東長崎の散策 (5) 高城台と現川の風景・史跡 長崎市高城台・現川町
西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。
東長崎の散策(5)は、高城台と現川の風景・史跡。
高城台団地から矢上方面を望む、高城神社、長崎市立高城台小学校(2008年4月開校)、JR現川駅、駅横の現川物産館、長崎大水害で流失した樫ノ木渡瀬橋、長崎市立高城台小学校現川分校と名桜二世、加勢首にあった剣道場「錬武館」跡と樋口家墓・顕彰碑、現川峠中腹の弁天様と連理樹だった大スギ、山の神神社のアラカシ、現川焼陶窯跡(長崎県指定史跡)、創始者窯観音と田中家墓地の喜山宗悦居士墓、現川バス停から現川虚空蔵山を望む、現川虚空蔵山の山頂祠、帆場岳(三ツ山)山頂近くの陸軍省「長崎要塞区域標」「第三十六号」
長崎学さるく織田先生作成資料による「現川焼」の説明は次のとおり。
写真 14〜 現川焼〜陶器
・元禄4年(1691)田中刑部左衛門が、有田より移り住み焼きはじめた。延享(1744〜47)の頃より、山方不景気になり、寛延2年(1749)頃にはすでになくなっていた。
・現川の特徴は、チョコレート色の膚に、筆さばきもあざやかな白化粧土による刷毛目の文様は、変化に富んだうつわの形と、描かれたしゃれた絵模様と一体となり、優雅な雰囲気を持っている。
・県指定史跡 現川焼陶窯跡 陶窯跡〜観音窯跡〜窯尻
窯観音〜元禄17年(1704)歳次甲申3月吉日。台座に本願主 田中宗悦内、同甚内内、重富茂兵衛内、施主ほか、当村観音講中拝立
・田中墓地 寶永八年(1711)辛卯正月二十日 同會喜山宗悦居士。享保八(1723)葵卯大三月ニ十八日 同會昌福壽大姉
・鬼木上(尾似木)窯跡 昭和57年長崎大水害の折、窯跡が見られた。