月別アーカイブ: 2009年6月

東長崎の散策 (5) 高城台と現川の風景・史跡  長崎市高城台・現川町

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東長崎の散策 (5) 高城台と現川の風景・史跡  長崎市高城台・現川町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(5)は、高城台と現川の風景・史跡。

高城台団地から矢上方面を望む、高城神社、長崎市立高城台小学校(2008年4月開校)、JR現川駅、駅横の現川物産館、長崎大水害で流失した樫ノ木渡瀬橋、長崎市立高城台小学校現川分校と名桜二世、加勢首にあった剣道場「錬武館」跡と樋口家墓・顕彰碑、現川峠中腹の弁天様と連理樹だった大スギ、山の神神社のアラカシ、現川焼陶窯跡(長崎県指定史跡)、創始者窯観音と田中家墓地の喜山宗悦居士墓、現川バス停から現川虚空蔵山を望む、現川虚空蔵山の山頂祠、帆場岳(三ツ山)山頂近くの陸軍省「長崎要塞区域標」「第三十六号」

長崎学さるく織田先生作成資料による「現川焼」の説明は次のとおり。

写真  14〜       現川焼〜陶器
・元禄4年(1691)田中刑部左衛門が、有田より移り住み焼きはじめた。延享(1744〜47)の頃より、山方不景気になり、寛延2年(1749)頃にはすでになくなっていた。
・現川の特徴は、チョコレート色の膚に、筆さばきもあざやかな白化粧土による刷毛目の文様は、変化に富んだうつわの形と、描かれたしゃれた絵模様と一体となり、優雅な雰囲気を持っている。
・県指定史跡 現川焼陶窯跡  陶窯跡〜観音窯跡〜窯尻
窯観音〜元禄17年(1704)歳次甲申3月吉日。台座に本願主 田中宗悦内、同甚内内、重富茂兵衛内、施主ほか、当村観音講中拝立
・田中墓地  寶永八年(1711)辛卯正月二十日 同會喜山宗悦居士。享保八(1723)葵卯大三月ニ十八日 同會昌福壽大姉
・鬼木上(尾似木)窯跡  昭和57年長崎大水害の折、窯跡が見られた。 

島原街道の田結にある道案内の標石  諌早市飯盛町里

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島原街道の田結にある道案内標石  諌早市飯盛町里

長崎学さるく行事で5月31日、島原街道を矢上から江の浦まで歩いた。講師の諌早市郷土館織田先生が教えてくれた標石。国道251号線は、東田結交差点で池下・大門を回ってきたもう一方の国道と合い、カーブして田結川を渡る。
川の国道ガード下にかがんで通る小橋がある。この小橋の道が昔の島原街道となる。渡ってコンクリート舗装した里道を登って行くと、すぐの三叉路に道案内の標石が立っていた。

正面「←江ノ浦 有喜 島原 諫早、→戸石 矢上 長崎方面」、右側面「→西明寺ヲ経テ江ノ浦 船津」、左側面「寺平青年団」の刻み。14cm角、高さ55cmの標柱。年代の刻みはない。新しい感じがする。先生の話では大正時代のものでなかろうかということ。
この小道をまっすぐ登ると、国道から中村三郎の歌碑がある西明寺へ上がる車道にいったん出た。だからこのあたりの地名は寺平であろう。島原街道は2つある現在の飯盛トンネル上へと登って行った。

青年団が建てた道案内の標石は、長崎市茂木町の河平川谷間に例がある。「戸町ニ至ル」「昭和三年十一月 御大典紀念 河平青年団」。これと似たような造りと彫りで、田結の標石の年代は、やはりこのあたりであろう。

長崎学さるく “龍馬が歩いた道ー島原街道を矢上宿より江の浦まで” (2)  平成21年5月

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長崎学さるく “龍馬が歩いた道ー島原街道を矢上宿より江の浦まで” (2) 平成21年5月

平成21年5月31日(日)快晴。長崎学さるく幕末編第5回 “龍馬が歩いた道ー島原街道を矢上宿より江の浦まで” 講師は、諫早市郷土館織田武人先生。参加38人。

矢上バス停9時半発ー矢上宿矢上神社ー*教宗寺ー樋口の渡瀬飛び石矢上橋ー侍石ー山の神侍石神社ー涼松(涼々松)ー戸石と矢上境の石仏ー戸石馬頭観音ー一里塚(墳)跡ー戸石の渡瀬と戸石橋ー戸石のお茶屋跡を望むー*戸石の六地蔵塔(長崎市有形民俗文化財)ー*戸石地区公民館(昼食)は、(1)

尾崎に戻りー*上川内の原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点ー*川内神社の大杉ー諫江八十八ヶ所第65番札所(八幡神社鳥居脇)ー西明寺分岐の道標ー飯盛トンネル上の峠ー椎ノ木坂ー江の浦嵩のラジオゾンデ落下地点ー嵩の造酒屋跡ー普同寺前ー飯盛中学校ー飯盛東小学校ー*諌早市飯盛支所前三本杉バス停15時半着は、(2)。(徒歩全約12km)

坂本龍馬と勝海舟の関係、勝海舟日記、諫早日記の記述は、当日配布資料によると次のとおり。他文献(慶応2年徳島より長崎へ留学 長井長義著「長崎日記」等)による街道の距離数から、愛津・有喜・江の浦・矢上を経由した島原街道の道が考えられる。
*は、島原街道の道からはずれた見学場所。

海舟はオランダ語の取得を志し、やがて西洋兵学に熟達して名前を知られるようになった。安政2年(1855)に、下田取締掛手付となり、それ以後も昇進していく。龍馬が海舟の自邸を訪れ、迎えたのは海軍奉行並に昇進になった間もない文久2年(1862)であった。
龍馬と海舟との出会いは、剣術修行時代の剣客千葉定吉の子、重太郎に誘われて越前福井藩主松平春嶽と会う。さらに春嶽から海舟を紹介されて会い、その識見に魅せられて海舟の門下となった。
文久3年(1863)4月に神戸海軍操錬所(幕府設立)と海舟の私塾である海軍塾もつくることも認められ、この塾頭に龍馬が任命された。翌元治元年(1864)2月、海舟は外国艦隊の下関攻撃を回避するために長崎に出張する海舟に龍馬は同行する。

③勝海舟日記より    文久4年2月20日に元治元年と改元
文久4年2月 7日 ・長崎へ御用のため出張を命ぜらる
2月14日 ・神戸出帆、瀬戸内海より15日豊前佐賀関着船・豊後街道通過
2月19日 ・横井先生へ龍馬を遣わす
2月21日 ・高橋(熊本)乗船、此夜島原へ渡る (海上〜島原 7里)
2月21日 ・払暁(22日明け方)島原着船
2月22日 ・会津に宿す (島原〜会津 8里 泊まり) 
2月23日 ・長崎着、日見峠甚だ難所。福済寺、旅宿となる (会津〜長崎 8里)
2月23日より4月4日 長崎滞在
4月 4日 ・長崎出立、矢上昼食
4月 5日 ・島原着
4月 6日 ・渡海、熊本着、肥後侯より使者あり、龍馬を横井先生方に遣わす
4月10日 ・佐賀関着
4月11日 ・出帆

④諫早日記 文久四年正月より四月迄
文久四年三月朔日 曇
一 今度下向御目附熊野重之助殿、先月十八日豊前中津江 着岸相成候由ニ付、
御軍艦奉行並 勝 麟太郎殿     上下 廿一人
御目附      能勢 金之助殿       同 拾六人
御徒目附    大木 六郎  村上与七郎    同 三人ツツ
小人う目附   中山 七太郎  小沢 鍋太郎   同 弐人ツツ
手覚
御軍艦奉行並 勝麟太郎殿 御目附熊野金之助殿、肥後より嶋原渡海
去ル廿三日矢上御昼休ニ而御着崎相成候由ニ付、

宮さんのブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/17525805.html
次回は9月13日(日)に、大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり。夏号に掲載あり。

長崎学さるく “龍馬が歩いた道ー島原街道を矢上宿より江の浦まで” (1)  平成21年5月

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長崎学さるく “龍馬が歩いた道ー島原街道を矢上宿より江の浦まで” (1) 平成21年5月

平成21年5月31日(日)快晴。長崎学さるく幕末編第5回 “龍馬が歩いた道ー島原街道を矢上宿より江の浦まで” 講師は、諫早市郷土館織田武人先生。参加38人。

矢上バス停9時半発ー矢上宿矢上神社ー*教宗寺ー樋口の渡瀬飛び石矢上橋ー侍石ー山の神侍石神社ー涼松(涼々松)ー戸石と矢上境の石仏ー戸石馬頭観音ー一里塚(墳)跡ー戸石の渡瀬と戸石橋ー戸石のお茶屋跡を望むー*戸石の六地蔵塔(長崎市有形民俗文化財)ー*戸石地区公民館(昼食)は、(1)

尾崎に戻りー*上川内の原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点ー*川内神社の大杉ー諫江八十八ヶ所第65番札所(八幡神社鳥居脇)ー西明寺分岐の道標ー飯盛トンネル上の峠ー椎ノ木坂ー江の浦嵩のラジオゾンデ落下地点ー嵩の造酒屋跡ー普同寺前ー飯盛中学校ー飯盛東小学校ー*諌早市飯盛支所前三本杉バス停15時半着は、(2)。(徒歩全約12km)

坂本龍馬と勝海舟の関係、勝海舟日記、諫早日記の記述は、当日配布資料によると次のとおり。他文献(慶応2年徳島より長崎へ留学 長井長義著「長崎日記」等)による街道の距離数から、愛津・有喜・江の浦・矢上を経由した島原街道の道が考えられる。
*は、島原街道の道からはずれた見学場所。

海舟はオランダ語の取得を志し、やがて西洋兵学に熟達して名前を知られるようになった。安政2年(1855)に、下田取締掛手付となり、それ以後も昇進していく。龍馬が海舟の自邸を訪れ、迎えたのは海軍奉行並に昇進になった間もない文久2年(1862)であった。
龍馬と海舟との出会いは、剣術修行時代の剣客千葉定吉の子、重太郎に誘われて越前福井藩主松平春嶽と会う。さらに春嶽から海舟を紹介されて会い、その識見に魅せられて海舟の門下となった。
文久3年(1863)4月に神戸海軍操錬所(幕府設立)と海舟の私塾である海軍塾もつくることも認められ、この塾頭に龍馬が任命された。翌元治元年(1864)2月、海舟は外国艦隊の下関攻撃を回避するために長崎に出張する海舟に龍馬は同行する。

③勝海舟日記より    文久4年2月20日に元治元年と改元
文久4年2月 7日 ・長崎へ御用のため出張を命ぜらる
2月14日 ・神戸出帆、瀬戸内海より15日豊前佐賀関着船・豊後街道通過
2月19日 ・横井先生へ龍馬を遣わす
2月21日 ・高橋(熊本)乗船、此夜島原へ渡る (海上〜島原 7里)
2月21日 ・払暁(22日明け方)島原着船
2月22日 ・会津に宿す (島原〜会津 8里 泊まり) 
2月23日 ・長崎着、日見峠甚だ難所。福済寺、旅宿となる (会津〜長崎 8里)
2月23日より4月4日 長崎滞在
4月 4日 ・長崎出立、矢上昼食
4月 5日 ・島原着
4月 6日 ・渡海、熊本着、肥後侯より使者あり、龍馬を横井先生方に遣わす
4月10日 ・佐賀関着
4月11日 ・出帆

④諫早日記 文久四年正月より四月迄
文久四年三月朔日 曇
一 今度下向御目附熊野重之助殿、先月十八日豊前中津江 着岸相成候由ニ付、
御軍艦奉行並 勝 麟太郎殿     上下 廿一人
御目附      能勢 金之助殿       同 拾六人
御徒目附    大木 六郎  村上与七郎    同 三人ツツ
小人う目附   中山 七太郎  小沢 鍋太郎   同 弐人ツツ
手覚
御軍艦奉行並 勝麟太郎殿 御目附熊野金之助殿、肥後より嶋原渡海
去ル廿三日矢上御昼休ニ而御着崎相成候由ニ付、

宮さんのブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/17525805.html
次回は9月13日(日)に、大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり。夏号に掲載あり。