長崎街道と井樋ノ尾の「御境石」
長崎市内となる中里町までの藩境石は別項ですでに紹介している。長崎街道はこれより長崎自動車道の下を通り、平木場を経て諌早市の井樋ノ尾に入り、久山の方へ向かう。
井樋ノ尾にある「御境石」と多良見ライオンズクラブが建てた「長崎街道」の現地説明板は次のとおり。脇石にあるとおり境石は大水害のとき近くから発見された。刻は「従是東佐嘉領」、右面に字名の「井樋尾」がある。この辺りの山には境塚も築かれていると聞いている。
井樋尾「御境石」
文化五年(一八〇八)のイギリス船フェートン号事件以降、長崎港警固の必要から、安政六年(一八五九)幕府の命により大村領東泊(大浦村)を天領に繰り入れ、代地として古賀村を大村領とした。この御境石は、このとき長崎往還道の佐賀領喜々津村と大村領古賀村の領境に立てられたことが文献に記されている。
平成十一年七月 諌早市教育委員会
長 崎 街 道
江戸時代に我国唯一の外国貿易港として繁栄した長崎から江戸に通ずる幹線道路で長崎警固の諸大名の行列が通り西洋文化もこの街道から日本各地へ広まつていつた 多良見町内では古賀境から諌早久山茶屋峠間一五粁余が通つている 途中にはお籠立場や茶屋などがあつて旅人は名物の心天に舌つつみを打ちながら往来した 多良見町教育委員会
昭和六十年十月吉日 十周年記念 多良見ライオンズクラブ 建立
なお、多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊733〜734頁の記述は次のとおり。
9.領境石 「従是東佐嘉領 彼杵郡(こおり)ノ内井樋之尾」と刻んである。昭和57年の豪雨による地崩れで発見され、現在地に建立された。もとは、常盤坂口にあったものと思われる。