小ヶ倉バイパス下「お水場」が、「みさき道」の道筋だったか。

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小ヶ倉バイパス下「お水場」が、「みさき道」の道筋だったか。

小ヶ倉バイバスの途中、「南長崎スイミングクラブ」(小ケ倉町2丁目)右横に、「御崎道」を説明した立派な石碑があると、宮さんが先日、訪ねていた。
http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28176382.html
バイパスは良く通るが、バイパス開通記念碑くらいに思って、注意して見たことはなかった。
碑文が気になるところがあり、私も確認してきた。地元の老人会・自治会関係の篤志な方が、平成元年に建立した碑である。碑文は次のとおり。

碑  この丘に立ちて
江戸時代、この地は「御崎道」と呼ばれる街道が通じていて、脇岬の観音寺へ参拝する人たちや、深堀の侍たちが休息し、水を飲んだ場所である
御崎道は、長崎、脇岬間七里(ニ八k)の行程で、この上の峠には一軒の茶屋が設けられていた
現在でも残る一本の「みさき道」と刻まれた道塚に、多くの旅人で賑わった頃の事が偲ばれるのである。現在この地は戦後のあいつぐ都市計画によって、一大ニュウタウンとしてめざましく発展しつゝある(以下、略)

碑が建つバイパス道下の橋脚の場所に、昔から「お水場」と呼ばれる所がある。水源は「長崎市上下水道局用地」となっており、地元のため「長崎市立 老人憩いの家 お水荘」が建っている。「お水場」を「御崎道」の道筋とし、説明するため建立された碑のようである。
しかし、これは現在、大型団地となっているダイヤランド内の「みさき道」の道筋について、誤解があるだろう。

長崎医学伝習所生「関 寛斎」日記の文久元年(1861)4月3日の記録は次のとおり。
…小ヶ倉の入口にて小憩す、右に笠山岳あり此より加能峠にて、やうやう下る五六町にして平地あり、望遠鏡を用ふるに最も佳景なり、直下は小ヶ倉港内の小島眼前に見え、西南は西海緲々たり、加能の下り口は海面に張り出し眺望尤もよし、南岸の砲臺或は隠れ或は顕る、西岸に彎あり突出あり。下りて一彎に出で岩上の奇岩を渡り一の間路を行く…

小ヶ倉小学校創立百周年記念誌「小ヶ倉のあゆみ」昭和53年発行の、四、ふるさと史料 79〜80頁の説明は次のとおり。
(7)御水の池
塩谷川の上流、現ニ号バイパス橋下、ニ丁目団地自治会公民館前の一角にあった。佐嘉藩主鍋島公が軍船用のために堤を築いて貯水したとも、また深堀鍋島公が茶水用に築堤したとも伝えられるが定かではない。築堤があったことだけは事実であるが、ニ丁目団地の造成によって現在はその痕跡もない。ただ清澄な清水が枯れることなく流れている。この清水も早晩その姿を消すことになりそうだ。哀しいことである。鉄分を含有し、道の尾温泉に類似の冷泉ともいわれる。
(注)築堤は嘉永年間と伝えられ、面積約八十坪ほどだったという。また所在地の字名を下獅子渡との記録もあるが、これは下猪渡の誤りであろう。小ヶ倉の旧字名に類似のものとしては上猪渡、下猪渡の二つがある。後日の考証を期待したい。

両資料のとおり、「お水場」が「みさき道」の道筋だったとはほとんど考えられない。本ブログの次の記事を参照。文久元年や明治34年の街道地図にも表れていない。
https://misakimichi.com/archives/393  ほか。詳しくは研究レポートを。
実際に歩いてみるとわかるだろう。水は小ヶ倉峠の「源ネン茶屋」や「鹿尾川渡り」で補給できたのに、なぜ途中で、水場のため大きく下ったり、登ったりする必要はない。

4枚目は、ダイヤランド入口近く高比良園芸(小ヶ倉峠源ネン茶屋跡)道角にある力士墓と御崎道の碑。ここのは問題ない。後ろの写真もダイヤランドから。