晴海台団地上あたりの「みさき道」と「蚊焼村彩色絵図」

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晴海台団地上あたりの「みさき道」と「蚊焼村彩色絵図」

A 晴海台団地の上あたりは、街道がそのまま車道となったといわれるが本当か

一部区間を除いてほぼ間違いない。このあたりは高島が正面に見え海の景色がよい。昔の街道の雰囲気を残す。県立図書館に佐賀藩が作成した各村の古地図があったが、蚊焼村はなかった。あるとき三和公民館ホールの民俗資料コーナーを覗いていたら、展示ケースの中に肝心な地図を見つけた。萬延元年(1860)「彼杵郡深堀蚊焼村彩色絵図」である。複写ものかA3サイズの小さな地図である。原図はどこにあるかわからない。当時の村の様子と道がわかる貴重な地図である。大籠の村境から「みさき道」をなぞると、岳路上の高浜・河原村境までほとんどそのとおりである。この地図は蚊焼茶屋と蚊焼峠の判断にも役立った。

B 県養護学校のところに道塚があったのは本当か

ここは平山方面から蚊焼を結ぶ最短路で小径があったが、街道でなかったようである。このため養護学校のところに道塚が建っていたことは考えられる。ここにあった道塚は、西大道に畑を持つ蚊焼の桑原氏が自分の畑に持っていき、西大道にあった道塚とともに畑の蓋石としていたところ、20年前頃、三和町の関係者によって発見された。西大道にあった道塚は元の場所に戻し、この養護学校の1本は三和公民館に運び展示していたが、平成15年6月三和農水産物加工品販売所「みさき駅さんわ」が公民館前にオープンしたため、12月に説明板をつけてこの入口に屋外展示されることとなった。

C 県養護学校の分岐は、どんな道だったか

道塚はさておきこの小径の道は、長いこと課題を与えた。平山から来ると片田医院から右手へ平山台上タンク地点に登るのが街道である。養護学校は左手上に見えるのになぜ遠回りをするのか。三角形に例えると右辺へ行かず底辺が近道である。実際に平山天満神社の裏手から平山台上グランド右の林を通り谷を上がると開成学園のグランドの左下にでて養護学校正門のカーブ地点に出るのである。団地内は道が喪失しているが、開成学園の敷地内は許可を得て道跡を確認した。立派な道跡があった。
解決したのは、関寛斎の帰路の記述である。蚊焼茶屋から長崎道分れは半里ばかり。ここは茶屋の位置が遠くなっても1.5kmしかない。そして八幡山峠とする新田神社は見えない。明治地図を手に入れるとやはり小径でしかなかった。しかし蚊焼の人が平山を通って長崎方面に行くのによく使われた街道並みの道でなかったろうか。