六枚板の「川平金山」と被爆者「三山救護班」の記録

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

六枚板の「川平金山」と被爆者「三山(三ッ山)救護班」の記録

長崎市三ッ山町六枚板の「川平金山の坑口と金湯鉱泉の跡」は、すでに前に別項で載せ、場所なども写真で紹介している。この中でふれていた内容について、以下のとおり文献の記録があったから、抜粋してみる。

藤野保編「大村郷村記 第六巻」図書刊行会昭和57年刊250頁、「浦上木場村」から

金山の事

一 元禄六癸酉年、長崎淵村庄屋藤右衛門と申者相願候者、六枚板と申所へ金気有之候、場所見立申候、依之少々相試申度由浦上手代山口傳兵衛を以、訴訟二付差免し、当正月より四月下旬まで掘し處、此方えさし七右衛門与申者数年薩摩の金山罷在、切者の由二付為見候處、成程金気有之候、併禰とに掘付申候は、未た三、四尋の間にては有之間敷由申候事
一 木場村の内乳母・田原・川筋三ヶ所に金気相見へ候付、百姓新蔵と申者享保八癸卯年間掘せしなり、此地西方ハ田原、東ハ墓所にて、つる先ハ右墓所に当り見ゆると云

片岡弥吉著「永井隆の生涯」中央出版社昭和36年刊173〜179頁から

三山救護班 

義母と二児は、三山町木場藤ノ尾というところに家一軒借りてそこに疎開させていたので、そこにひとまず落ち着くことにした。そこには、負傷者もかなり落ちていっているであろう。物療科の救護本部もとりあえず、そこにおくことにした。墓に行って妻の骨を埋める。二里の山道をつえにすがって三山に向かった。
永井さんが板戸をあけて土間にはいると、誠一(当時十二才)カヤノ(六才)のふたりの子がセミをつかまえて鳴かせていた。血だらけの父を見てふたりの子はどきっとしたようにあとすざりした。
じっと父の顔を見つめていた誠一が急いで門口をのぞいた。しかしそこには待つ母の姿はなかった。
永井さんは母を失った子を慰める暇もなく、すりこぎとなってまた駆けずりまわる。
ここは浦上川の水源となっている緑深い谷間の村である。藤の尾の永井さんの家の下を、すがすがしい谷川が流れている。教室員一同は、この川におりて水浴びをした。みな生き返った思いがした。からだの血を落とし、血まみれの衣服を洗って干した。
裸になって永井さんは、右半身に数えたくもないほど多くのガラス破片創を受けているのを発見して驚いた。衣服がかわくまで木の陰に昼寝をした。みなぐっすり眠っていた。
木場には二百五十名ばかりの負傷者がいた。高見さんの家だけでも純心聖母修道会のマダレナ江角会長以下数名の修道女をはじめ、百人もの人が寝ている。
カトリック村であるここの人たちは、こうしてたくさんの傷病者を宿していたばかりでなく、永井さんの医療隊にも心から協力支援してくれた。
永井医療隊は、夕方、戸別的に巡回診療を始めた。傷の上をただありあわせの布で巻いたばかりで、ここにかつぎこまれている患者が多かった。この布をひきはぐと、くさい膿がどろりと出る。クレゾールで洗い清めると、ガラス片、コンクリートのかけらなどが出てくる。ひとりでこんな傷を百十ヵ所も負うているのがあった。傷を洗い、消毒して縫合し、薬をつけてほうたいする。やけど患者には、近くの六枚板にわく含鉄冷泉を暖めて罨法(あんぼう)するように指導した。
六枚板、赤水、とっぽ水、踊瀬と谷間谷間や山の中腹に点々と広がっている部落には、どこにも患者がいた。山の中にむしろをはってころがっている者もあった。
ひとりも手当をもらさぬように、永井さんを中心にここの医療隊は、朝早くから夜おそくまで患者をたずねては手当をしてまわった。一日八キロの道を歩くことも多い。永井さん自身のからだは日に日に衰えて、少しの坂道になるともう登る力さえないのを、元気な久松看護婦が、うしろから永井さんのからだをおしあげるようにし、つえに力をこめて一歩一歩と、愛と苦難の道を歩み進んでゆく。
「頭にほうたいをし、つえをつき、うしろから看護婦におしあげられながら毎日欠かさず診療にまわられたあのとうとい先生のご日常に接し、精神力の偉大さにつくづく心を打たれました。今なお思い出して頭がさがります。」と久松さんは述懐している。
十四日、上弦の月に淡く照らされた山路を帰途につきながら、大きなからだがドタリと倒れた。右足がけいれんを起こしたのである。みんなよってたかってマッサージした。椿山看護婦の肩によりかかりながら、一キロ歩いたら看護婦が倒れた。それをふたりの看護婦が腕組みして助け、永井さんは施副手が背おった。本部まであと二キロ。
十五日は聖母の被昇天の大祝日、木場教会でミサにあずかっている最中に敵機来襲、ミサは中止された。
正午、無条件降伏ポツダム宣言受諾の天皇放送、終戦である。大学本部に連絡に行った施副手が町から聞いて帰った。
敗戦! みんな泣いた。めしもたかず茶も飲まず、診療もしない、きょうもあすも、心身の力が全く抜けてしまった。
ようやく医療隊の本分に魂を返したのは十七日、再び診療を開始した。医療隊はあらゆる工夫をこらして救護に力を尽くしたが、患者はつぎつぎに死んでゆく。
六枚板鉱泉を用いる鉱泉療法、薬物療法のほか、自家血液刺激療法を始めた。これは患者の血液を二CCとり、そのままその患者の臀筋肉に注射する。この療法を始めたらもう死ぬ者がなかった。
肉体の生命を助けえなければ、せめて魂だけなりと救いたいと、この人々のために祈り励ました。
ある日の夕方、永井さんは久松婦長を連れて、特に気づかわれていた重症の一患者を往診した。手当がすんだころ、
「先生、私はもうだめです。いろいろお世話になりました。」
カトリック信者であるこの患者はいった。
「そうですか。バラの花の咲き乱れる天国はいいですね。私もそのうちに参ります。では天国でまた会いましょう。」
なんのこだわりもなく日常のあいさつをかわすように答える。患者が久松婦長に同じようにあいさつした。
婦長さんは、永井さんのそっけないあいさつに小さな憤りさえ感じていた。さきほどから患者に同情しておさえきれぬ悲しい心になっている。
「死ぬなんて気の弱いことをいわないで、養生なさればきっとなおりますよ。力を落さないでね。」
と、繰り返し慰めてそこを出た。
「君はなぜあんなつまらない慰めごとをいったのだ。せっかく、天国へのがいせんを描いて心を落ち着けていたのに。君はまだ死ぬのがこわいのだろう。」
途中、ふり向いた永井さんはこう婦長さんを叱った。ぎくりとして婦長さんは立ちどまった。思いがけないことばである。薬を入れた買物かごをさげたまま呆然としている婦長をふり返りもせず、なにごともなかったように永井さんは例のごとくつえを右手によっちよっちと歩いてゆく。
「先生の臨終に会い、先生が、死を恐れるどころか、むしろ喜び迎えるような態度で死を待っていられるのを見て、この時の先生のことばがようやくわかりました。信者でない私は、この時までカトリック死生観を少しもわかっていなかったのでした。」
久松さんは永井さんの死後こう語った。
江角会長をはじめ、純心聖母会の修道女たちは、小川のそばに小さなバラックを建てて、高見さんの家からひっこした。江角会長の皮膚には斑点が出ていたが、永井さんの治療を受けてようやく死地を脱した。しかしまだ安心とはいえない。他に何人かの修道女も寝こんでいる。
九月二十日、永井さんは、この小さな修道院を訪れて修道女たちの手当をした。もう日暮に近かった。永井さんの疲労が目に見えて増大している。
「そんな無理しないで、今日はもうお休みなさい。」
「いいえ、まだあの山のほうに患者が待っています。」
「知りませんよ。そんな無理ばかりなさって。」
江角会長の声を背に受けながら、うしろからおされるようにして永井さんは飛田という山の上の部落に登ってゆく。よたよたと歩く永井さんと医療隊員のうしろ姿を見送りながら、修道女たちの胸には熱いものがこみあげてきた。