峠入口の「蚊焼茶屋」と「蚊焼峠」はどこか

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峠入口の「蚊焼茶屋」と「蚊焼峠」はどこか

A 現在の国道蚊焼入口付近は、当時どのようであったか
詳しいことはわからないが、ここも峠と言われ、元松尾の道塚から真直ぐ来ると鞍部にあたり、道塚があった。栄上からは今の国道沿いに小道はあったが、体育館の所に大きな岩があり、当時はまだ主要路でなかったようである。明治以後整備されてだんだん通れるようになったのではないか。今の蚊焼入口バス停横の武次宅のところに茶屋があり、「みさき道」から下って休んでいたと聞いた(蚊焼桑原兄夫婦談)。浦歯科の谷から水はあったと思われる。
普通はここを蚊焼峠と考えがちだが、関寛斎の日記はそうでない。茶屋は峠の入口にあって、そこから長崎の港口と沖の諸島が見えなければならない。武次宅は尾根の反対側に下ったところにあり景色は見えない。これはこの道がメインになった大正の頃の話と思われる。
当時の蚊焼峠は別の場所でなければならない。二子嶋の力士墓は元々はどこにあったか。道路を開くためここは切り通しになっている。力士墓は支障になるため、すぐ脇の道路上に移したのとも考えられる。今はまた地蔵寺の国道下に移され目立たない。

B ここより坂を上りつめた桜の木のある平地に蚊焼茶屋はなかったか
ここは景色がよく道塚があったということで、従来、蚊焼茶屋があったと推定されていた地点である。すぐ横に町の防火水槽タンクがある。関寛斎の日記は、茶屋は「峠の入口」である。今の国道蚊焼入口を蚊焼峠とすると、ここは峠をすでに過ぎたところである。疑問はこれから始まった。
字名を確認するとここは「女男岩」で「古茶屋」は別にある。字「峠」もすぐ近くにあった。茶屋には必ず清水がなければならない。井戸は簡単に掘れない。町のタンクの脇に井戸らしきコンクリート囲いがあったが、これは送水口である。
蚊焼の土地所有者に念のため聞きにいった。茶屋とはなにも関係なかったのである。

C 峠入口の蚊焼茶屋はどこか
では、蚊焼茶屋はどこか。字境図で調べると「古茶屋」は道の左側である。次に「峠」があり「川原道」と続く。先の地点から約100m先に三和グリーンタウン入口があり、その先はナンパンギセルの群生地で「草積祠」がある。なぜ草積祠はここにあるのか。ここらあたりが茶屋でなかったか。
幸いなことにちょうどここを蚊焼の山村氏が畑とするため切り開きをしていた。この中段に不思議な石組みがあった。茶の木が多く小さな川跡が側にある。そこに立つと眺望はそっくりである。峠の入口にあたる。最も重要なのは、関寛斎が「清水で喉をうるおし」た(日記原文では「喫水」と判明)ことである。
グリーンタウン入口から焼却場へ行く道路を横切って大きな側溝がある。水音がするし何の気なしに覗くと、こんこんときれいな水がこんな晴れた日にかかわらず団地側から流れてくる。側溝をたどると一番奥の山口宅からであった。そこは先の川跡の奥にあたる場所である。団地を造成したため水脈が変わっていたのである。三和公民館展示コーナーで見つかった萬延元年蚊焼村図は、近くでそこだけ水田地であった。現地は後から田の水の取入口も確認された。
峠入口の蚊焼茶屋は草積祠右上段にあるこの石組みの地と考えられる。

D 蚊焼峠はどこか
蚊焼地蔵寺(当時は深堀菩提寺の末寺で地蔵庵といい村中にあった。現在地移転は大正14年)から上ってきた道は、先の蚊焼茶屋の少し先から「みさき道」と同じとなって、四太郎の鞍部を越し為石・川原と抜ける。この鞍部が峠で字名に「峠」や「川原道」が残るとおり、ここが当時の「蚊焼峠」である。この峠から為石へ椿が丘団地の上に出、また川原への出る道がある。
当時の最短路でありメイン路であった。これは明治、大正時代まで続き、両地区では長崎方面に農作物を出荷する際は、主に里道を通って蚊焼に出て、長崎に毎日1往復する船を利用していたとある(「三和町郷土誌」交通編・町制50周年記念誌「さんわの足跡」)。川原道の名残りは、まだ橋の山配水池や元焼却場下の山中に残り、地蔵も立っている。
この蚊焼峠にも「みさき道」の道塚があったらしい。峠の先は竹薮となって今まで歩けず、外港工業工場などのある車道を通っていたが、峠から竹薮を切り開くと立派な道が出てきた。畑に出るとそのカーブした車道を横切り、三和史談会が平成12年4月設置した「みさき道」入口看板から徳道へ長い山道に入ることとなる。