亀石と人面岩? 烽火山の珍しい石  長崎市鳴滝3丁目

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亀石と人面岩? 烽火山の珍しい石  長崎市鳴滝3丁目

この記事は、本ブログ烽火山の項の書庫から、再掲。次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3345
烽火山は長崎市東部の山、標高は426m。異国船の侵攻を近国に知らせるため、寛永15年(1638)から烽火台が築かれ、山頂に現在残る「かま跡」は長崎県指定史跡となっている。

「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」(昭和13年発行、昭和42年再刊)の烽火山御番所の項、534〜545頁に烽火山に関するおもしろい記述がある。
「烽火山十景」においては、「延宝六年時の長崎奉行牛込忠左衛門は好学の士で南部艸壽、彭城宣義、林道榮等の碩儒を延ひて廔佳筵を開き議して烽火山十景を定めた。即ち
染筆狐松  飲澗龜石  廻麓鳴瀧  積谷清風  罨畫奇巒
潮汐飛颿  漁樵交市  崎江湧月  碧峰夕照  高臺雪鑑」である。
市史発行の昭和13年当時すでに「此の内で龜石の所在が判らない」。

蜀山人の詩碑「南畝石」は、山頂かま跡広場の西隅に所在がわかり、後日、また再訪したとき、その「南畝石」のすぐ下側に、道から振り返り眺めると、亀がまっすぐ首を伸ばした格好の大きな石があった。写真のとおりの石で、甲羅、手もまったく亀としか言いようがない。
烽火山十景の二番目は「飲澗龜石」と記す。「飲澗」とは「水を飲んで喉を潤している」という意味の形容ではないだろうか。まさにその格好をした「龜」の石があったのである。
疑問なのは、ここは山頂すぐ手前の道上で目立つ場所。こんなところに石がありながら、「長崎市史」の著者は、昭和13年当時すでに「此の内で龜石の所在が判らない」と記している。はたしてその「龜石」だろうか。写真から判断を仰ぎたい。

次は烽火山の山頂東にあるという「人面岩」。長崎文献叢書第二集第二巻「長崎古今集覧 上巻」は、文化八年(1811)、かの松浦東渓が60歳頃著したもので、森永種夫氏の校訂により昭和51年発行されている。
「七面山権現祠」の項451頁に「長崎図志云、人面岩、在烽火山東、奇峻形甚恠」とある。烽火山の「人面岩」はこのとおり長崎図志、長崎市史などに記録されている。「人面岩」は山の東にあり、形ははなはだあやしいらしい。

山頂かま跡広場の西隅に蜀山人の詩碑「南畝石」がわかったので、別の日、妙相寺から登ったとき探してみた。すなわち山の東である。頂上に出る100mほど手前、急坂の道脇にあった。あまり大きな岩でない。倒木が邪魔して写真がうまく撮れない。しかし、これに間違いないだろう。少し下の角石に小人面の格好があったのも愛嬌である。