長崎学さるく “龍馬が歩いた道ー島原街道を矢上宿より江の浦まで” (1) 平成21年5月
平成21年5月31日(日)快晴。長崎学さるく幕末編第5回 “龍馬が歩いた道ー島原街道を矢上宿より江の浦まで” 講師は、諫早市郷土館織田武人先生。参加38人。
矢上バス停9時半発ー矢上宿矢上神社ー*教宗寺ー樋口の渡瀬飛び石矢上橋ー侍石ー山の神侍石神社ー涼松(涼々松)ー戸石と矢上境の石仏ー戸石馬頭観音ー一里塚(墳)跡ー戸石の渡瀬と戸石橋ー戸石のお茶屋跡を望むー*戸石の六地蔵塔(長崎市有形民俗文化財)ー*戸石地区公民館(昼食)は、(1)
尾崎に戻りー*上川内の原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点ー*川内神社の大杉ー諫江八十八ヶ所第65番札所(八幡神社鳥居脇)ー西明寺分岐の道標ー飯盛トンネル上の峠ー椎ノ木坂ー江の浦嵩のラジオゾンデ落下地点ー嵩の造酒屋跡ー普同寺前ー飯盛中学校ー飯盛東小学校ー*諌早市飯盛支所前三本杉バス停15時半着は、(2)。(徒歩全約12km)
坂本龍馬と勝海舟の関係、勝海舟日記、諫早日記の記述は、当日配布資料によると次のとおり。他文献(慶応2年徳島より長崎へ留学 長井長義著「長崎日記」等)による街道の距離数から、愛津・有喜・江の浦・矢上を経由した島原街道の道が考えられる。
*は、島原街道の道からはずれた見学場所。
海舟はオランダ語の取得を志し、やがて西洋兵学に熟達して名前を知られるようになった。安政2年(1855)に、下田取締掛手付となり、それ以後も昇進していく。龍馬が海舟の自邸を訪れ、迎えたのは海軍奉行並に昇進になった間もない文久2年(1862)であった。
龍馬と海舟との出会いは、剣術修行時代の剣客千葉定吉の子、重太郎に誘われて越前福井藩主松平春嶽と会う。さらに春嶽から海舟を紹介されて会い、その識見に魅せられて海舟の門下となった。
文久3年(1863)4月に神戸海軍操錬所(幕府設立)と海舟の私塾である海軍塾もつくることも認められ、この塾頭に龍馬が任命された。翌元治元年(1864)2月、海舟は外国艦隊の下関攻撃を回避するために長崎に出張する海舟に龍馬は同行する。
③勝海舟日記より 文久4年2月20日に元治元年と改元
文久4年2月 7日 ・長崎へ御用のため出張を命ぜらる
2月14日 ・神戸出帆、瀬戸内海より15日豊前佐賀関着船・豊後街道通過
2月19日 ・横井先生へ龍馬を遣わす
2月21日 ・高橋(熊本)乗船、此夜島原へ渡る (海上〜島原 7里)
2月21日 ・払暁(22日明け方)島原着船
2月22日 ・会津に宿す (島原〜会津 8里 泊まり)
2月23日 ・長崎着、日見峠甚だ難所。福済寺、旅宿となる (会津〜長崎 8里)
2月23日より4月4日 長崎滞在
4月 4日 ・長崎出立、矢上昼食
4月 5日 ・島原着
4月 6日 ・渡海、熊本着、肥後侯より使者あり、龍馬を横井先生方に遣わす
4月10日 ・佐賀関着
4月11日 ・出帆
④諫早日記 文久四年正月より四月迄
文久四年三月朔日 曇
一 今度下向御目附熊野重之助殿、先月十八日豊前中津江 着岸相成候由ニ付、
御軍艦奉行並 勝 麟太郎殿 上下 廿一人
御目附 能勢 金之助殿 同 拾六人
御徒目附 大木 六郎 村上与七郎 同 三人ツツ
小人う目附 中山 七太郎 小沢 鍋太郎 同 弐人ツツ
手覚
御軍艦奉行並 勝麟太郎殿 御目附熊野金之助殿、肥後より嶋原渡海
去ル廿三日矢上御昼休ニ而御着崎相成候由ニ付、
宮さんのブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/17525805.html
次回は9月13日(日)に、大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり。夏号に掲載あり。