東長崎の散策 (17) 牧島の風景・史跡 長崎市牧島町
西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。
東長崎の散策(17)は、牧島の風景・史跡。橘湾沿岸の戦争遺跡の項「特攻基地牧島 ルイズ・ルピカールさんの記憶」を参照。 https://misakimichi.com/archives/126
くしくもきよう6月23日は、沖縄戦終結から64年の日だった。
現在の牧戸橋と前吊橋牧島橋の遺構、陸続きとなっている釈迦島、矢上小学校牧島分校の跡地、穴弁天の出入口と洞内の子安明神、牧島漁港、東方の湾口池下・大門方面を望む、外洋側の津島、魚見岳台場跡、牧島宅のヤブツバキ大木、池の神神社、国指定史跡曲崎古墳群、修学旅行生のペーロン体験施設艇庫、終戦間際につくられた牧島震洋特攻基地跡、もう1ヵ所の基地跡付近、基地へ入る切宮岬の湾口
長崎学さるく江越弘人先生作成資料による説明は次のとおり。
写真 1〜 牧島と牧島橋・牧戸橋
江戸時代、佐賀藩諫早領の牧場があったので、この名が付いたといわれている。江戸時代には、馬番として10戸あまりの人家があるだけであったが、明治になって戸石村から50戸が入植し開発が進められた。
対岸の戸石地区とは100m余りの狭い瀬戸で隔てられていたが、昭和35年に吊橋「牧島橋」が架けられた。昭和44年には車も通れる「牧戸橋」に架け替えられ便利になった。現在、牧戸橋の横に、牧島橋の記念碑や遺構が残されている。
写真 3 釈迦島と釈迦坐像
今では陸続きになっているが、かつては松樹が生える小島であった。頂上に釈迦牟尼の坐像がある。…
写真 5〜 穴弁天
昭和48年に発行された「長崎県郷土誌」という書物に、牧島の「穴弁天」が名勝として紹介されている。それによると「穴弁天は牧島の西端海岸にある海蝕洞である。洞窟入口の苔むした鳥居を潜って洞内に進めば一歩ごとに暗く、三四十メートルも進めば前後も弁ずることができなくなる。延長実に百メートル余に及んでいる。洞窟の尽きるところに子安明神が祀られている。弁財天と言われいわゆる生殖器である…」とある。
今では、洞窟前の海岸は、埋め立てられ工業用地となっている。少し前までは、洞窟の入口が削り取られ、付近はゴミ捨て場同然となっていた。現在は、環境も整備され洞窟にも入れるようになっている。
写真 11 牧島台場跡
…文化4年(1807)の「エトロフ事件」…に衝撃を受けた幕府は、「ロシア船打払い令」を出し、日本各地に台場を増設した。佐賀藩の諫早領でも牧島、田結、江の浦、有喜などに台場を設けた。牧島には黒瀬と魚見岳の2ヶ所に置かれたが、石火矢の大きさなど詳細は不明である。
なお、安政3年(1856)にアメリカ船イブリエント号が橘湾に入り込み日見村の網場沖に停泊した時には、黒瀬と魚見岳台場には、それぞれ武士(石火矢打ちの侍)4名と下役(足軽)4名が配置された。
写真 14 池の神
「いけんかみさん」と呼ばれており、小さな岬の海の側に、小さな池がある。池の側には竜宮が祀ってあり、どんな日照りでも池が干上がったことが無く、また塩辛くないと言い伝えられている。しかし、土地の人に尋ねてみると或る人は「(ま)水」と言い、或る人は「塩水」と言っている。舐めてみると結論は早いが、それにはかなりの勇気がいる。
写真 15〜 曲崎積石塚古墳群
曲の礫丘の上に築かれた積石塚古墳群である。積石塚とは、古墳の墳丘を土ではなく礫石で築いたもので、北九州地方の安曇海人族の墓制であるといわれている。昭和51年に調査が行われ、99の積石塚と500に及ぶ性格不明の遺構が発見された。
発掘調査が行われたのは2号墳と3号墳で土師器や管玉、ガラス玉などが採集された。4号墳は未調査であるが、周囲から須恵器や土師器の壺や杯などの破片が見つかっている。