江川はどうして渡ったか。末石橋地蔵堂の建立由来書きとはどんなものか

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江川はどうして渡ったか。末石橋地蔵堂の建立由来書きとはどんなものか

A 江川はどうして渡ったか

江川へ入る道はこのほか街道をそのまま進み、落矢川沿いと太田川沿いに入る道がある。それはわざわざ遠回りでないだろうか。そして二つの川は江川河口で合流する。今のジョイフルサン前の江川橋は川幅が広く橋はなく、ここは小さな入江となっていた。いずれかの入る道を通ってこの江川河口に来てこの川の合流点を二本の小橋で渡る。この辺りは地蔵が多く、地元の人がそう言っている。
小魚や烏賊を刀で切り獲った小渚は、ここ江川河口ではないだろうか。
橋を渡るとバイパス末石橋脇の地蔵堂がある。中を覗いて貴重なものを発見した。夕暮れどき川端で殿様の行列を横切った天草古着商人が切られ、それを弔う建立由来書きがあった。ここは間違いなく深堀道の道筋であった。

B 末石橋地蔵堂の建立由来書きとはどんなものか

深堀バイパスを行きマリンセンターから水産高グランド下の大田川に架かる末石橋の右手脇に地蔵堂はある。以前は川端にあったらしい。「文久三年建立。四国第十九番立江寺本尊延命地蔵。平成元年八月移転建立」。左壁面にいかにも手作りで、横長のベニア板に黒のマジックでそのまま書いた由来書きが取り付けられている。全文は次のとおり。
独特の節回しの文章は読んで楽しく、しかも重要であった。深堀の殿様行列を横切った天草古着商人が切り殺され、その菩提を弔うため長崎市籠町中村雪女の建立とある。同女と商人の関わりやこのマグック書きは誰が書いたか興味をそそる。
この近く末石公民館の所に勢至地蔵堂があるが、「みさき道」はそこは通らなかったようである。末石の海岸は当時断崖で、海岸に道はなかったと考えられる。

末石橋地蔵堂の延命地蔵建立由来書き 地蔵堂内壁面に板書き取り付け

「今から百三十五年前、文久三年の亥の年二月吉日に現在地に地蔵菩薩を建立した。地蔵菩薩の由来とは、昔佐賀鍋島侯と深堀侯の参勤交代行列の際、天草の古着商人が通りがゝり日暮の頃であるし、行列の前を横切りそのため家来に取おさえられ、殿の御前である、無礼だ、名をなのれと」
生れは、天草(「蓮ノ池」と添え書きあり)塩田のそだちで、首のおちるは、この小川」それから夜毎道行く人の灯りを消し、袴のすそを引張り、エッサ、ホッサのかけごえで世の人をおびやかすので、菩提を弔うために 長崎市籠町 中村雪女 の建立されたのである」(原文のまま 平成10年記か)