月別アーカイブ: 2009年6月

東長崎の散策 (15) 戸石の風景・史跡  長崎市戸石町

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東長崎の散策 (15) 戸石の風景・史跡  長崎市戸石町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(15)は、戸石の風景・史跡。上戸石町は次項へ。

島原街道の戸石馬頭観音、同一里塚(墳)跡、長崎市東公園内の東工場、コミュニティプール、コミュニティ体育館、吊橋牧島橋ができる前の毛屋の浦の渡し場、牧戸橋と戸石グランド、あやめ東幼稚園、同正門と園庭のアコウ、戸石漁港、漁港の戸石神社鳥居、戸石神社、長崎市戸石地区事務所・地区公民館、戸石の六地蔵塔(長崎市有形民俗文化財)、金毘羅神社鳥居の所の六地蔵塔、戸石の金山坑口跡、といし保育園、長崎市立戸石小学校

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  1〜    戸石馬頭観音 施主 江の浦 田結 戸石 矢上文久2年(1862)3月吉日
写真  2     一里塚(墳)跡
写真 15〜    戸石の六地蔵塔(長崎市有形民俗文化財)
・六地蔵石幢(せきとう)〜石で造った旗・標識・幟のことで、石灯籠の火袋の所に六地蔵を刻んだものと思えばよい。
石の柱を立て、その上部に仏刻む〜単制。石の柱を支えとして、別に刻んだ石仏を載せる〜重制。その他に、六組型〜赤迫の六地蔵
・戸石の六地蔵は、重制の佐賀型六地蔵。上竿石に円・角・月形の彫り抜きがある。
・慶長9年(1604)の銘。九譽天心禅定門霊位 干時 慶長九天甲辰閏八月吉日
島原の乱(1637〜1638)後、この地に宝瑞庵が建てられたという。 

東長崎の散策 (14) かき道の風景・史跡  長崎市かき道1〜6丁目

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東長崎の散策 (14) かき道の風景・史跡  長崎市かき道1〜6丁目

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(14)は、かき道の風景・史跡。長崎県住宅供給公社が開発した大型団地「矢上団地」ができている。

有料道路の矢上大橋と料金徴収所、八郎川の河口と突堤、蛎道公民館横の海岸埋築紀念碑、八大龍王神社の鳥居と祠、元八大龍王神社のムクノキ、昔の海岸恵美須、楠公神社の大楠、矢上団地近隣公園、同稲荷大明神の社叢林、スタジイの大木、矢上普賢岳の中腹から見た矢上団地と長崎市立橘小学校

東長崎の散策 (13) 東町の風景・史跡(矢上普賢岳)  長崎市東町

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東長崎の散策 (13) 東町の風景・史跡(矢上普賢岳)  長崎市東町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(13)は、東町の風景・史跡(矢上普賢岳)。標高439m。
山頂まで1809段続く石段登りは有名。石段の奉献は昭和初期が多い。侍石の登山口から山頂まで1時間30分は要する。眼下に矢上、牧島、遠く天草、雲仙の眺望が良い。

矢上大橋入口から普賢岳を望む、侍石の普賢岳登山口、本来の参道鳥居、山道入口の「普賢道」標石、中腹から見た矢上団地、白龍神との分岐、白龍神の堂、同地の観音菩薩と龍神、普賢菩薩の由来碑、高く続く石段、石段の奉献石、普賢神社、本殿の内部、神社へは岩穴をくぐる、諫早八十八ヶ所第七十番札所、大岩壁の不動明王像、同白衣の観音像、観音岩場から望む牧島と矢上方面、普賢岳山頂、彩が丘団地の北西尾根登山口 

東長崎の散策 (12) 東町の風景・史跡  長崎市東町

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東長崎の散策 (12) 東町の風景・史跡  長崎市東町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(12)は、東町の風景・史跡。八郎川の東岸の町。長崎街道が通った。矢上普賢岳は次項へ。

長崎市矢上浄水場の取水口、藤尾の江戸道、矢上平野にあった明治県道の標石(移設)、役の行者、楠川渡瀬(楠渡瀬)、境界石標と台座石、現川焼関係瀬古の石祠石仏と同窯壁跡、彩が丘団地、多良見経ヶ岳、侍石7.23水害記念碑、侍石の由来石、侍石神社

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  2〜    藤尾の江戸道     清水山と藤尾〜清藤地区
写真  5〜    役の行者        役の行者石像の伝説
写真  6〜    楠川渡瀬(楠渡瀬)
写真  8〜    境界石標と台座石  従是南佐嘉領台座石〜地伏石2個の上に石標が立つ
写真 18〜    侍石と侍石の地名  由来①平家の落人説〜大石に旅の疲れを休め〜侍石 ②島原の乱後大石の上で自決した〜その石が侍石
写真 19〜    山の神と侍石神社  延享元年(1744)正月28日 野口園右衛門

長崎の古写真考 目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
2、3は、前香焼町の所蔵写真と思われる。

目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)

上記について、まず次項を参照。 https://misakimichi.com/archives/1535

「長崎市制120年のあゆみ」企画展は、プレ企画展として、長崎帆船まつり期間中(4月23日〜27日)に、長崎県美術館で開催した後、5月1日〜31日には長崎市歴史民俗資料館を会場に、120枚のパネル写真や映像、資料などで長崎市の120年を振り返っている。
6月以降は地区巡回展として、平成17・18年に合併した7地区で開催されている。きのうのテレビ中継で〔香焼地区〕が香焼公民館1階ロビーで開催されていることを知り、夕方に見学に行った。展示のパネル写真などで気付いたことを3点。

1 目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)
企画展の写真説明文は、写してきたとおり。説明文は企画展のため新しく作成されている。長崎市広報広聴課が、業者へ委託して作成されたパネル写真なので、業者側の手配によりしかるべき執筆者に依頼し、監修を受けて説明された文と思われる。
上記で参照した資料「茂木商工会30周年記念誌」平成2年刊の44〜45頁て見てもらったとおり、茂木には2つの同じような名のホテルがあったのを、混同して説明している。
展示写真と潮見崎にあったのは、「松柏楼」となったホテル(現在は、新田の高崎湯裏の土地)である。「昭和41年廃業後は会社の寮として使用されていたが、所有会社の倒産により昭和56年に解体された」は、最後は大長崎建設建和寮として使用された道永エイが建てた弁天崎の「茂木ビーチホテル」(現在は、弁天橋そば「Sマート茂木店」が建っている)の方と思われる。
なお、茂木町「裳着神社の由緒」説明板に、茂木ホテル(後のビーチホテル)の古写真があったので、最後に追加した。両ホテルの造りを良く見て判断してもらいたい。

2 川南工業香焼造船所の前身、「松尾造船所」の創業年
〔香焼地区〕独自の展示で、次とも「造船のまちの幕開け」のパネルがある。説明文に「長浜鉄工場(松尾造船所)は、明治35年(1902年)に進出した最初の造船企業」とある。
手持ち資料”世界の船舶 2006.11”の船の科学館飯沼一雄氏稿の中、151頁「■松尾鉄工場の復興」によると、「日清戦争を契機に艦船修理にはより大きなドックが必要と感じ、新たに香焼という小島に3,000トンの入渠可能な石造りドッグを新造、続いて鉄工場、旋盤工場、鋳物工場なども建設して、明治37年(1904)に分工場として運用を開始した。正式には松尾鉄工場香焼分工場と呼ぶ」
また、出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「川南工業」の項は、「川南工業(かわなみこうぎょう)は長崎県西彼杵郡香焼村にあった造船会社。南極観測船「宗谷」建造の造船所として知られる。
概要 [編集] 長崎港入口にある香焼島(現在の長崎市香焼町)には1900年(明治33年)に松尾造船所が設立されたが、1925年(大正14年)から閉鎖されていた。製缶工場で財を成した川南豊作は、1936年(昭和11年)に周囲の土地ごと造船所を買収、川南工業を設立し造船業に参入した」
「松尾造船所」の創業年の記述の仕方が、さまざまである。地元香焼町の史料によって、わかりやすい説明をしてほしい。

3 香焼炭鉱の「明治40年、第3試錐の跡」
これも〔香焼地区〕独自の展示で、「造船のまちの幕開け」のパネルの中に、第3試錐の跡の現地写真と説明文がある。「試錐の跡が今も恵里下と栗ノ浦との間の「高石」と呼ばれる岩場に残っています」
史跡(市東南)の項、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1650
香焼町は同町郷土誌によると、「高石」にある第3試錐跡しか確認していないようだ。 伊王島大橋(架橋中)に通じる香焼トンネル入口左方から「高石」にかけての海岸に、香焼炭鉱の明治40年「第1試錐の跡」「第2試錐の跡」も現存している。

ウルトラマン岩? 裏雲仙の吾妻岳  雲仙市千々石町己

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ウルトラマン岩? 裏雲仙の吾妻岳  雲仙市千々石町己

6月14日、九千部岳と田代原のヤマボウシ鑑賞に行った。宮さんは自分達のグループで長崎を早く発ち、九千部岳に登山後、田代原で昼食。午後からは吾妻岳へ鉢巻岳との鞍部コースを登り、吾妻観音へ出た。
吾妻観音から先の、標高869.8m三角点の吾妻岳山頂との間の中間あたりの道で、ウルトラマンに似た岩を見つけて、写真に写している。
宮さんのブログ記事は、次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/18218350.html

鳥居がある吾妻観音の堂のところからは見えない岩で、私もこれまでまったく気付かなかった。通常は田代原からそのまま吾妻岳へ直登するため、吾妻観音へ行く途中では、振り返るか、帰りにしか見えない岩だろう。
上の写真がその岩。宮さんから記事と同じ写真を2枚送ってもらった。なるほど、ウルトラマンの顔。長崎の珍百景候補だ。最後の写真は、田代原から見た吾妻岳。

だれかすでに記事にしてないか。日記帳〜日々是好日〜氏の2006/12/3の日記「新たな趣味」にあった。次がその要点。 blue.ap.teacup.com/haradutch/587.html

…今回選んだ山は「吾妻岳」。何故この山?と言うと「歩きやすそう?」と言う判断だった。しかし・・・いきなり壁のような傾斜を歩き続ける。途中3度の休憩を入れながら1時間半で頂上へ。そこで、自らコーヒーを沸かし、茶菓子をつまみながら景色を堪能。
山頂周辺をブラブラ歩くと、吾妻観音という・・・自然の岩石の風の?観音像の造形を見つけた。その時の感動と何ともいえない達成感は、「あぁ〜山登りって自分に合っているかも?」としみじみと感じた。…

吾妻観音の道は、吾妻と千々石を結ぶ古道である。千々石側鉢巻山鞍部入口の分岐に「きため・あづま道」と刻んだ古い標石が実在していたのを、私は記録している。九州自然歩道ができてから、道が変わり標石は所在不明となった。
吾妻観音の堂内には、馬頭観音像が祀られ、堂横の人型の立岩が観音菩薩とされる。顔像の観音岩はないものとばかり思っていた。

好日氏日記と写真からわかったことは、宮さんが見たウルトラマン岩こそ、観音菩薩の岩像のようである。堂はこの岩を祀って建てられたのではないだろうか。
岩の観音さまを時勢とはいえ、早々にウルトラマンと見立てるのは恐れ多い。地元郷土誌の記録や話を聞いて、もう少し確認する必要があろう。

カヌーと導水管? 鹿尾川河口  長崎市磯道町

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カヌーと導水管? 鹿尾川河口  長崎市磯道町

国道499号線の鹿尾橋から土井首バス停にかけて見られる鹿尾川河口のカヌー練習風景。潮が満ちたときしか練習できない。
長崎鶴洋高校(前長崎水産高校)カヌー部だ。女子部員もいる。ソウルやバルセロナのオリンピックに出場し、入賞の実績を持つ。艇庫は柳埠頭か。
南高や西高にもカヌー部がある。浦上川でも練習風景を見たようだ。長崎はペーロンの本場だ。

後ろの写真は、鹿尾川の同川岸に敷設している導水管。上流の支沢から水を引き、昔は郵便局奥の丘を越し、土井首海岸の港に大タンク(跡あり)を造り、団平船や旅客船を兼ねた給水船で高島や端島へ水を運んでいた。
昭和32年(1957)、日本初の海底水道<高島・端島海底水道>が完成し、水問題にようやく終止符が打たれた。水源は野母半島の三和町付近の5本の堀井と長崎市の鹿尾水系からのもので、<三和町為石浄水場>を経由し、岳路海岸から海底に6,500mの長さの水道管を敷設して端島および高島へ給水するという、一大公共事業だった。
昭和42年の4度目の拡張の際に、貯水能力10万トンの<為石貯水池>(大川そば 写真)が完成した。この項の詳しくは、次のHP参照。
http://www.gunkanjima-odyssey.com (軍艦島オデッセイ 海底の生命線)
従って、現在の鹿尾川の導水管は、毛井首町の製氷工場が使用しているらしい。

検疫所の歴史? 長崎検疫所の門柱と境界石  長崎市戸町3丁目

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検疫所の歴史? 長崎検疫所の門柱と境界石  長崎市戸町3丁目

これも国道499号線で女神大橋のたもとまで行く。コレラが大流行、女神に検疫所が開設され、来航船舶に対する海港検疫が始まったのは、明治13年(1880)である。
当初は「消毒所」といわれていたようで、明治17年(1884)測図の陸地測量部一万分の一図「深堀村」には、まだ「消毒所」の名称が記載されている。

国指定史跡「魚見岳台場」最下段の三の増台場跡から、ほんの少し上がった右側(南)に、一辺15cm、地上高52cmの角柱がある。「女神検疫所境界」と刻字されている。同じ標石は近くの山中にもあり、現在、女神バス停上の高台にある検疫所の領域が、かつてはかなり広範囲であったことが知られる。(中尾氏学さるく作成資料から)

きのう、くらさきの鯨広告看板を見て上を見上げると、検疫所の古い門柱が見えたので、高台へ上がってみた。
平成9年2月1日、長崎検疫所(明12.7.14始)は「福岡検疫所長崎検疫所支所」となっている。いつの年代の門柱かわからないが、古い造りで正門の両脇に残されていた。門柱の上の部分は、検疫所のマークだろうか。

魚見岳台場の史跡指定地内には、「女神検疫所境界」の標石を4本確認している。最近、見つかったのは、女神大橋戸町側上の手袋岩から現在の検疫所へ下る尾根上である。昔は尾根道があったと思われるが、大橋の擁壁工事のため寸断され、フェンスが途中にあるし荒れている。

巨鯨? 「宮本武蔵と巨鯨」の広告看板  長崎市戸町4丁目

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巨鯨? 「宮本武蔵と巨鯨」の広告看板  長崎市戸町4丁目

国道499号線で女神大橋まで行く。橋脚のたもと大橋への進入口に、長崎の鯨専門店くらさきの戸町工場がある。
広告看板は、歌川國芳「宮本武蔵と巨鯨」復刻/立原戌基。ある時、肥前の国の海上にて…

1951年長崎市築町で創業。長崎に伝わる鯨の歴史を大切に守り、現在は四代目が、鯨カツ、鯨盛、ベーコンなど鯨の美味しさを全国に届けている。ながさき鯨カツ弁当は、長崎駅の駅弁で販売している。
本店は中央橋バス停そば。長崎バス「くらさきのくじら号」が付近を運行している。

九千部岳と田代原のヤマボウシ鑑賞 (2)  平成21年6月

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九千部岳と田代原のヤマボウシ鑑賞 (2)  平成21年6月

平成21年6月14日(日)快晴。裏雲仙の九千部岳(標高1062.4m)と田代原のヤマボウシ鑑賞。参加15人。車4台で、吹越から楽なコースを登った。ヤマボウシはすでに見頃。駐車場は一杯で、九千部の狭い山頂は混雑していた。来週が思いやられる。
吹越10時50分発ー960m鳥居鞍部ー九千部岳(昼食)ー西尾根ー田代原駐車場13時50分着(徒歩約4km)

長崎9時半発。グリーンロードから田代原に入る。吹越へ参加者を降ろし、田代原に車3台を置き、吹越に戻って出発した。九千部山頂にちょうど12時着。記念撮影をしている福岡からのツアー団体サンサン山倶楽部が下り、昼食を山頂で食べられた。
山頂からの写真は、平成新山・雲仙旅館街・田代原・多良山系・千々石木場など。山頂すぐ下の九千部大明神の岩穴も見てきた。 (1)

山頂を12時40分発。岩稜地帯を横に20分ほど行き、西尾根の下りにかかる。約1時間で田代原トレイルセンターへ着いた。西尾根は田代原近くにならないと、展望が開けない。
田代原でくつろぎ、5人は雲仙の湯の里温泉へ。私たちは雲仙ゴルフ場に出て、仁田峠へ回った。平成新山の現況と記録写真を写してきた。帰りは別所ダムから下り、上岳の棚田の展望や、唐子の蓮を見に行った。長崎18時着。 (2)