月別アーカイブ: 2009年6月

ねずみ男? 活水坂の妖怪木  長崎市東山手町

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ねずみ男? 活水坂の妖怪木  長崎市東山手町

東山手町活水オランダ坂の、車道の方を大カーブを過ぎ上へ登って行く。活水大学の赤い屋根の校舎が左上に見えるあたり。三角溝脇の木の幹元が、一部白くなっている。
よく見てみよう。まさしく、体は「イグアナ」、頭部は「ねずみ男」だ。何回も通った「みさき道」の途中だが、今までまったく気づかなかった。

ほしなべ氏ブログ版「長崎遠めがね」2009/4/7記事があり、次を参照。出かけて大きく写してきた。妖怪木で珍百景候補。人の横顔に似た小さなコブもあった。
http://blogs.yahoo.co.jp/hoshinabedon/25692387.html

さかい? (1) 藩境石の災難  長崎市小ヶ倉町ほか

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さかい? (1) 藩境石の災難  長崎市小ヶ倉町ほか

国道499号線女神大橋の2つ先が、長崎バス「白崎」バス停である。商店横から山手へ坂段を登って行くと、突きあたりの松尾宅の高い石垣に、「従是南佐嘉領」と刻まれた石柱が組み込まれている。
ここは旧大村領戸町村と佐賀領小ヶ倉村の藩境。長年の藩境紛争が天明7年(1787)解決し、新戸町とともに藩境石が建った。すぐ左の道には水場があり、坂段の中段あたりの竹林内が「白崎台場」だった。長い石柱が今も3本転がり、台場跡はここと言われている。

次は、諌早市唐比(からこ)の天満社。藩境石が神殿の礎石にされている。唐比蓮池の手前、旧街道沿いとなり、唐比交差点から右に入る。鳥居をくぐり境内に入ると、拝殿の奥に神殿があり裏側に回ってみると、「従是西佐嘉領」の長い標石2本が、写真のとおり建物の両端の礎石とされていた。
諌早市郷土館織田先生の調査では、この標石は諌早日記の嘉永四年(1851)十二月の記録になく他から運ばれたもので、後に造られたものか、石の寸法や頭部が記録にあるものと異なるようなので、現在は調査不明扱いとされているらしい。

そういえば諫早・古賀境となる井樋尾の御境石も、昭和57年の豪雨による地崩れで発見され、現在地に建立された。もとは、常盤坂口にあったものと思われる。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/285

祀る? 擁壁中と防波堤上の祠  長崎市蚊焼町

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祀る? 擁壁中と防波堤上の祠  長崎市蚊焼町

国道499号線蚊焼バス停から町中への道に下る。タカヒラ電器角を左折、蚊焼大川を渡った対岸の災害危険区域擁壁中の一角に、獅子に座った観音像を祀る。左右は首なし。浜津というところ。

海岸の防波堤上の石祠は、蚊焼漁港へ出て海岸通りを右手へ行く。エノキの大木がある先の桑原鍛冶工房前あたりである。村中というところ。防波堤上に直付けはあまり見ない。

釣れた? 釣具店の釣人 (2)  長崎市平山町

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釣れた? 釣具店の釣人 (2)  長崎市平山町

平山の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
Fishing shop OGAWA

きようまた国道を通りかかった。バージョンが変わっていた。前に釣ったのは磯靴のブーツだったが、浮き用の魚になっていた。やる〜!
カップルの相手も注視。足はむき出し。Gパンの裾を上げたか、履き替えている。帽子は後ろ向きへ。

東長崎の散策 (11) 船石の風景・史跡  長崎市船石町

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東長崎の散策 (11) 船石の風景・史跡  長崎市船石町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(11)は、船石の風景・史跡。

長崎街道からの船石入口と船石岳、船石入口の石垣バス停、船石町案内図、途中の石桁橋、千束野の石橋「下大野橋」、木場橋に残る旧親柱、木場公民館の大権現の碑、田嶋邸と並松翠鯉の苑、移設されている木場橋の欄干、田嶋邸先に残る石橋「千歳橋」、県営バス古賀木場終点、二双舟本田邸のタブの木

HP「長崎県の石橋を訪ねて」によると、船石町及び近辺で昭和57年長崎大水害により流失したアーチ式石橋は次のとおり。木場橋・すすき橋・山下橋・二双橋・千束野橋・角橋・鎧橋

東長崎の散策 (10) 中里の風景・史跡  長崎市中里町

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東長崎の散策 (10) 中里の風景・史跡  長崎市中里町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(10)は、中里の風景・史跡。古賀人形の屏風絵は、東長崎連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊の巻頭写真から。
旧本田家住宅(国指定重要文化財)は、中野公民館から右手の道へ入る。

大村庄屋跡、長崎街道地蔵橋の地蔵、古賀の藤棚、古賀人形(長崎県伝統工芸品)、栗原玉葉筆・古賀街道図屏風(左隻)、旧本田家住宅(国指定重要文化財)、フルーツの株式会社たらみ本社、長崎自動車道長崎多良見インター、古賀・諫早境井樋尾の御境石、多良見ライオンズクラブの長崎街道の碑

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  1〜    大村庄屋跡
安政5年(1858)大村の戸町と幕府領の古賀(上古賀)を交換した。上古賀と下古賀の境石標。①従是南大村領 ②従是東北大村領

東長崎の散策 (9) 古賀の風景・史跡  長崎市古賀町

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東長崎の散策 (9) 古賀の風景・史跡  長崎市古賀町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(9)は、古賀の風景・史跡。

矢上・古賀境の大楠跡付近、水害・キリシタン殉教者の供養塔、八郎川沿い長崎街道に移設されているキリシタン墓石、明治道の旧家と石桁橋、長崎街道古賀説明板(福端寺下)、福端寺と庭のキリシタン墓石、医療法人和仁会・和仁会病院、古賀八幡神社、長崎市古賀地区事務所・長崎市古賀地区市民センター、長崎県立西陵高校東長崎分校跡の碑、長崎県立諫早農業高校東長崎分校跡の碑、学校法人金丸学園・天童幼稚園、正念公民館近くの石橋「善八橋」、長崎バイパス上の津屋岳、三角点(標高302.7m)、山城跡の遺跡?

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  3〜    水害・キリシタン殉教者の供養塔
日本切支丹宗門史より寛永7年(1792)8月3日、古賀で元同地方の出であるが、死刑のため江戸から送り返された日本人の一武家が、首を鋸でひかれた。

写真  なし    寺の下川橋、慶正庵橋
寛政4年(1792)架設、後流失。

写真  8〜    福 端 寺
江戸時代キリシタン撲滅のため、時の島原藩主の命により建立された。

東長崎の散策 (8) 松原の風景・史跡  長崎市松原町

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東長崎の散策 (8) 松原の風景・史跡  長崎市松原町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(8)は、松原の風景・史跡。

長崎市植木センター、土塀の庭園、親和銀行保養所「迎仙閣」正門、庭の「松原乃たきみち」標石、玄関、屋敷、庭園の高浜虚子文学碑、子安観音、大正6年1月架「松隺橋」の残柱、赤瀬邸のラカンマキ、茂樹園の十三重の塔とクロマツ、JR肥前古賀駅、恵比須神社、南荘園のマキ、松花園のヒイラギ、長崎市立古賀小学校

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。なお、「迎仙閣」の吉井勇の文学碑は、昭和29年建立。「うつし世に やはらぎあれと 今日もまた 行仙嶽を 見つゝ祈りぬ」

写真  3〜    迎 仙 閣
昭和29年歌人吉井勇が本邸を訪れ、「迎仙閣」と名づけた。昭和21年、井上米一郎氏が、先代より継いだ紙業隆盛の頃、この地を選び、静寂の住家として建築した。庭園は、庭師西田治氏。井上氏没の後、親和銀行が譲り受けた。

写真  7〜    高浜虚子の文学碑
昭和30年建立。「芒塚 程遠からじ 守るべし」
※高浜虚子 本名 清(明治7年〜昭和33年)歌人・小説家。文化勲章受賞。

写真  9     子安観音
民間の安産や育児を祈願する子安から造られた。江戸時代初期、古賀地方にはキリスト教信仰だったが、その後禁制となり、仏教徒となったが、自分の信仰を捨て切れず、キリスト教を守ろうとした。それが子安観音ー聖母マリア様ーであったという。
又自然石に、鉄の十字架を彫り、聖母マリアとして信仰したという。最初は、サントピア学園の辺りにあったが、その後水害で下流に流されたという。松原町松確橋のたもとにある。

写真 12〜    赤瀬邸の羅漢槇(らかんまき)
元禄2年(1689)中国の浙江省から移植された樹齢600年といわれ、日本でも一番古いといわれる槇の木で、高さ9.6m・枝巾12m・幹周り3.8mである。

東長崎の散策 (7) 平間の風景・史跡  長崎市平間町

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東長崎の散策 (7) 平間の風景・史跡  長崎市平間町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(7)は、平間の風景・史跡。滝の観音と同奥の院。

滝の観音(長崎県指定名勝)の説明板、イチイガシの伏樹門、紅葉時の山門の景色、山門の仁王像、観音堂と秘仏の魚藍観音像、長崎大水害で壊された梵鐘、再建された羅漢橋と普済橋、観音の滝、磨崖の羅漢像、上部林道沿いにある原爆犠牲者を弔う石碑、同墓から入る滝の観音奥の院「玄津院」、玄津院の石造物、滝の観音歴代住職の墓、カイヅカとバショウの大木

長崎学さるく織田先生作成資料による「滝の観音」などの説明は次のとおり。

写真  1〜    滝の観音〜長瀧山霊源院 黄檗宗
弘法大師が、唐の留学を終えて帰朝のついでに、この地に寄り、滝水をご覧になり、水観音の梵字を滝の中に記した。万治2年(1659)黄檗木庵の法子鐵巌道廊、この地にきて、次年禅堂を建てる。この年、中国の商人、許登授は、滝の観音に参拝する。寛文7年(1667)許登授、本堂を寄進。

写真  9〜    石 橋
羅漢橋と普済橋は、元禄13年か又は以前の架設。「三庚辰年八月吉日 茂弥市郎同清六」かのえ〜たつ(コウシン)。普済橋は、県道改修の折り昭和11年の復元。
昭和57年の長崎大水害で流失したので、羅漢橋は、昭和61年、普済橋は62年に復元。設計及び監督指導は、石橋研究者の山口祐造氏。

写真 14〜    梵住山玄津院(滝の観音の奥の院)
石造物  右側 龍女 聖観音菩薩座像の脇侍 龍宮にいる龍王のむすめ、おとひめ
龍王 仏法を守護する 雨を祈る本尊龍神 水の神 海の神
中央 聖観音菩薩座像
左側 善財童子 仏道を修行するもの 文殊菩薩の従者
・平川与四右衛門  砥川村、現在は佐賀県小城郡牛津町砥川。木彫の持ち味を石彫で再現した彫技は見事である。
・石造物は、長崎の岡六郎兵衛が、3名の菩提を弔うために、元禄13年(1700)建立。

東長崎の散策 (6) 平間の風景・史跡  長崎市平間町

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東長崎の散策 (6) 平間の風景・史跡  長崎市平間町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(6)は、平間の風景・史跡。滝の観音と同奥の院は次へ。

国道34号線矢上側の滝の観音入口「瀧山観音道」標石(右側)、石窯パン・ピザの明夢工房、観音水の水場、長崎バイパス上から間の瀬を望む、新田頭の薬師院跡遺跡、同跡のケンポナシ、間の瀬中山の虚空蔵山、同地から矢上方面を望む、前岳トンネル上虚空蔵山の入口鳥居、大山尾根の藩境塚、標高424.2m地点(畦別当町)の大村郷村記に記す三方境塚