かまぼこ? まるなか本舗の職人技看板 長崎市岩川町
JR浦上駅前、長崎名物かまぼこの老舗「まるなか本舗」。三代目中村吉孝謹製。”昔ながらの長崎の味づくりを伝承する、職人技ー竹輪づくり・蒲鉾づくり・すり身づくり”の広告看板。
稲佐橋近くの「杉永かまぼこ」の店のも写してきた。
かまぼこ? まるなか本舗の職人技看板 長崎市岩川町
JR浦上駅前、長崎名物かまぼこの老舗「まるなか本舗」。三代目中村吉孝謹製。”昔ながらの長崎の味づくりを伝承する、職人技ー竹輪づくり・蒲鉾づくり・すり身づくり”の広告看板。
稲佐橋近くの「杉永かまぼこ」の店のも写してきた。
成る? JR浦上駅ホームのびわの木 長崎市川口町
JR長崎駅と浦上駅のホームに、長崎名産のびわの木が植えられている。実が成ったとき、乗客に無料で配られている。テレビでは長崎駅がよく写るので、浦上駅のを写してきたが、時期遅れ。実を獲った後だった。
最初の長崎駅は明治30年7月22日に当地に開設された。8年後、線路延長に伴い、浦上駅に改称された。爆心地に近く、原爆の被害が大きかった。
終着駅? 臨港線(長崎本線)の廃線跡 長崎市出島町
長崎出島ワーフ近く、臨港線(長崎本線)の廃線跡。中島川を渡った場所に平成9年にポケットパークができた。車輪は門司港から取り寄せたJRからの借り物らしい。
大正12年(1923)から20年間、出島岸壁には長崎上海航路が開かれ、「長崎丸」と「上海丸」が就航していた。
現在の「JR長崎駅」から、出島岸壁の「長崎港(みなと)駅」まで臨港線(長崎本線)があった。日華連絡船が出る長崎港駅まで、臨港線を通り特急が乗り入れていた。
戦後は旅客列車の運行はなく、同駅までの区間は昭和62年(1987)に正式に廃止された。
ついでに、出島ハーバー係留中のタッちゃんのクルーザー「MIE丸」(漁船登録)。アメリカに行って購入し、名古屋港から回航してきた。
飛んだ? 雲仙・普賢岳噴火災害で活躍したヘリコプター 長崎市出島町
6月3日は、43人が犠牲になった雲仙・普賢岳噴火災害の大火砕流惨事から丸18年。
偵察活動及び行方不明者の捜索に活躍したヘリコプターが、ながさき出島道路入口手前の自衛隊長崎地方協力本部・長崎防衛分局前に展示されている。
ここにも在る? 外国人居留地跡標石(境石・地番標) 長崎市東山手町ほか
平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。結果を次の記事などにしている。
https://misakimichi.com/archives/1483
東山手町、活水オランダ坂の「東山手十三番館」。木造二階建て寄せ棟造りの建物が、賃貸住宅として建築されたのは、明治25年〜27年のことと推測され、昭和初期から一時、フランス領事が住んだため、領事館として使用された。
その後も住宅や喫茶店であったが、近年、老朽化が進み長崎市が建物を購入し修復の上、本年4月からの長崎さるく幕末編では、フランス交流館として活用され、コーヒーサービス(有料)がある。
「東山手十三番館」には、同館のオランダ坂入口正門左下と、後ろへ登った活水大学正門前となる外囲いの石塀に、「甲十三番」の2つの地番標が埋め込まれている。どじょう会の記録があったので、同館正門左下のは、茂った蔦の下に地番標が出てきた。
活水大学正門前や向いの東山手十二番館私学資料館前の地番標には、長崎市教育委員会の陶板プレートが付いているのに、なぜか、この十三番館石塀に組み込まれた地番標にはプレートが付いていない。
教育委員会の単なる調査もれか。観光のメインとなるオランダ坂である。早急に対処してほしい。さるくガイドは説明してないと思われる。
後ろの写真は、どじょう会の報告に表われていない標石。浪の平町の居留地で2本見つけている。また、復元された史跡出島和蘭商館跡の休憩所「旧長崎内外クラブ」建物奥の階段下にも、3本の地番標が保管されていた。
最後は、長崎市教育委員会が付けている陶板プレート。大浦天主堂外側横塀下の例。
さかい? (2) 藩境石の災難 長崎市新小ヶ倉1丁目ほか
前項(1)で、長崎市小ヶ倉町白崎バス停上の「従是南佐嘉領」の藩境石の災難を載せたが、一方の新戸町(現在は新小ヶ倉1丁目に所在)側などの肝心な災難の話を忘れていた。
古賀敏朗著「くにざかいの碑ー藩境石物語」峠の会(福岡)1983年刊によると、小ヶ倉バイパスの工事中、ショベルカーが掘り起こした新聞記事を紹介している。
詳しくは、次の記事を参照。標石の古写真は、中尾正美編「鍋嶋藩深堀資料集成」昭和49年刊の巻頭頁から。
https://misakimichi.com/archives/91
https://misakimichi.com/archives/337
次は、大村郷村記に記す外海地域、三重村東樫山や黒崎村出津郷「とひ崎飛地」の藩境石の災難。詳しくは、次の記事を参照。
東樫山の空き地に放置された石は、最近、近くの金福寺前に運び、展示されているそうだ。
https://misakimichi.com/archives/84
出津海岸の石は、まだ海岸に放置され、潮を被っている。
https://misakimichi.com/archives/1565
茂木・北浦・早坂の自然史跡めぐり (2) 平成21年6月
平成21年6月7日(日)快晴。茂木・北浦・早坂の自然史跡めぐり。参加10人。普段行くことがない茂木地区山間部の史跡を訪ねる。
田上バス停9時半発ー転石ー河平橋ー水車小屋跡ー柳山橋ー茂木枇杷原木記念碑ー三浦シオ生家跡ー大山祇神社ー三浦園芸大温室ー四国茂木八十八ヶ所第36番霊場ー奥の院第71番霊場(鬼の岩屋)ー長崎自動車道下(昼食)ーガード下をくぐるー長崎インター入口左側の市道へー轟の滝ー重篭ー六本松バス停15時半着(徒歩約13km)
転石から茂木街道の明治新道を河平川沿いに下る。途中でコエビ草、アーチ式石橋河平橋、戸町至ル標石、水車小屋跡の梅畑、幸わせの竹(夫婦竹 根元上で合体)、庭の大瓶を見た。
黒橋手前で若菜川本流の谷間へ入る。旧茂木街道の柳山橋は長崎大水害で流失。近くの家に石橋の板石が4枚運ばれて残っていた。
茂木枇杷原木記念碑、三浦シオ生家跡を見て大山祇神社へ。空洞があるクスノキ・ヤマモモの古木がある。社殿内に龍の絵があった。
三浦園芸大温室上を通り、橋を渡って川沿いの道を行くと「龍の泉」があった。三景台が団地となる前の遊園地だった頃、園内の全施設の水をまかなっていた井戸跡である。
本日のメイン鬼の岩屋へ。36・71番札所の案内標識があり、民家脇から右手の谷間に入る。竹林や雑木内を5分ほどで36番霊場、さらに6分ほどで奥の院の71番霊場の岩窟に着く。
奥の院は2穴あり、いずれも近郊では見られない秘境。
午後からは、出島ながさき道と長崎自動車道のインター横を上り、重篭下の轟の滝へ。長崎名勝図絵に記している。さほどの滝ではないが、一度は見聞したい。甑岩西下となる若菜川上流の谷にある。重篭から白木側の六本松バス停まで出て解散。
写真は、三浦園芸大温室までの(1)からの続き。
宮さんブログの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/17876227.html
茂木・北浦・早坂の自然史跡めぐり (1) 平成21年6月
平成21年6月7日(日)快晴。茂木・北浦・早坂の自然史跡めぐり。参加10人。普段行くことがない茂木地区山間部の史跡を訪ねる。
田上バス停9時半発ー転石ー河平橋ー水車小屋跡ー柳山橋ー茂木枇杷原木記念碑ー三浦シオ生家跡ー大山祇神社ー三浦園芸大温室ー四国茂木八十八ヶ所第36番霊場ー奥の院第71番霊場(鬼の岩屋)ー長崎自動車道下(昼食)ーガード下をくぐるー長崎インター入口左側の市道へー轟の滝ー重篭ー六本松バス停15時半着(徒歩約13km)
転石から茂木街道の明治新道を河平川沿いに下る。途中でコエビ草、アーチ式石橋河平橋、戸町至ル標石、水車小屋跡の梅畑、幸わせの竹(夫婦竹 根元上で合体)、庭の大瓶を見た。
黒橋手前で若菜川本流の谷間へ入る。旧茂木街道の柳山橋は長崎大水害で流失。近くの家に石橋の板石が4枚運ばれて残っていた。
茂木枇杷原木記念碑、三浦シオ生家跡を見て大山祇神社へ。空洞があるクスノキ・ヤマモモの古木がある。社殿内に龍の絵があった。
三浦園芸大温室上を通り、橋を渡って川沿いの道を行くと「龍の泉」があった。三景台が団地となる前の遊園地だった頃、園内の全施設の水をまかなっていた井戸跡である。
本日のメイン鬼の岩屋へ。36・71番札所の案内標識があり、民家脇から右手の谷間に入る。竹林や雑木内を5分ほどで36番霊場、さらに6分ほどで奥の院の71番霊場の岩窟に着く。
奥の院は2穴あり、いずれも近郊では見られない秘境。
午後からは、出島ながさき道と長崎自動車道のインター横を上り、重篭下の轟の滝へ。長崎名勝図絵に記している。さほどの滝ではないが、一度は見聞したい。甑岩西下となる若菜川上流の谷にある。重篭から白木側の六本松バス停まで出て解散。
写真は、三浦園芸大温室までで、後は(2)へ続く。
宮さんブログの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/17876227.html
ADか? 旧長崎英国領事館の左上柱 長崎市大浦町
国指定重要文化財。大浦海岸通りの「旧長崎英国領事館」の裏側へ回り、オランダ通りといわれる所から赤煉瓦の建物を見上げてみる。
右柱上のコンクリート部に、「1907」と浮かし彫りをしている。これをさるくの何かのパンフレットで、見所として読んだ覚えがあり、あまり知られていないので確認に行った。
写真のとおり確かにあった。私が気付いたのは、もう片方の左柱上である。ここには「AD」と見える字の浮かし彫りがあった。「旧長崎英国領事館」の建物は、明治40年(1907)竣工しているので、「1907」は良い。一方の「AD」の意味がわからない。教えてもらえないだろうか。
旧長崎英国領事館 重要文化財(国指定)・建造物
指定年月日 平成2年3月19日 所在地 長崎市大浦町1番37号 所有者 長崎市
安政5年(1858)諸外国との修好通商条約が結ばれた後、長崎は開港場として自由貿易を開始し、外交事務が始められました。この建物は大浦海岸に面する大浦6番の敷地に立つレンガ造り2階建ての領事館建築で、上海の英国技師ウイリアム・コーワンの設計に基づき、明治40年(1907)に長崎大浦町の後藤亀太郎が施工、明治41年(1908)に完成しました。
1階、2階とも正面と両側面にベランダを設け、2階ベランダにはイオニア式の複柱が立ち。また各隅部には丸窓が開き、アクセントとなっています。また、明治後半期の洋風建築として、造形意匠の面からも、歴史的並びに景観上貴重であるばかりでなく、近代外交史の一端を示すものとして評価の高い建物です。 (HP「長崎市の文化財」から)
なお、オランダ通り隣の長崎三一教会との間の歩道に、「1928」「USA」と刻んだ標石がある。当時、ここに米国領事館があったそうである。
大蔵省か? 旧長崎税関下り松派出所の境界石 長崎市松が枝町
大浦海岸通りの松が枝橋を渡った左に、古い建物の「長崎市べっ甲工芸館」がある。裏手の煉瓦塀の角に小さな標石が欠けてあるのを見つけた。「蔵」と刻んでいる。
「長崎市べっ甲工芸館」は、「旧長崎税関下り松派出所」を約4年間の保存修理工事を経て、平成14年4月オープンした。べっ甲工芸品及び税関資料を展示する。
「旧長崎税関下り松派出所」は、明治31年に建設され、平成2年3月に国の重要文化財に指定された。
建物は小規模ではあるが、明治時代の税関施設の状況をよく伝えており、歴史的な価値だけでなく、海岸通りの景観形成にも重要な役割を担っている。(長崎市の文化財から)
古い建物は旧長崎税関施設だったから、標石の「蔵」は「大蔵省」の意味で、国有地だった境界標柱と思われる。そうして見ると欠けた上の字は、「大」に確かに見える。
明治時代の歴史を刻んだ貴重な標石であろう。長崎税関やさるくは、この標石をもっと大切にしてよいのではなかろうか。周囲で他には見つからなかった。
なお、南山手「長崎全日空ホテルグラバーヒル」(前東急ホテル)左スロープ入口の左側、民間駐車場の中に古い石柱型の丸い突起がある「水準点」がある。これまでは、ジュース自動販売機の裏となり、忘れさられていた。
どじょう会「長崎の碑(いしぶみ) 第二集」平成6年によると、(正面)水準點、寸法27×27×50cm。埋設され、番号は「五三九」までは読み取れる。
明治34年測図国土地理院旧版地図は、この位置に水準点はない。設置年代は調べていないが、現行地図では「□3.0」mときちんと表示され、まだ現役である。