西大道・元松尾の「みさき道」道塚と「三和町字図」による字の境
A 西大道の道塚地点は、岳路みさき道との分岐か
晴海台団地の上を過ぎ、そのまま直進して鮨の市衛門から90m位行き、右手の畑道に入る。桑原氏の畑はここである。この先すぐ道は二手に分れ、ここに道塚が建って「みさき道」は左を指し車道上沿いを行く。一方、右手の道は畑の中をだんだんと下り、いったん晴海台と松尾への車道に出、墓地脇からそのまま住宅の中の小径を蚊焼小学校の正門まで下る。この道は蚊焼大川沿いに岳路へと続いているのである。
岳路海水浴場バス停下に「みさき道」の道塚があることから、岳路に真直ぐ続くこの道の分れを、海沿いを行く「岳路みさき道」の分岐でなかったかと推定したわけである。明治17年信教の自由が認められても、カトリック教会に復帰することに反対して善長から岳路に移住した人は、先祖の墓が善長にあるため、この道を通って墓参したし、八幡社の祭礼も昭和7年頃まで守ったと言われる。
B 字名の「西大道」とはどういう意味か
平凡社「長崎県の地名 日本歴史地名体系43」58頁の「御崎道(みさき道)」の説明によると「正保2年(1645)長崎代官末次平蔵のもとで国絵図作製のために村境が定められるが、「野母道」「大道」などするのが(「御書其外書抜」菩提寺文書)、当道に相当する」とある。
「御書其外書抜」をこれ以上調べるすべは知らないが、「大道」は「みさき道」に関係してつけられた字名と思われる。ただ、この「西」「東」は、みさき道の「大道」が西回りと東回りとあると考えられかも知れないが、そうではないようである。三和町の三村(蚊焼・為石・川原)では、広い字は便宜的に二つに割っていることが多く、字の方角で例えば「東」「南」とかも出て来る。一番多いのはやはり「東」「西」である。深く考える必要はないようである。
平山台上タンク地点からこの道塚まで字名は、「東国安」「赤道」「東下り道」「東大道」「西大道」となる。すべて道に関係してつけられたと思うが、「東下り道」は開成学園前の晴海台側斜面である。「みさき道」がここから下ったという意味でないようである。今は埋立て晴海台団地となった谷間へ下る道があった意であろうと思う。
土井首村のダイヤランドから鹿尾川の渡り場まで、同じように字「古道」「大道」がある。団地が開発されると従来の字名や境が変わる。今のうちにこういった資料は調査しておく必要がある。思えば「みさき道」のルート探しは、ダイヤランド・鶴見台・平山台・晴海台と団地巡りの感じがする。
C 字の境はどうして決められたか
ただ関心するのは、この先秋葉山側の三和史談会が設置した「みさき道」看板のある長阪入口まで、このあたりは見事に字の境が「みさき道」となっているのである。正保2年国絵図作製のため村境が定められたと先で記したが、村の中の字もこのとき同時にある程度が定められ、その境として主に使用されたのは、やはり当時不動と考えられた街道の道や山の尾根・谷・川でなかったろうか。
従って、時代がさがり道が変っても、今の字境が古道であったことが多い、とも言えるのである。ここで得た教訓は、岳路の道塚判定に生きた。なぜあの場所にあるのか。上の道路の工事で滑ったのでないかと不思議であった。その時はまだ蚊焼村古地図は資料として持たなかったが、字境図を見るとちょうど三つの字境に建っていたのである。この字境が古道であったと推測された。後で蚊焼村古地図と明治地図が手に入り確認すると、そのとおりであった。
D 蚊焼に道塚がなぜ多いのか
「みさき道」の道塚はこの西大道のほか、国道に出る手前、元松尾にもある。蚊焼に現存する道塚は岳路も入れると4本である。このほか蚊焼で道塚があったとされるは、次のとおり8箇所である。
①平山台上タンク地点 ②国道から古茶屋坂登口(桑原組倉庫裏) ③同坂途中の鳥山宅前 ④草積祠先島村宅角 ⑤蚊焼峠推定地点 ⑥妙道尼信女墓付近 蚊焼桑原兄夫婦の記憶談 ⑦平山台の裏口三叉路 ⑧蚊焼上防火水槽付近 中島氏「野母半島みさき道図」説明から
考えられるのは、蚊焼は「みさき道」のちょうど中間地点に当り、深堀と平山方面から両方の道が交錯していること、そして先も徳道回りか岳路回りか、詳しい地図などなかったためと思われる。このあたりは都市化が及ばない山間部であり、船で長崎から蚊焼へ石を運びやすかったこともあるかも知れない。蚊焼を主に調べた結果のため数が目立つが、他の地区でも聞けば出てくるであろう。
蚊焼は、深堀菩提寺の末寺地蔵庵が古くからあり、明治13年寺として独立。地蔵も多い。