月別アーカイブ: 2009年6月

九千部岳と田代原のヤマボウシ鑑賞 (1)  平成21年6月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

九千部岳と田代原のヤマボウシ鑑賞 (1)  平成21年6月

平成21年6月14日(日)快晴。裏雲仙の九千部岳(標高1062.4m)と田代原のヤマボウシ鑑賞。参加15人。車4台で、吹越から楽なコースを登った。ヤマボウシはすでに見頃。駐車場は一杯で、九千部の狭い山頂は混雑していた。来週が思いやられる。
吹越10時50分発ー960m鳥居鞍部ー九千部岳(昼食)ー西尾根ー田代原駐車場13時50分着(徒歩約4km)

長崎9時半発。グリーンロードから田代原に入る。吹越へ参加者を降ろし、田代原に車3台を置き、吹越に戻って出発した。九千部山頂にちょうど12時着。記念撮影をしている福岡からのツアー団体サンサン山倶楽部が下り、昼食を山頂で食べられた。
山頂からの写真は、平成新山・雲仙旅館街・田代原・多良山系・千々石木場など。山頂すぐ下の九千部大明神の岩穴も見てきた。 (1)

山頂を12時40分発。岩稜地帯を横に20分ほど行き、西尾根の下りにかかる。約1時間で田代原トレイルセンターへ着いた。西尾根は田代原近くにならないと、展望が開けない。
田代原でくつろぎ、5人は雲仙の湯の里温泉へ。私たちは雲仙ゴルフ場に出て、仁田峠へ回った。平成新山の現況と記録写真を写してきた。帰りは別所ダムから下り、上岳の棚田の展望や、唐子の蓮を見に行った。長崎18時着。 (2)

高上り? (3) 小ヶ倉の岩・虚空蔵岳・志々伎山  長崎市小ヶ倉町ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

高上り? (3) 小ヶ倉の岩・虚空蔵岳・志々伎山  長崎市小ヶ倉町ほか

馬鹿の高上り、下を覗くと肝っ玉や○○がちぢむ。順不同。登山コース上の難易が合わさった所も含む。岩場などの様子と展望を見てもらう。

写真  1〜   小ヶ倉の岩    長崎市小ヶ倉町
小ヶ倉バイパスをダイヤランドから小ヶ倉交差点へ下る途中の右側、小ヶ倉団地の背後の稜線に見える奇岩の連なり。セキ岩・オオ岩・ウマ岩・夫婦岩などの岩が一直線に並ぶ。
詳しくは、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/123

写真  7〜   虚空蔵岳     東彼杵郡川棚町
長崎のマッターホルンと呼ばれる鋭峰。川棚町の虚空蔵岳(標高608.5m)。ダム建設計画で揺れる石木集落や嬉野から登山道がある。

写真 11〜   志々伎山     平戸市野子町
古来より続く十城別王に因む霊峰。平戸の南端にある志々伎山(標高347m)。古期安山岩でできた山で、山頂が鋭く尖る。野子町の志々伎神社から登る。
40年ほど前、登ったきりで、遠景の画像のみ。

高上り? (2) 経ヶ岳・烏帽子岩・権現岩・手袋岩  大村市黒木町ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

高上り? (2) 経ヶ岳・烏帽子岩・権現岩・手袋岩  大村市黒木町ほか

馬鹿の高上り、下を覗くと肝っ玉や○○がちぢむ。順不同。登山コース上の難易が合わさった所も含む。岩場などの様子と展望を見てもらう。

写真  1〜   経ヶ岳    大村市黒木町
多良山系の主峰経ヶ岳(標高1075.7m)。山頂下の岩場は岩登りの名所。つげ尾からの登りの途中から。アケボノツツジとツクシシャクナゲの季節だった。

写真  4〜   烏帽子岩   長崎市宮摺町
市民の森や小ヶ倉水源池と宮摺から林道が上がる。駐車場からすぐの岩で天草灘の展望が良い。岩の下部へ行くと、かなりの高さがある岩である。

写真  7〜   権現岩    長崎市立岩町
渕中前から城山台団地への市道に入る。最近できた「稲佐山温泉ふくの湯」上の岩場。皿焼バス停から登るが、道はわかりにくい。転落死の遭難碑があるので、注意要。

写真 10〜   手袋岩    長崎市戸町4丁目
戸町側から眺めると手袋に見えるので名がついた。女神大橋歩道の戸町側にあり、岩下に祠が見える。金鍔谷や魚見岳トンネルから登れるが、薮っている。岩上りは危険。

高上り? (1) 二ツ岳崎・鈴虫岩・利作岩・目一坊  長崎市千々町ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

高上り? (1) 二ツ岳崎・鈴虫岩・利作岩・目一坊  長崎市千々町ほか

馬鹿の高上り、下を覗くと肝っ玉や○○がちぢむ。順不同。登山コース上の難易が合わさった所も含む。岩場などの様子と展望を見てもらう。

写真  1〜   二ツ岳崎  長崎市千々町
千々と藤田尾の間にある。海岸の2つのこぶ山を越して行く。間のキレットは崩壊中のため危険。突端の高い岩場に陸軍省「長崎要塞区域標」「第十六号」が残る。

写真  4〜   鈴虫岩   長崎市千々町
干藤トンネルの所から千々林道へ入る。千々峠(乙女峠)まで林道は登るが、途中に猿岳さん入口があり、すぐの分岐から行く。猿岳(秋葉山)から鈴虫岩は見える。

写真  7〜   利作岩   長崎市布巻町
八郎山系寺岳(標高451.8m)の山頂近く、随一の展望場所。この辺りは字名を「遠見岳」といい、長崎半島の先端まで見える。古く有馬と深堀領の境だった。

写真 11〜   目一つ坊  西海市大瀬戸町雪浦小松郷
大瀬戸町の雪の浦橋から県民の森へ河通川沿いに九州自然歩道を上がる。河通ダムの2.5km上流に入口道標があるが、登路は判然としない。石鍋遺跡がある。

長崎の西の空の夕日  09−11

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎の西の空の夕日  09−11

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下、続く。

写真 1〜 3  平成21年 5月31日の19時21分頃
写真 4〜 8  平成21年 6月11日の18時58分頃 小さな彩雲が見られた。

落ちる? 鯖くさらかし岩・爆風でずれた岩の柱・傘瀬・弁慶の投石  西彼杵郡時津町ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

落ちる? 鯖くさらかし岩・爆風でずれた岩の柱・傘瀬・弁慶の投石  西彼杵郡時津町ほか

1つ目は、時津の有名な奇岩「鯖くさらかし岩」。西彼杵郡時津町の継石バス停西方上にある大岩。国道206号線が通り交通量が多い。
「こけし人形」の形をしており、今にも頭が落ちそうで落ちない。魚売りが通るに通れず魚を腐らせた伝説がある。バス停の名前となった「継石坊主」とも言う。

平成13年12月28日記念物(名勝)として時津町文化財に指定。次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/267
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/24379955.html
この岩の補強と地学上のことは、布袋厚著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊120〜122頁に次のとおり詳しい解説がある。

…以前、上の岩はわずか三つの接点でささえられているだけで、裏側から上下の岩のあいだをのぞきこむと、むこう側がみえていた。つよい地震が起これば、ほんとうに落ちる危険性があったし、風化と浸食がすすみ、不安定になるおそれがあった。そのため、一九九六年から翌年にかけて補強工事がほどこされ、つぎ目に石と接着剤のようなものがつめられ、すきまは完全にふさがれた。
この岩は、全体が長崎火山岩類の角閃石安山岩質の凝灰角礫岩でできており、まわりより浸食につよい部分が石柱となってとりのこされたものである。岩石は変質して緑色になっており、変質のない岩石よりも、風化しやすくなっている。岩のつぎ目は、もともと地層面にそった割れ目か断層面だったと考えられる。こうした、つぎ目のある岩の柱は、穴弘法の霊泉寺境内にもあって、上にのっている岩は原子爆弾の爆風によってずれた状態がいまもそのままのこっている。

2つ目は、前に記す長崎市江平1丁目の穴弘法の霊泉寺境内。「原子爆弾の爆風によってずれた状態の岩の柱」。

3つ目は、長崎市柿泊町の白浜海水浴場の奇岩「傘瀬」。国道202号線の小江小浦から小江トンネルを抜けたところが、白浜海水浴場の入口である。奇岩の浜で、地形がおもしろい。
「傘瀬」は、写す方向によって細く見えるが、真横から見るとまだ大丈夫のようである。
前記の布袋厚氏著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊の108〜110頁による説明は次のとおり。

白浜海水浴場は長崎市街地にもっとも近い海水浴場で、長崎市の西海岸、小江と手熊のあいだにある。海水浴場のなかには、おもしろい地形があるし、ちかくの海岸には地層が連続して露出し、観察するのには最適である。
手熊のバス停から海岸に出て、南(海に向かって左)にむかい、海ぞいに1kmほどの道のりを歩くと海水浴場につく。最初に長さ100mほどの砂浜があり、そのむこうにキノコの形をしたおもしろい岩がある。これは大村藩の古文書『郷村記』に「傘瀬」と記されている。…

4つ目は、長崎市蚊焼町と黒浜町の町境海岸にある「弁慶の投石」。安永2年(1773)当時の長崎代官「高木作右衛門支配所絵図」(長崎歴史文化博物館所蔵)に、佐賀領蚊焼村と公領高浜村の境界地点「投上ヶ石」として表われている。
岩の高さは10mぐらい。「髙浜の字名由来考」には次のように記されている。地元では「弁慶の投石」というから、これは落ちる?でなく、投げた?となるべきか。いつか落ちるだろう。

投上は髙浜と蚊焼との境界地点で知られた場所である。俗称を「弁慶の投石」といった。海面に立つ巨石の頂上に人工的に乗せられたような自然の情景。先人達の伝説には、弁慶が投げた石が重なり乗ったものだとの昔し話が残されており、その地を字名「投上(なげあげ)」と呼んでいる。黒浜の”ようこそ野母崎へ”の看板横の道を登り、海岸へ下ると正面に見える。

石 橋? (4) 三川内山早川小学校跡の小さなアーチ式石橋  佐世保市塩浸町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

石 橋? (4) 三川内山早川小学校跡の小さなアーチ式石橋  佐世保市塩浸町

陶芸の里「三川内皿山」はJR三河内駅手前、国道35号線三川内山入口交差点から右折し、奥の谷間へ入る。
三川内山の石橋は、「三川内山」バス終点児童公園下の川に残り、すぐ手前の路地から右へ下る。陶石製の見事なアーチ式石橋である。

これと別に小さな石橋がある。国道から皿山へ行く中間くらいに市立三川内山保育所とバス停がある。この手前右方からコンクリート舗装道が下って上がっている。道が小川を跨いでいるのが見える。
写真のとおり可愛らしい石橋が残っていた。上にコンクリートが塗られ、左面から見えるが、右面からは拡幅されて確認できない。幅2m、長さ1mほどの小橋。礎石や内部の石の組み方からアーチ式石橋である。

橋の道は、上の2軒の邸宅の登り口。この高台は今は家と庭畑となっているが、実は三川内小学校発祥之地「早川小学校跡」だった。昭和49年2月、創立100周年を記念し山口造園代表取締役山口廣夫氏が寄贈した記念碑があり、早川小学校がここにあったのは、「自 明治十二年三月 至 明治十九年九月」と刻んでいた。

どうやら、この石橋は、早川小学校創立時に造られた学校正門口の橋のようだ。小さいながら地元三川内山の貴重な歴史を残した橋であった。
なお、三川内皿山には、天満宮(釜山神社)にも石桁橋の参道橋がある。

石 橋? (3) 長崎の移築されているアーチ式石橋  長崎市片淵5丁目ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

石 橋? (3) 長崎の移築されているアーチ式石橋  長崎市片淵5丁目ほか

1つ目は、片淵5丁目の西山ダム河川公園に移築復元されている「高麗橋」。この橋は、もと、中島川上流部の伊勢町、八幡町間に架けられていた石造アーチ橋である。承応元年(1652年)明国人によって創架されたと伝え、慶応2年(1866年)に拡幅改架された。
昭和57年7月の大水害後の河川改修のため、昭和60年に解体し、平成5年3月、現在地に移築復元した。移築にあたっては、アーチ石等の主要部は旧材を用いたが、川幅が広がったため端部には石材を補足し、また失われていた高欄も復旧した。(現地説明板から)

2つ目は、四杖町のあぐりの丘に移築されている「畦別当二号橋」。畦別当のアーチ石橋「二号橋」は、平成8年道拡幅工事のため解体され、平成10年にあぐりの丘の西側池に移築、復元されている。現地説明板は何もない。移築に関与された「長崎石物語」の著者、布袋厚氏が事情を知っておられたそうだ。

3つ目は、出島町の国指定史跡出島和蘭商館跡の「きゃぴたん橋」。各種の出島絵図に描かれているアーチ橋を参考に、昭和40年の庭園整備事業の一環として、橋の上のブドウ棚と共に作られた。名前については、当時の名前の有無も不明で、架橋時に愛称としてつけられたものだそうだ。

「きゃぴたん橋」の以上の説明は、HP「長崎県の石橋を訪ねて」から。長さ約5.0m、幅員約1.2m。出島和蘭商館跡の庭園池に架かる。小さいが端正な造りの橋。袂の布石に石工の名があり、「山口」「坂本」「田川」の文字が読める。
この橋でわからないのは、完全な新造橋か。それとも一部をどこかの石橋を移築して応用したものか。出島復元整備室へ今、聞いても保存文書がなく、状況は不明だった。石工から調べたく、とりあえず移築の項に載せた。

石 橋? (2) 長崎に残る煉瓦造アーチ式石橋  長崎市平野町・坂本1丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

石 橋? (2) 長崎に残る煉瓦造アーチ式石橋  長崎市平野町・坂本1丁目

長崎大学附属病院前、バス通りは左の医学部通りへ上がって行く。すぐ坂本から流れる小川の上を高い橋が渡る。橋から下手の小川を覗くと、壊れかけた煉瓦造の階段橋が駐車場となった高い石垣で行き止まっている。

次の小橋は、医学部通りへ行かず、まっすぐに長崎大学附属病院正門横から坂本の高台の方に車道を上がる。左側に車道はすぐ小溝を渡る。住宅の下道から回って見ると、小さなダム施設があり、先の車道下の取り入れ口が、下水溝のようにして煉瓦造の小石橋となっている。れっきとした市道が上を渡るから橋と言える。

大学病院が現在地の坂本にあるのは、第五高等中学校医学部時代の明治24年(1891)から。敷地を整備したいずれかの古い年代に架橋したと考えられる。
長崎原爆落下中心地はすぐ近くである。階段橋とも灼熱の地獄を見て、被害に耐えた貴重な遺構の石橋と思われる。

石 橋? (1) 長崎に残る煉瓦造アーチ式石橋  長崎市桜町・銀屋町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

石 橋? (1) 長崎に残る煉瓦造アーチ式石橋  長崎市桜町・銀屋町

長崎市街の中心部、有名な石張りの川、桜町の地獄川と銀屋町のシシトキ川に見事な煉瓦造アーチ式石橋が3つ残っている。観光ガイドやさるく案内になく、ほとんど知られていない。

地獄川の名は、長崎市役所別館のところに「桜町牢」があったことから来ている。市役所別館から長崎市公会堂裏に下る坂道の橋は、下を覗くと煉瓦造石橋である。下流へ行くと、広い道路となった長崎女子商業高校の角の暗渠下にも潜って行くと、煉瓦造石橋が残っている。

シシトキ川は寺町と観光通りの間に流れ、銅座川へそそぐ。弊振坂の通りとなる銀屋町公民角に稲荷橋がある。これも煉瓦造石橋である。中島川に沿った小川となるが、シシトキ川にも小さな石橋が多くあったそうである。

土木学会編「日本の近代土木遺産(現存する重要な土木構造物2000選)」の中に ししとき川下水路・同支線〔樋門・水路〕」は選定されている。完成年は、1887年(明治20年)とあり、それぞれの煉瓦造アーチ式石橋の架橋年も同時期と考えられる。
土木遺産の項、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1200