野母崎町「野母崎町郷土誌」から観音寺・殿隠山・権現山など 昭和61年

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野母崎町「野母崎町郷土誌」から観音寺・殿隠山・権現山など 昭和61年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。野母崎町「野母崎町郷土誌」改定版 昭和61年から、(2)御崎観音寺禅寺、(3)高浜の八幡神社(殿隠山関係)と、遠見番所や関寛斎の野母権現山記録関係。野母崎町などは旧町名。

この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行121〜122頁ですでに紹介済み。写真は、祇園山から見た高浜海水浴場・殿隠山・遠見山と、野母権現山から見た野母全景の昔(昭和34年撮影 軍艦島資料館展示)と今、長崎方面。

野母崎町 「野母崎町郷土誌」 改定版 昭和61年

(2)御崎観音寺禅寺                133頁
(略)弘安4(1281)年、蒙古来襲のときに、この円通山から霊火が飛んで、南北に10里あまり連なり、陸へ上がることができずにいるうちに暴風雨が吹いて船は沈没した。これらの船は折重なって瀬になり、今でも残っているという話がある。(略)
野母崎に残る話は、九州西方の海域が江南部の進攻、退去の経路となっているので荒唐無稽と片付けるわけにはいかないので言い伝えのとおり収録した。(略)
また同寺の年表359頁の中に「1611 慶長16年 長崎のキリシタン本堂を襲う。」とある。

(3)高浜の八幡神社(殿隠山関係)     140〜141頁
(略)以上のように高浜は江戸時代、かなりはっきりいたにもかかわらず、深堀、高浜氏の名を使わず、三浦姓だけにとどめようとしている。深堀能仲と系図にはあるのに三浦能仲でとおしている。そして、源氏ゆかりの三浦氏でなく、平家落人としての三浦氏を表に出したいようにも受け取れる。殿隠山という名にこだわったのだろうか。これは「トノガクラ山」の訛ったものであると考える。狩倉というのは「中世、地頭領主が独占し、百姓の用益権に制限を加えた広大な山野」(柏書房〈日本史用語大辞典〉)をいう。深堀町の東、鹿尾川の京太郎町付近にあった京太郎狩倉と同じで殿(領主)の狩倉の意味であろう。殿隠山の落人伝説が架空なものとなれば、あと古里から高浜へ発展は深堀時綱が正安3(1302)年に惣領家から「あぐり高浜」を譲与され、その子政綱の時、高浜本村を与えられた高浜氏の発展が背景にある。
高浜では、はっきりしていることを隠して、古老伝説としてぼかしている。大正7年、郷土誌を編集する時、編者も同じ疑問を抱いていた。何故ぼかす必要があったのか。一つは天領と佐賀藩とはっきり区分する必要があったのか。(略)

1 野母崎町史年表(近世編)       249頁・264頁
1638 寛永15 松平信綱は島原からの帰途長崎に入り、外国船の入港に対する警報機関として、長崎の斧山(のちの烽火山)山頂に狼煙台、野母日野山(現:権現山)に遠見番所を設置させた。
(この注記中)(略)また、佐賀藩では脇御崎の鷹鳥山(銅山=堂山)山頂に遠見番所が設けられ、その外に高島や伊王島にも設けてあった。脇御崎遠見番所は高島に伝え、高島は深堀に送り、深堀は大黒町の佐賀屋敷に伝えて、そこから、長崎奉行所の立山役所に送る仕組みであった。そこで、天領側と佐賀藩側とどちらが早く伝わるか、競争となるために、野母の遠見番所では、佐賀藩に信号が解らないよう、時々合図の方法を変えたという。(略)

(注) 遠見番所は元禄元年(1688)頃から、白帆船注進に変わり旗で合図するようになっている。佐賀藩蔵屋敷跡は五島町寄りの長崎駅前交差点あたり。
殿隠山の狩倉というのが「中世、地頭領主が独占し、百姓の用益権に制限を加えた広大な山野」とすると、一般人の入域を制限したとも考えられる。遠見番所のあった遠見山といい、この辺りのルートは古地図や字図調査でも不明で、なお検証の必要がある。

「野母崎町郷土誌」は「みさき道」の記述はない。同年表264頁に次があるのみである。前掲の脇岬江上氏の資料も参照のこと。

1861 文久1 4月3日 長崎遊学中の関寛斎(のちに医者)、長崎—戸町峠—加能(鹿尾)峠—小ヶ倉—深堀—八幡山峠−蚊焼峠—長人—高浜—堂山峠—観音寺のコースで歩く。
4月4日 棚瀬をみて野母権現山の遠見番所へ行く。帰途は高浜を通り長崎へ向う。この日記の特徴は歩くコースがよくわかること。(長崎談叢19輯)

(注) 関寛斎一行が4日、棚瀬をみて「野母権現山の遠見番所へ行く」とあるが、これは同年表編者の誤りであろう。日記の関係文の前後は、「北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、由つて只一望のみにて漁家にて喫茶す」とあり、この後に「南西に高山あり」と野母権現山の説明が続き、野母を「五ツ半(今の午前9時頃)時発足し」た。「只一望のみ」とあり北風が強い日で朝の時間的に無理であろう。