銘がある。これによれば、貞和7年(1351)衆生平等利益を祈念して建立されたものであるが、建立にかかわった人の名前と思われる碑面最下部の僧名や建立の具体的動機にかかわる歴史的背景等については不明な点が多い。
しかしこの種の名号石は県下に類例がなく、地方史研究のうえからも貴重である。

この「名号石」は、奇縁があってこの寺に祀られることとなったらしい。
「長崎県の石橋を訪ねて」のHP氏 ” Fwd−net 長崎・諫早 ”の散歩コーナーによる話は次のとおり。
慶巌寺の名号石

本明川に面してあり、諫早公園の対岸にあたる慶巌寺の境内にある。慶巌寺の山門脇に建つ屋根を被せた板碑が、この「名号石」です。
正面に彫ってある「南無阿弥陀仏」の彫り方が、特殊な「薬研彫(やけんぼり)}であることと、年代が貞和7(1351)年であることから、県の文化財に指定されている。

名号石の正面の銘は、下記のとおりである。
右意趣者為法界衆生平等利益也   一結  敬白。
南 無 阿 弥 陀 仏
貞和七年辛卯四月十三日
また、下の方に二十数名の名前が刻んであるようだが、判読できない。貞和七年は観応二年に変わっているのだが、観応の年号を使わなかったのは、後醍醐天皇と対立する南北朝時代なので、北朝の足利直冬が使わせなかったといわれ、諫早地方が当時足利勢の勢力下にあったという、歴史的な事実が浮かび上がってくる。

この名号石は、元々慶巌寺に有ったのではなく、以前は、大城戸(おおじょうご)と呼ばれた現在の諫早郵便局のあたりの小川に渡して、橋がわりに使われていたもの。
ところが、この石が夜になると、怪しい光を出すため、付近の人が畏れて使わなくなり、渡れば祟りがあるとの噂が流布された。
そのため、あらためて調べてみると、石板の裏側に南無阿弥陀仏の銘が読めたので、「墓石だ!」と肝を潰したという。こともあろうに、墓石を橋に使って踏みつけていたと思った住民は、祟りを恐れて供養のために慶巌寺に運んだ。

慶巌寺で「これは、名号石だ」とわかり、境内に祀って、磨耗を防ぐために屋根も設けた。さすがに名号石だけあって、自分で住民に知らせて、慶巌寺に収まったと考えるのは、考えすぎだろうか? でも、そう思ったほうが、楽しい。